31.幸せな未来
おぎゃあ、おぎゃあ……。
治右衛門の小屋から、赤子の元気な泣き声が聞こえる。
「まあまあ、お奈津。そのような抱き方ではいけませんよ」
「はい、母上様」
「腕をもっとこっちに」
「こうですか?」
「ほら、泣き止んだ」
「まあ、これは不思議な」
「うふふ。お奈津。これは赤子に教えてもらって覚えるものなのですよ」
「では、私はこの三太に教えてもらうのですね」
「そうです。ねえ、三太」
名を呼ばれた赤子は、にまーっと笑った。
昨年のこと。
太郎次は嫁を貰った。
足軽の娘のお奈津だ。
治右衛門は若い夫婦のために、自らの小屋の隣に新しい小屋を立ててやった。
太郎次夫妻は新しい小屋で寝起きしているが、生活は変わらず治右衛門一家と一緒だ。
やがて、二人の間に玉のような男子が生まれた。
それが、お奈津が抱いている三太だ。
「おお、儂もついに爺と呼ばれる男になったか」
「うふふ。私も婆になりました」
三太の誕生を、治右衛門とお寿は我が事のように喜んだ。
一方、複雑な顔を見せたのは、当年18になる鶴丸だ。
「兄者。すると俺はこの年で叔父か」
「そうじゃ。お前は鶴丸叔父じゃ」
「かーっ、全然想像出来ぬ」
大仰に天を仰ぐ鶴丸に、一同口を開けて笑い合ったものだ。
そして。
その鶴丸も、恋をしていた。
相手はやはり足軽の娘で、二歳年下の幼馴染。
名を、おたみという。
幼いころから傍にいたおたみに対し、鶴丸はこれまで何の感情も持っていなかった。
ただの顔見知りの、年下の小さな女の子。
それが鶴丸にとってのおたみの全てだった。
だが。
14歳を迎え、おたみは変わった。
はにかむような笑顔さえ眩しい乙女として、鶴丸の前に現れたのだ。
(おたみ……こんなに可愛かったっけか)
鶴丸は瞠目し。
心の臓が、どくん、と跳ね上がった。
「鶴丸さん。どうかした?」
おたみは無邪気に問いかけてきた。
「あ、いや、別に」
鶴丸は、思わず頭巾に手をやった。
(なんだ、これ)
鶴丸は動揺していた。
こんな変な気持ちになったのは、初めてだ。
その日から、鶴丸の頭の中には、おたみが住みついた。
おたみのはにかむような、恥ずかしそうな笑顔。
「鶴丸さん」と、己を呼ぶ時の弾んだ声。
貧しい足軽の娘故の、痩せた身体。
あちこち直して着続けている、粗末な小袖。
それでも。
鶴丸にとってのおたみは美しく、そして可愛かった。
「鶴丸!」
「へっ?――あ、兄者」
「兄者ではない。どうした、先ほどからぼさっとして」
「いや、別に」
「鶴丸。近頃様子がおかしいが、何かあったか?」
探るような太郎次の声音に、鶴丸はぶんぶんとかぶりを振る。
「ないないないない、何もない!」
「その仕草が既に怪しいが」
「そ、そんなことはなかろう」
「いや。平素のお前はそんなに首を何度も振らぬ」
「……」
「どうした。困りごとか」
「……困りごとでは、ない」
「では、何じゃ」
「……」
「まさか、女か」
「!」
「図星か」
「……」
鶴丸は、背中を丸めてただもじもじしている。
「で、相手は誰じゃ」
「――の……」
「え?」
「えと、だから、粂五郎殿のところの――」
「おたみか?」
鶴丸は、こくんと頷いた。
「へえ」
太郎次は、意外なものを見たといった顔になった。
「な、なんじゃ兄者。揶揄うのはなしだぞ」
「揶揄いはせぬが――そうか。お前も、なあ」
「……」
「で、どうなのじゃ」
「何がじゃ」
「嫁に欲しいのか?」
「よ、嫁?」
鶴丸の動きが止まった。
「そうじゃ。お前も18になるし、良い頃合いであろう」
「まままままま待て待て待て待て兄者」
「あはは、偉い慌てようじゃのう」
「だ、だって、俺はまだ、おたみには何も言うてはおらぬ」
「言わずとも、親同士で握れば問題なかろう。俺とお奈津もそうであったし」
「いや、しかし、それは」
「親父に言いにくければ、俺が口を利いてやっても良いぞ」
「兄者。兄者は先走りしすぎじゃ!」
鶴丸が語気を荒げると、太郎次は驚いたような顔をした。
「あ……兄者、すまん。つい」
「いや。こなたこそ」
兄弟はそこで黙り込んだ。
「なあ、兄者」
「なんじゃ」
「俺はまこと、嫁など貰うてよいのであろうか」
「うん?」
「俺は、この頭巾を被り通してきた男じゃ。俺一人のことなら気になどせぬが――家族が出来るとなれば、話は別じゃ」
「……」
「俺みたいないわくつきの者が、所帯など持って良いものか。そのようなことは、許されるのであろうか」
「俺は、良いと思うぞ」
太郎次は、からっとした声音で明快に答えた。
「お前は、足軽・中津治右衛門の子で、俺の弟じゃ。そうであろ?」
「兄者……」
「案ずるな。お前は、幸せになって良い男だと俺は思うぞ」
太郎次は、弟の肩をそっと抱き寄せた。
「俺も、おたみが妹になるなら嬉しく思う。あの娘は気立てが良いからな」
「うん……済まぬ、兄者」
「おうよ」
治右衛門一家がそれぞれの幸せに沸き立つ中。
鶴姫にも、嬉しい知らせがもたらされていた。
待ちに待った婚礼の日取りが決まったのだ。
「ふうあああああ」
鶴姫は彼女に似合わぬ声を上げて、両手で口元を抑えた。
「我が……ついに……武丸さま……否、安成様と――!!」
呆けたように空を見た直後。
「うふふふふふふ」
その顔が、満面の笑みに包まれる。
「はあ……伸びに伸びた婚礼が、ついに、成就するぞ!」
二人の婚礼は、本来ならば二年前に予定されていた。
ところが、大内勢の横槍のせいで、一旦白紙に戻された。
安房が命を落としたため、服喪せねばならなくなったからだ。
昨年、武丸はようやく元服を果たし、名を安成に改めた。
それから再び大祝・越智両家で少しずつ準備を進め。
やっと、婚礼が現実として、目の前にやって来たのだ。
「そうじゃ」
鶴姫は、何か思い立ったように、ぽん、と手を叩いた。
「我の婚儀には、是非とも鶴丸を呼ばねば!何と言っても我の兄じゃ!無理にでも顔を出させようぞ!」
同じ時に産まれた、兄と妹。
18歳になる二人は、それぞれに幸せな未来へ向けて歩み出そうとしていた。
だが。
大三島の沖に、彼らは再びやってくる。
――招かれざる客人たちが。




