1534年11月1週目。薩摩本家から野太い侍たちが八郎軍をしごきにやってきた。辛いかもだが本番は次はないぞ!
帳面合わせから二、三日後。
薩摩川内の八郎の本拠に、島津本家の侍たちがやって来た。
いずれも肩幅が広く、日に焼け、声が太い。
鎧を着ていない者でも、立っているだけで圧がある。
八郎軍の若い兵たちは、それだけで少し背筋を伸ばした。
先頭の侍が、八郎の前で深く頭を下げた。
「この度は、我らの借金を減らす段取りをしていただき、まことにありがとうございます」
八郎は首を振った。
「まだ減っていませんよ」
「四か月ありますから」
「ただ、一旦帳面上は減らしておきました」
侍は太い声で笑った。
「それだけでありがたい」
「帳面に載るというのは、減るということでございます」
「その心遣い、感謝いたします」
「その分、しっかり鍛えさせていただきますので、よろしくお願いいたします」
八郎は真面目に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
侍はちらりと三郎、五郎の方も見た。
「それと、姫君方とも仲良くしていただければ」
三郎と五郎は同時に苦笑した。
「そっちは訓練と別でお願いします」
「侍衆まで外堀を埋めに来るんですか」
侍は豪快に笑った。
「島津本家の願いでございますからな」
八郎は小さく呟いた。
「武装していないだけ、まだ穏やかですね」
三郎がすぐに言った。
「比較対象が鎧武者包囲なのがおかしい」
その日、早速、初めての模擬戦が行われた。
八郎軍の兵たちは六百人ほどを選び、島津の侍衆と混ぜて訓練場に立った。
木槍。
木刀。
盾。
竹束。
簡単な陣形。
八郎軍の兵たちは、これまで戦で負けてはいない。
日向でも佐土原でも、死人は少なく、飯を炊き、夜に騒ぎ、敵の心を折ってきた。
だから、どこかに自信があった。
だが、島津の侍たちは、まるで違った。
掛け声が低い。
踏み込みが速い。
槍の間合いに入ったと思った瞬間、八郎軍の兵は盾ごと崩された。
一人が前に出すぎると、横から叩かれる。
下がろうとすれば、足元を払われる。
隊列を組んだつもりが、あっという間に裂かれる。
半刻も経たぬうちに、八郎軍の兵は地面に転がり、息を切らし、泥まみれになっていた。
島津の侍の一人が、にこにこと笑った。
「まあまあ」
「今日は手加減ですな」
八郎軍の兵たちは、誰も笑えなかった。
「明日もまた、やりましょうな」
その声が、やたら明るい。
明るいのに、怖い。
訓練が終わると、八郎軍の兵たちは湯浴みに向かった。
島津の侍たちも一緒である。
大きな釜で湯が沸き、体を拭き、泥を落とす。
湯を浴びた島津の侍たちは、少し驚いたように周りを見た。
「訓練の後に湯があるのか」
「飯もあると聞いたぞ」
「これはすごいな」
「八郎殿のところは、兵を甘やかしておるのかと思ったが、これは体を戻すためか」
飯場では、味噌汁と握り飯、干物が出された。
島津の侍たちは豪快に食べる。
「うまい」
「これなら明日も動ける」
「飯がきちんと出る戦場は強いぞ」
一方で、八郎軍の兵たちは、湯を浴びながら青い顔をしていた。
「きつすぎる」
「明日からしんどいな」
「今日でこれなら、四か月とか無理やろ」
「俺、腕が上がらん」
その声を聞いた島津の侍が、湯の中で低く笑った。
「明日からしんどい、か」
八郎軍の兵がびくりとする。
侍は湯を肩にかけながら言った。
「本番に、明日などないぞ」
「斬られたら終わりじゃ」
湯場が少し静かになった。
侍は続けた。
「お前たちは、たしかに負けておらぬ」
「日向でも、佐土原でも、八郎殿の策で勝っておる」
「飯を炊き、米を買い、夜に騒ぎ、敵を眠らせず、降る者を殺さず、城を落とした」
「それは見事じゃ」
「だが」
侍は八郎軍の兵たちを見回した。
「自分らが強いから勝ったと思っておるなら、大間違いじゃ」
誰も言い返せなかった。
「勝った理由が分かっておるか」
「敵が腹を減らしていたからか」
「眠れなかったからか」
「国人衆が先に降ったからか」
「八郎殿が銭と飯で先に心を折ったからか」
「ならば、お前たちの役目は何じゃ」
侍は湯から上がり、体を拭きながら言った。
「崩れぬことじゃ」
「勝たせてもらうまで、崩れぬこと」
「飯を守る」
「荷駄を守る」
「夜に立つ」
「槍を揃える」
「命令を聞く」
「前に出すぎぬ」
「勝手に追わぬ」
「降る者を斬らぬ」
「八郎殿の策が効くまで、形を保つ」
「それができねば、いくら飯があっても死ぬ」
八郎軍の若い兵の一人が、ぽつりと言った。
「でも、今までは」
侍が即座に言った。
「今までは、じゃ」
「次もそうとは限らぬ」
「龍造寺は肥前の獣じゃ」
「有馬、松浦、さらに先には大友、大内もおる」
「敵が崩れる前に、お前たちが崩れたら終わりじゃ」
その言葉は、木槍で打たれるより効いた。
夕刻、八郎は訓練場の端で、島津の侍から報告を受けた。
「どうでしたか」
侍は少し笑った。
「甘いですな」
「ですが、飯はよい」
「湯もよい」
「帳面もよい」
「兵も素直です」
「しごけば、かなり変わります」
三郎が苦笑する。
「かなりしごく顔してますね」
「もちろんです」
侍は太い声で答えた。
「借金を減らしていただくのです」
「手加減したら、島津の名折れ」
五郎が八郎を見た。
「泣くやつ出るで」
八郎は頷いた。
「冬に泣いてください」
「春に死ぬよりよいです」
侍は、その言葉に満足そうに笑った。
「八郎殿は、分かっておられる」
「ならば我らも、遠慮なくしごけますな」
翌朝から、八郎軍の兵たちは本当に泣いた。
走らされ、叩かれ、並ばされ、崩され、また立たされた。
飯は出た。
湯もあった。
寝る場所もあった。
だから逃げる言い訳はなかった。
島津の侍たちは言う。
「飯があるなら立て」
「湯があるなら明日も動け」
「八郎殿の策で勝ちたいなら、策が効くまで立っておれ」
八郎軍は初めて知った。
自分たちは勝ってきた。
だが、まだ強くはないのだと。
そして、そのことを知るために、冬の四か月が始まった。




