1534年11月3週目。日向・大隅の兵を島津分家の兵が鍛える。負けた土地の兵を戦えるようにするために
十一月三週目。
本拠の広間では、いつもの帳面合わせが開かれていた。
八郎、父、母、兄たち、帳面役、商家衆。
そして大友の姫君たちも、少し離れた席に座っている。
八郎は帳面の束を前に、いつものように言った。
「細かい数字は、後で見てください」
三郎が苦笑する。
「また大きい話の前振りやな」
五郎も頷く。
「八郎が細かい数字は後でって言う時は、だいたい細かくない」
帳面役が読み上げた。
「十一月三週目」
「飯屋、市、湯浴み、高級湯浴み、寺社市、焼き芋屋、交易、仕入れ差益、話会、
その他諸々を含めまして」
「今週の総合利益」
「一千六百二十万文でございます」
父が息を吐く。
「相変わらず大きいな」
母も頷いた。
「聞いてるこっちの感覚がおかしくなるわ」
八郎はその数字を見て、すぐに次の帳面を出した。
「そのうち、一千四百万文を計上します」
「日向と大隅の兵を鍛えるためです」
広間が少し静かになった。
大友の姫君の一人が、そっと顔を上げる。
八郎は続けた。
「今回は島津本家ではありません」
「島津分家にお願いします」
「日向に二百人」
「大隅に二百人」
「合わせて四百人の侍衆を教官役として出していただきます」
「対象となる八郎軍は、日向二千人、大隅二千人」
「合わせて四千人です」
三郎が腕を組む。
「本家のしごき倒しとは、また別か」
「はい」
八郎は頷いた。
「島津本家には、肥後と薩摩川内の八郎軍六千人を鍛えていただいています」
「あちらは龍造寺を見据えた前線訓練です」
「今回の日向、大隅は少し違います」
「負けた土地の兵です」
「八郎軍に組み込まれてはいますが、自信をなくしている者もいます」
「まずは、自分たちも戦える、自分たちも守れる、という顔に戻してもらいます」
四郎が静かに言った。
「立て直しの訓練ですね」
「はい」
「最初から強兵にするのではありません」
「まず、八郎軍の一員として立たせる」
「その後で、島津本家の侍衆にも順繰り入っていただき、本格的に鍛えます」
帳面役が確認する。
「費用は、一千四百万文」
「うち、分家の侍衆への手当が」
「一人あたり月五千文です」
八郎は答えた。
「四百人で月二百万文」
「二か月で四百万文」
「残りは飯、宿、移動、医薬、木槍、盾、訓練場整備、帳面役、慰労の酒などです」
母が呆れ気味に言う。
「また酒まで入ってるんやね」
「士気に関わります」
八郎は真面目に言った。
「しごかれる方も、しごく方も、飯と湯と酒が必要です」
五郎が苦笑した。
「まあ、そこは八郎軍らしいわ」
大友の姫君が、少し遠慮がちに口を開いた。
「そこまで露骨に、兵を鍛える話を私たちの前でされてよろしいのですか」
広間が一瞬静まった。
八郎は、普通に頷いた。
「大丈夫です」
「大友と戦うために鍛えているわけではありません」
「もちろん、大友軍が南下してきた時に怖い、というのはあります」
姫君たちが少し目を細める。
八郎は続けた。
「でも、それを隠しても仕方ありません」
「大友の殿様なら、そのあたりは分かると思います」
「今は停戦中です」
「そして、できれば同盟や縁へ進めたい」
「ただ、同盟を結ぶにしても、兵が弱いままでよいわけではありません」
「何もなければ、兵は緩みます」
三郎が頷いた。
「戦わん時間が続くと、体も気持ちも鈍るからな」
「はい」
八郎は地図を広げた。
「大友様は、大内と緊張があります」
「小競り合いもあるでしょう」
「そういう土地の兵は、嫌でも緊張感を持ちます」
「でも八郎軍は、周りの小勢力を順繰り取ってきました」
「敵が近くにいる場所が、少しずつ減っています」
「暮らしが豊かになり、借金が減り、市が立ち、湯に入れる」
「それ自体はよいことです」
「でも、兵まで緩んでしまうと危ないです」
大友の姫君は静かに聞いていた。
「つまり、平和になってきたからこそ、訓練が必要なのですね」
「はい」
八郎は頷いた。
「外に敵がいる時は、自然に緊張します」
「でも、内向きになると緊張感が抜けます」
「島津本家も同じです」
「八郎軍との同盟で領土が広がり、周辺が安定してきました」
「その分、戦場の空気から離れる者も出ます」
「だから、冬に訓練を入れます」
「兵には、戦いの場所に身を置かないと危ない、という感覚を忘れないでほしいのです」
父が地図を見ながら言った。
「日向と大隅は、四国や大友を見た時の備えか」
「はい」
「四国を見るなら、日向と大隅の港や海沿いの動きは大事になります」
「大友が南へ動くなら、日向の兵が崩れると困ります」
「だから今のうちに、分家の侍衆に鍛えてもらいます」
「島津本家ばかりに花を持たせるのもよくありません」
「分家にも役目と銭と面目を持っていただきます」
綾姫の名を思い出したのか、四郎が少しだけ表情を和らげた。
「分家の侍衆も喜ぶでしょう」
「冬の仕事になりますし、日向と大隅の兵を立て直す役目なら誇りにもなります」
大友の姫君の一人が呟いた。
「兵を鍛える話なのに、借金と面目と土地の心まで入っているのですね」
八郎は胸を張った。
「全部つながっています」
三郎がすぐに突っ込む。
「出た」
五郎も笑う。
「便利な言葉やな」
八郎は真面目だった。
「便利ではありません」
「日向と大隅の兵が自信を取り戻せば、土地が落ち着きます」
「土地が落ち着けば市が回ります」
「市が回れば借金が消えます」
「借金が消えれば兵の家も明るくなります」
「家が明るくなれば、兵も逃げにくくなります」
「兵が立てば、四国も大友も見られます」
「だから、全部つながっています」
大友の姫君は、思わず小さく笑った。
「父上への文が、また長くなります」
母が笑う。
「毎週長くなってはるね」
姫君は頷いた。
「はい」
「ここでは、帳面合わせのたびに国が少し動きますから」
八郎は帳面に筆を入れた。
「島津分家冬季教練費」
「一千四百万文」
「日向、大隅」
「二か月」
「目的、負けた土地の兵に顔を戻すこと」
三郎がその文字を見て、少しだけ真面目な顔になった。
「顔を戻す、か」
「ええ言い方やな」
八郎は頷いた。
「負けた土地にも、次があります」
「次に立てる兵にします」
広間は静かになった。
それから帳面役が、深く頭を下げた。
また一つ、大きな銭が動く。
だがそれは、ただの出費ではなかった。
日向と大隅の兵が、もう一度胸を張るための銭だった。




