40.守るべきもの
「……」
安舎は、よろよろと立ち上がった。
「大祝様……?」
「ちと、考えたい。ひとりにしてくれ」
安舎は青白い顔に何の表情も浮かべぬまま、ぼそぼそと呟いた。
「はっ……」
一同が頭を下げる中、安舎はふらふらと奥へと消えて行った。
(神よ……大山積の神よ)
(私は、どうすればよいのでしょうか)
(私が大祝のお役目を辞することは構いません)
(なれど……我が妹、お鶴が周防へと連れて行かれるのは、兄としては断じて許容致し難く)
(神よ、神よ。私は、どうしたら――)
安舎の祈りに、大山積の神は無言を貫いた。
己が信念に従って決断せよ。
そう促しているかのように。
「兄上!」
祈りを捧げる安舎の背後で、弾むような妹の声がした。
「……お鶴か」
振り向くと、鶴姫はぐしゃぐしゃの顔で泣きながら笑っていた。
「どうしたのじゃ、その顔は」
「安成様が、安成様が――」
鶴姫は、兄の胸にどん、と額を押し当てた。
「先ほど、お目覚めになりました!」
「なんと……それはまことか!」
「はい!見事黄泉平坂よりご帰還なされました!」
鶴姫の双眸から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「お鶴、良かった。ほんに良かったのう!」
安舎は鶴姫の身体をそっと抱きしめた。
「はい……兄上、ありがとう、ありがとうござります」
「さ、早う薬師殿を呼んで参れ」
「はい!」
鶴姫が、ぱたぱたと音を立てて走り去っていく。
その嬉し気な後ろ姿を、安舎は優しい眼差しで見つめ――。
そして、決意を以て独り言ちた。
「あれを、周防などにやるわけにはいかぬ――な」
安舎は、庭先に仕える弥次郎を呼んだ。
「お呼びでしょうか」
「うむ。急ぎ鶴丸を連れて来てくれ」
「鶴丸を――でござりますか」
弥次郎は微かに眉根を寄せた。
「そうじゃ。兄として相談したいことがある」
「……はっ。直ちに」
弥次郎は軽く頭を下げると、すぐにその場を立ち去った。
(大祝様は、兄としてと申された)
(そも、大祝様が鶴丸を呼び出されるのはこれが初めてじゃ)
(――何か、儂などには思いもよらぬ、大きなことが起ころうとしているのか……)
弥次郎の胸に、理由の分からない不安が広がろうとしていた。
果たして。
鶴丸は住まいの庭で、太郎次と並んで武具の手入れをしていた。
「おお、弥次郎殿。親父なら中におるぞ」
弥次郎の顔を見た鶴丸は、のんびりとした口調でそう言った。
どうやら、怪我をした治右衛門の見舞いに来たと思ったようだ。
「いや。鶴丸。お前に用があって来たのじゃ」
「俺に?お鶴からの言伝か?」
「さにあらず。此度は大祝様のお召しじゃ」
「えっ」
鶴丸の顔に、不安がよぎった。
(大祝様が、俺を?)
「鶴丸、早う」
「あっ……」
鶴丸は弾かれたように立ち上がると、手拭いで鼻から下を覆った。
「兄者。ちと行って参る」
「お、おう」
太郎次は戸惑いのままに弟を見送った。
鶴丸が通されたのは、安用の居室だった。
「大祝様。鶴丸をお連れしました」
「入ってくれ」
「はっ」
鶴丸は音もなく障子を開けると、中に入った。
「中津鶴丸、お召しにより罷り越しました」
鶴丸は片膝をついて首を垂れる。
「うむ。急に済まぬな。さ、顔を上げてくれ」
「はい」
鶴丸が顔を上げると、そこには三人の男達が居た。
前の大祝職、安用。
現大祝職、安舎。
そして、越智安正。
「大祝殿。この者は」
安正が怪訝そうな声を上げる。
安舎はそれには答えず、
「鶴丸。顔を見せよ」
静かな声で命じた。
「……」
鶴丸は小さく頷くと、顔から手拭いを外した。
「これは――!」
その顔を見た安正は、言葉を失った。
まさに、この男。
鶴姫と鏡写し。
「驚かれたかな、安正殿」
安用はおもむろに口を開いた。
「この者は、私の息子――鶴姫と畜生腹だった故、赤子の折に捨てた子じゃ」
「なんと……」
「だが、何の因果か、今ではこうして我ら大祝家と近づきになった。それもこれも三島大明神のご差配だったのやも知れぬわ」
安用は乾いた声で笑った。
(……相変わらず、都合の良い御方じゃ)
鶴丸は僅かに眉を顰めた。
(俺はあなた達に近づきたかったわけではないと言うに)
「では、安用殿。もしやして――」
「左様。この者が我が娘の身代わりとなりて、陣代を務めたのじゃ」
呻くような安正の問いかけに、安用はしたり顔で頷いたものだ。
「――恥ずかしながら、あれほど傍におりながら、全く気付きませなんだ」
安正はぼそぼそとした声で呟いた。
「安正殿。それは致し方なき事。何しろ、鶴丸の存在は固く秘されておった故」
安用はそんな言葉で安正を気遣った。
「それにしても、よく似ておられる」
「は……」
鶴丸はただ頭を下げた。
「では皆様。そろそろ宜しいですかな」
安舎が静かに口を開いた。
安用と安正は、小さく頷いた。
「ここに集いしは、大祝家の男衆のみ。安正殿にはお鶴の許婚者であられる安成殿の名代として来て頂いた」
「大祝様。俺もそこに入るのですか?」
「入る。此度は鶴丸、お前にも共に考えてもらいたいのじゃ」
「それは、どういうことでしょう」
鶴丸の問いに、安舎は優しい眼差しを向けた。
そして、思いもよらぬことを口にした。
「他ならぬ、お鶴を逃がす算段についてじゃ」




