21.禊
その頃。
鶴丸は湯漬けと香の物のみの簡単な食事を済ませた後、神社の奥にある小さな池へと連れていかれた。
同行したのは、安用に仕える神職の若者だ。
「ここは?」
「神事の折、我らが身を清めるところです」
若者は丁寧な言葉で応じてくれた。
「鶴丸殿。あなたは大祝様の名代として戦に立たれます。つまりは、神の御神託を背負われる身。故に、戦に先立ち、身を清めて頂きます」
「では、代々の陣代も同じことを?」
「はい」
「お恥ずかしいことですが、神職殿。俺は禊の作法など知りません」
「そこはご心配なく。私がお教え致します」
若者はにっこりと微笑んだ。
鶴丸は、若者の指示に従い、静かに池の中へと足を進めた。
「……っ」
身を切るように、水が冷たい。
(これは――湧水か)
鶴丸は思わず瞠目する。
(ただの溜池かと思うていたが)
雨の少ない大三島では、池と言えば溜池と相場が決まっている。
勿論井戸を掘れば飲める水は出てくるが、このように自然と水が噴き出す場所など、鶴丸は見たことも聞いたこともない。
(まこと、不思議な)
鶴丸は、若者に教えられながら、池の中で淡々と所作を繰り返した。
冷たく清涼なる水が、次第に鶴丸の心を引き締め、そして研ぎ澄ましていく。
(そういえば)
鶴丸は唐突に、幼い頃に聞いた話を思い出した。
話してくれた相手は旅の者だったか、諸国を渡り歩く商人だったか。
「大三島に鎮座まします大山積の神は海の守り神。一方、遠く相模の大山に鎮座まします大山祇の神は、山の神であり雨降りの神でもあるのじゃ」
「えっ、同じ神様なのに、そんなに違うの?」
幼い日の鶴丸は、頭巾の中で目を丸くさせたものだ。
(左様な二面性を持っておられる神であれば――)
(ここに清らかな水を湧き立たせるも、造作はあるまい)
鶴丸は、すとんと腑に落ちたものだ。
禊を済ませた鶴丸は、再びあてがわれた部屋に戻ってきた。
「では、こちらでお着替えを」
「神職殿。お恥ずかしいことばかりで申し訳ないのですが……俺はきちんとした戦支度をしたことがなくて……」
鶴丸がもじもじと訴えると、若者は再びにっこりと微笑んだ。
「大丈夫です。お手伝いされる方が、万端整えてお待ちです」
「はあ」
「これより先は、その方の指示に従って頂けますと」
「――わかりました」
「では、私はこれにて」
「色々とかたじけのうござりました」
「なんの。ご武運をお祈りしております」
若者は軽く会釈をすると、すたすたとした足取りで廊下の向こうへと消えて行った。
(なんとまあ。行き届いたことじゃ)
障子の前で、鶴丸は雄弁な溜息をつく。
大祝家が、鶴丸が右往左往せぬように気を配ってくれるのは有難いが、何だか複雑な気分だ。
鶴丸は、無言で障子を開けた。
ふわっ。
いい香りが、部屋の中から流れてきた。
「え――」
瞠目する鶴丸。
この匂いは……!
「禊は済んだか、鶴丸」
部屋の中から、鶴姫の声がした。
普段、鶴丸を迎えてくれる時の、弾けるような明るさなど全くなく。
全ての感情を消し切ったような、冷たい響きさえするような声音だ。
「お鶴――」
鶴丸は、掠れた声で妹の名を呼んだ。
「鶴丸。父の命で、そなたの支度を手伝うことになった。見ての通り、姫装束であるが故じゃ」
鶴姫は、脇に置いた衣装箱を鶴丸に披見した。
「これを、俺が?」
「そうじゃ。そなたは我として戦に出る。女武者の姿でなければ都合が悪かろう」
鶴姫の桜色の唇から、渇いた笑いが零れた。
「……」
「さ、出陣まで時がない。始めるぞ」
鶴姫は、鶴丸の顔を見ぬままに、衣装箱から装束を取り出した。
「お鶴。怒っておるのか?」
「怒ってはおらぬ」
「そのようなことはあるまい」
「少なくとも鶴丸には怒ってはおらぬ。我が腹を立てているのは、父と、何よりもこの我自身にじゃ」
「……」
「否。違う。やはり鶴丸にも怒っておるな」
鶴姫は、あっさりと前言撤回した。
「鶴丸。陣代の話、何故に受け入れたのじゃ。知らぬ存ぜぬを通せばよいものを」
「それは……」
「そもそも、大祝家にいないことにされたそなたには、何の関係もない話ではないか!何故じゃ!何故、撥ねつけなかったのじゃ!」
鶴姫の美しい眦に、憤怒の色が宿った。
「……勝手を言うな、お鶴」
鶴丸から、振り絞るような声が漏れた。
「俺が受け入れなければ、お鶴が陣代になるしかないではないか!そんなこと、俺には到底赦せぬことじゃ!」
「我はそれで構わぬ!この髪を見よ!」
鶴姫は、肩先でふっつりと切りそろえた黒髪を指し示した。
「我は髪を切り、その覚悟を示した!大祝家の者として、皆と戦う覚悟はとうに出来ておる!」
(なんと――大祝様の言はまことであったか)
鶴丸は、瞳を閉じて天を仰いだ。
(お鶴。それは絶対にあってはならぬことじゃ)
であれば。
「お鶴。ふざけたことを言うでない」
鶴丸は、覚悟を持って豹変した。
「戦う覚悟が出来ている、だと?戦の何たるかも知らぬ女が、左様なことを軽々しく口にするでないわ」
「何じゃと?」
鶴姫の顔から血の気が引いた。
「お鶴。所詮お前の剣は道場の剣。戦ではクソの役にも立たぬお遊びじゃ」
「鶴丸!我を侮辱するか!」
鶴姫は抗議の声を上げた。
「第一、戦の剣はそれ即ち人殺しの剣じゃ。お前にはそれがどのようなことか、本当にわかっておるのか?」
「――!」
「こなたが殺す気なら、相手も殺す気で挑んでくる。それに打ち勝つということは、相手を殺すということぞ。道場の剣しか知らぬお前に、それが出来るのか?お前は死を間近に感じたことさえないであろうが!」
「そ、それは……」
鶴姫は口籠る。
「お前は戦になど出るべきではない。二度と陣代になるなど口にするな。よいな!」
「……」
鶴姫は、気圧されたように黙り込んだ。
その瞳には、じんわりと涙が浮き上がっている。
(少々言葉が過ぎたか)
鶴丸の心は痛んだ。
(だが、こうでも言わねば、お前は引っ込まぬだろう。許せ、お鶴)
「そ、それでも……」
鶴姫の唇が、わなわなと震えた。
「我は、鶴丸に大祝家の犠牲になって欲しくないのじゃ!」
鶴姫の頬を、大粒の涙が零れ落ちた。
「我は今日ほど女であることを呪うたことはない……我が男でさえあれば……」
「お鶴……」
「鶴丸、鶴丸……どうして、このようなことに……」
後は、言葉にならなかった。
「お鶴。お前の気持ちは有難く貰っておく」
鶴丸は手を伸ばして妹の肩をさすった。
「だが、俺はやらねばならぬ。俺がそう決めたのじゃ」
「鶴丸……」
「どうでも、俺が、やらねばならぬのじゃ」
鶴丸は、静かにその言葉を口にした。
今一度、己に強く言い聞かせるように。




