26.海神、動く
「――!」
鶴丸は、弾かれたように本陣の舳先へ出た。
太陽の位置を見る。
そして、風向き。
(まだ、潮が変わるまで間があると思うが――)
鶴丸は内心首を捻る。
しかし。
鶴姫は言った。
今が攻め時だと。
しかもそれは、神からの言伝だと。
鶴丸は、迷った。
本当にあれは鶴姫の声だったのか。
陣代という役目の重圧と心細さから、自分が作り上げた幻想ではないのか。
それとも。
神はお鶴を使って、この俺を謀ろうとしているのか――?
鶴丸は、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
早く判断しなくては。
でも、判断に足る材料が足りない。
焦る。
焦ってはいけないのに。
ちりん。
再び、鈴が鳴った。
『つるまる。迷うておるか』
(お鶴。俺は、お前のように無邪気に神を信じられぬ)
『仕方ない男じゃの。では、神ではなく我を信じてたもれ』
それは、陽の光のような声音だった。
「……」
鶴丸は、屹と眦を上げて太陽を見た。
(お鶴。そこまで言うなら)
鶴丸は、すくっと背筋を伸ばした。
(三島大明神よ。海神よ。俺はお鶴を信じます)
そして、振り向かずに厳かな声で告げた。
「皆の者。只今、勿体なくも三島大明神よりお言葉を賜った!」
おおっ――!
背後でどよめきが起こった。
これが「神の娘」の言葉の重さだ。
「潮が変わり、風が変わる。今が攻め時との仰せじゃ!」
鶴丸は、ここでようやく皆を振り返った。
「皆の者!今こそ決着をつける!敵の総大将の首を取り、大内勢を海の彼方へ追い払おうぞ!」
「ははっ!」
一同、陣代の力強い宣告に、深々と首を垂れた。
ほどなくして。
不思議なことが、起きた。
ひとつには、安舎から遣わされた使者が、「鶴姫」と同じことを神託として告げてきたこと。
そして、いまひとつは――。
鶴姫が伝えてきた通り、本当に潮と風が変わったのだ。
「むう」
鶴丸は思わず唸った。
風は追い風。
潮も追い潮。
大内勢は、突然の向かい風に戸惑っているように見えた。
(神よ。これがあなたの答えか)
鶴丸は、ぐっと軍配を掴むと、大音声で下知した。
「見よ!神のお告げの通りじゃ!全軍、突撃せよ!」
おおおおおお!
三島水軍の反撃が、始まる。
夕日が、瀬戸内の海に落ちた頃。
戦は遂に決着した。
総大将を討ち取られた大内勢が、次々と戦線を離脱し始めたのだ。
「皆の者!深追いするな!」
鶴丸は逸り立つ味方を厳しく制した。
成果は十分に上げた。
これ以上の戦いは、無意味だ。
「鶴姫殿!お見事!」
目を上げると、村上通康が軍船の上で笑っていた。
「通康殿のご助勢で、何とかなりました」
「ははは、さにあらず。我らは手伝いをしただけじゃ」
通康は機嫌よく手を振って見せた。
「また、是非我らが社にお越し下さりませ」
鶴丸は、ごく自然にそんな言葉を口にしていた。
「うむ。また茶など馳走してくれ」
「はい、喜んで」
「では、我らはこれにて。いや、良い戦であった。満足、満足じゃ」
通康の高笑いを残して、来島水軍は威風堂々と去っていった。
まさに心強き、海の猛者たちだ。
「鶴姫様、何とかなりましたな」
安正が、感慨深げに声をかけてきた。
「はい」
鶴丸はただ小さく頷いた。
「ははは。しかし、驚きましたぞ。我が息子の未来の嫁御が、まさかにこのような剛の者とは」
(あっ)
鶴丸は、思わず安正から視線を逸らした。
正直な所、何と返したらいいものか、わからなかったのだ。
「此度、あなた様が陣代に立たれると聞いた時、武丸の奴、色を失くしましてな」
鶴丸の困惑など気づかぬまま、安正はにこにこと息子のことを口にした。
「まあ……武丸様にはご心配をかけて、まことに申し訳ないことです」
「いいえ。こればかりは致し方ありません。あなた様の他に陣代を務められる者がいなかったのも、本当ですからな」
安正はふと顔を曇らせた。
「まさかに安房様が、あのようなご最期を遂げられるとは、思うてもみませんでした故」
「まさに――」
鶴丸は、深い溜息をつく。
(皮肉なものじゃ)
鶴丸は、静けさを取り戻した夕凪の海に思いを馳せる。
安房が生きてさえいれば――。
鶴姫が出陣すると言い出すことも。
鶴丸が本当の父や兄と相まみえることも。
そして何より、鶴丸が妹のふりをして陣代を務めることもなかったのだ。
(三島大明神よ。海神よ)
鶴丸は、心の内で神に問う。
(この皮肉さえも、あなたの思し召しなのか?)
(俺を捨て、俺に生きることを許したのも、全てはこうなる筈だったから――?)
――凪の海は、何も答えない。




