41.策士安舎
夕日が瀬戸内の海を鮮やかな茜色に染め上げた頃。
あの使者は再び安舎の前に姿を見せた。
「大祝殿。お目通りをお許し頂き、まことに忝く存じます」
使者は変わらずきびきびと挨拶の言葉を述べた。
「うむ。お手前も何度もこなたに足をお運び頂き、ご苦労に存ずる」
「なんの」
安舎の労いに、使者はまだ若い顔を僅かに綻ばせた。
それも束の間。
その表情は俄かに引き締まる。
「して大祝殿。申し入れの儀のご返答や如何に」
「うむ」
安舎は用意した書状を手に取ると、手づから使者に差し出した。
「皆と相談を重ねた結果、陶殿のお申し入れをお受けすることに致した。仔細はこれに記してある故、陶殿に御披見頂きたい」
「ははっ、有難き幸せ」
使者は深く首を垂れると、安舎ににじり寄った。
そして、恭しい態度で書状を受け取る。
「では、こなたより、我が総大将より預かりし書状をお渡し致します。この場にてご披見下さりませ」
使者は懐より書状を取り出すと、傍に控えていた安正に手渡した。
「大祝殿」
安正は書状の向きを変え、安舎に差し出す。
「では、拝見致そう」
安舎は鷹揚に頷くと、陶隆房の書状に目を通した。
「書状によれば、明朝巳の刻(午前10時頃)までにこなたの方で三島水軍の武装解除を行い。そちらの軍奉行殿の確認が済み次第、陶殿が我が社に来られるとあるが」
「御意。その場で大祝様の代替わりを見届けられた後、鶴姫様をお預かり致します」
「それで、陶殿は周防に戻られるのじゃな」
「はい。大三島には守備の兵のみを残し、粗方の船は引き上げる手筈となってござります」
「なるほどのう。相分かった」
安舎はここで、やるせない溜息をついた。
「大祝殿。何か、ご懸念でも?」
使者は微かに眉根を寄せて、尋ねてきた。
「あ、いや。そなたに聞かせる話ではないのだが――」
安舎は悲痛な表情を浮かべた。
「実は昨夜、陣代を務めた越智安成殿が、薬石効なく落命されたのじゃ」
「……」
「安成殿は我が妹の許嫁。秋には祝言を上げる手筈になっておった」
「それは、お気の毒なことにござりました」
「我が妹の悲しみは深く、安成殿の亡骸から離れようとせぬ有様で……」
安舎は袖で涙を拭う素振りをした。
「鶴姫を早々に明け渡せとのことであれば、暫し猶予を願おうと思っておったが――有難いことに陶殿におかれては一晩の猶予を下された。これなれば鶴姫も安成殿と十分別れの時を過ごせよう」
「……」
使者は若い顔を曇らせた。
なんと言葉をかけてよいやら、分からぬと言った風情で。
「や、これは。つまらぬ話をお聞かせ致したな」
安舎は悲しみの中に小さな笑みを作った。
「兎も角も、委細承知したと、陶殿にはお伝え下され」
「ははっ……承知致しました」
使者は深々と頭を下げた。
(――これで良し)
安舎は冷徹な表情で使者の髷を眺める。
(この者は気立ての良い若者と見ゆる。必ずや今の話を陶隆房に聞かせよう)
(敵への布石は打った。あとは、こなたの方じゃ)
安舎が予見した通り。
使者に立った若者は、隆房に一部始終を報告した。
「なんと……戦の倣いとはいえ、お気の毒な事であるな」
隆房は書状を読む手を止め、沈痛な呻き声を上げた。
「鶴姫様は片時も安成殿の骸から離れようとはされぬとか」
「むう」
隆房は、海の向こうに浮かぶ大三島に視線を転じる。
「だが、鶴姫殿を人質にするは、御屋形様の命じゃ――是非も無き事よ」
やるせない溜息がその唇から漏れた。
(大三島は深い悲しみの中であるか)
(であれば――やぶれかぶれな仕儀に及ぶことはなかろう)
(三島勢よ。何事も起こさず、大人しくしておれよ。互いに取りて、それが最もよいことぞ)
同じ頃。
鶴姫は甲斐甲斐しく安成の世話を焼いていた。
紅梅色の小袖にたすき掛けを施し、前掛けをしているその姿は、まるで新妻のようだ。
「安成様。お水を」
鶴姫は安成の身体を優しく抱き起すと、片口に入った水をそっと傾ける。
安成は口を小さく開けて、その水を受け止めた。
安成の喉が、上下に動いた。
「もう少し、飲まれますか?」
「いや――もう十分です」
「では、横になりましょう」
鶴姫は慎重に安成の身体を横たわらせた。
「後で、重湯をお持ちします。薬師殿もそれ位なら口にしても宜しかろうと」
「鶴姫殿。何から何まで済まぬことです」
「何を申されます」
鶴姫は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「我はもうじき、安成殿の妻になるのです。その女に何の遠慮が要りましょうや」
鶴姫は知らなかった。
陶隆房から出された和睦の条件を。
安舎が彼女の耳に入れぬよう、固く口止めした故のことである。
「お鶴。少し良いか」
障子の外から、安舎の声がした。
「安成様。少々外します」
鶴姫は安成に声をかけると、障子の向こうへ姿を消した。
「兄上、どうしました?」
「お前に頼みたいことがあるのだ。共に来てくれ」
「……はい」
鶴姫は不思議そうな顔をしたが、素直に頷いた。
鶴姫の後ろ姿が廊下の向こうへと消えた時。
越智安正は、息子の枕元に腰を下ろした。
「安成。起きておるか」
「はい、父上」
「お前に、申し伝えたいことがある。心して聞け」
安正は、大祝の男衆が立てた「計画」の内容を、安成に明かした。
「なんと……そのようなことを」
安成は茫然と呟いた。
「皆、全てを飲み込んだ上でこれをやるのだ。こうするより他に、あのお方をお守りすることは叶わぬ」
「しかし、それでは」
「この先は、お前が誠心誠意あのお方をお守り申し上げるのだ」
安正は、力強く息子の肩を掴んだ。
「それが、あのお方の身代わりとして立つものが望んだ事じゃ。その思いを無下にしてはならぬ。よいな、安成」
「――っ」
安成は左手で目元を覆った。
その指の間から、涙が一筋、伝って消えた。




