32.戦の足音
海に、異変あり――!
その知らせがもたらされたのは、穏やかな昼下がりのことであった。
「なにっ!またぞろ大内勢が?」
居室にて書状をしたためていた安舎は、思わず険しい声を上げていた。
「はっ!蒲刈近くにて潜ませたる斥候によりますれば、大内の船団、こなたに向け出港したとの由!その数、少なく見積もりましてもおよそ150とのことにござります!」
「船150……いや、それ以上、だと?」
安舎の顔から血の気が引いた。
「そやつら、こちらに向かっておるのは確かなのか」
「はい、間違いござりませぬ」
「……そうか」
安舎は、やるせない溜息をつく。
(大内殿……いい加減になされよ)
「大祝様。お下知を」
「ああ――すぐに皆を集めてくれ。父には私から伝えておく」
「はっ」
安舎は居室を出ると、足早に父・安用の私室へ向かった。
今年の新春の寿ぎが終わった頃、大祝家は代替わりをした。
安用は隠居し、安舎が当主となったのだ。
「――我らが海の穏やかなる時は、僅か2年であったか」
安用は溜息交じりに呟いた。
「しかも、此度は大軍勢が相手。剣呑じゃ」
「まさに……恐ろしきことにて」
「だが、我らに降伏という選択肢はないからの」
安用はあっさりと断定した。
「安舎。伊予守様に出陣要請は出したか?」
「いえ。皆の意見を聞いてからが宜しいかと思いまして」
「それでは遅い。今直ぐ出しておけ」
「は、はい」
安舎が慌しく退出した後、安用の顔が苦悶に歪んだ。
(敵の船150以上――聞いたこともない規模の軍勢じゃ)
(大内殿は、此度は本気でここを取りに来ておられる)
(此度ばかりは――)
難しいかもしれない。
(否)
安用は、己の弱気を振り払うように、大きくかぶりをふった。
(この島は海の民の心。陸の者にそうやすやすと渡すわけには参らぬ)
(神が必ず、我らをお守り下さる。我らはそれを信じるより他になし)
海に、異変あり。
その知らせは、瞬く間に大三島を駆け巡った。
「敵は何処じゃ」
「決まっておる。大内じゃ」
「またか。いい加減しつこいのう」
「何度来ても、追い払ってやるのみ」
「そうじゃ。我らには神が付いておる」
「鶴姫様が出陣されれば、また神風が吹こうぞ」
上層部の危機感をよそに、下々の者は意気盛んだ。
それほどに、2年前に「鶴姫」がもたらした「奇跡」は、皆の記憶に新しいのだ。
(また、大きな戦になる)
鶴丸は、皆が大声で語り合う様を、複雑な思いで聞いていた。
(戦ともなれば、陣代を立てることになろう)
(その陣代は誰が務める)
もしかして。
再び、自分に声がかかるのか。
「……」
鶴丸は、頭巾に手をやった。
「鶴丸、どうした?」
太郎次の声が、鶴丸を現実に引き戻した。
「ああ、兄者」
「戦支度せよとの下知じゃ。行くぞ」
「わかった」
鶴丸は小さく頷くと、太郎次と共に走り出した。
後ろで、三太が泣く声が聞こえてきた。
戦小屋で焙烙玉を作りながら、鶴丸はちらちらと外を気にしていた。
ガタガタと風が戸を叩く音にも敏感に反応し、外の人影にも神経を尖らせた。
鶴丸は、怖いのだ。
またぞろ、陣代になれと迫られるのが。
2年前。
鶴丸が自ら「陣代になる」と申し出たのは、自分が承諾せねば鶴姫が陣代になると聞かされたから。
あの時の鶴丸は、妹を戦に出したくない一心で突っ走ってしまっただけだ。
陣代という職務の重さなど全く知らぬままに。
だが。今は違う。
鶴丸は、陣代とは如何なるものかを肌で知ってしまった。
陣代とは三島水軍の旗印であり、最終意思決定者。
それ即ち、陣代の采配で三島水軍全体が動く。
全て上手く事が運べばよいが、判断を誤れば皆を危険に晒すこともありうる。
ただの足軽の息子として育った鶴丸には、想像もつかないほどの重責だった。
あの時は、来島水軍に助けられ、鶴姫を通して神託が得られたお陰で何とかなった。
だが。
次もうまく事を運べるという保証など、何処にもないのだ。
「鶴丸」
背後から、声が掛った。
弥次郎の声だ。
(きたか)
鶴丸は、ごくりと唾を呑んだ。
嫌だ。
聞きたくない。
そんな思いが、鶴丸の身体を硬直させた。
「おい、鶴丸」
再び、弥次郎の声。
「……」
鶴丸は、頭巾に手をやった。
ぎゅっと布を握りしめ――。
やっとの思いで、振り向いた。
弥次郎は「表に出ろ」と、顎で合図した。
鶴丸は小さく頷くと、弥次郎の後をついて外に出た。
「なんだ。具合でも悪いのか?」
開口一番、弥次郎は鶴丸を気遣った。
鶴丸は、無言のまま首を横に振る。
「そうか。戦の前故、緊張しておるだけか」
鶴丸は、こくんと頷いた。
「では、用件を伝える。鶴姫様からの言伝じゃ」
「お鶴の?」
「うむ」
鶴丸は、拍子抜けした。
てっきり安舎からの呼び出しだと思った故だ。
「実は此度の戦、越智安成様が陣代になられることと相成ってな」
「えっ、安成様が?」
頭巾の中の鶴丸の目が、丸くなった。
(安正様のご子息が、何故に?)
「安成様が陣代になられること、そんなに不思議か?」
「はい」
鶴丸は素直に頷いた。
「簡単な事じゃ。安成様は鶴姫様の許婚者。前回は元服前で戦にも出られなんだが、此度は違う。そういうことじゃ」
弥次郎はこのからくりを実に簡潔な言葉で説明したものだ。
「なるほど。そういうことでしたか」
鶴丸はようやく得心した。
「で、お前がまたぞろ陣代に引っ張られるのではないかとやきもきしているであろうから、このことを疾く伝えよとの、姫様の命じゃ」
「――お鶴が、さようなことを?」
「そうじゃ。故に、鶴丸においては此度の戦は足軽として参戦し、必ず手柄を挙げよとも仰せじゃ」
「……ったく、大きなお世話じゃ」
鶴丸はつい、そんな軽口を叩いた。
「ははは。ほんにのう」
弥次郎も声を立てて笑った。
「では、伝えるべきことは伝えた。武運を祈る」
「弥次郎殿も」
「おうよ」
弥次郎は、夕闇に姿を消した。
残された鶴丸は、その後ろ姿をいつまでも見送っていた。




