1534年10月1週目。八郎は本拠地に帰宅する。もしもの際は早馬を。ただ信用しているのである程度現場判断で。
10月1週目。
その日の帳面合わせが終わるころ、佐土原の空はすっかり暗くなっていた。
証文を破った切れ端は、まとめて袋に入れられている。
庄屋衆はまだ興奮した顔で帰り、農民たちは何度も振り返りながら屋敷を出ていった。
八郎は籠のそばで、小さく欠伸をした。
「とりあえず、今日は終わりです」
「今日は寝ます」
「明日の朝には本拠へ立とうと思っています」
三郎が顔を上げた。
「ほんまに帰るんやな」
「はい」
八郎は頷いた。
「佐土原は型ができました」
「飯を売る」
「仕入れる」
「帳面を合わせる」
「証文を破る」
「湯浴みを回す」
「寺社市を開く」
「ここから先は、兄様方と八郎商会の者たちで進められると思います」
五郎は少し真面目な顔になった。
「大友が動いたら?」
八郎はすぐ答えた。
「もし大友が停戦を破って南下してきた場合は、兵を立ち上げてください」
「四国から攻めてくることは、ほぼないと思います」
「ですが、四国筋から不穏な動きがあった場合も、すぐ早馬を飛ばしてください」
「大友からでも、四国からでも、不測の事態があれば、皆さんで考えて動いてください」
六郎が少し不安そうに言う。
「八郎がいなくても、か」
「はい」
八郎は兄たちを見回した。
「私は、兄様方を信用しています」
「立ち上げの時から、ずっと一緒にやってきました」
「八郎商会の者としても」
「家族としても」
「信用しています」
三郎が照れくさそうに頭を掻いた。
「急にそういうこと言うな」
五郎も苦笑する。
「逃げにくくなるやろ」
八郎は真面目な顔のままだった。
「多少、数字にむらがあっても大丈夫です」
「利益が思ったより出なくてもいい」
「仕入れが少し高くなってもいい」
「証文を破る順番が多少ずれてもいい」
「大事なのは、最悪の事態を避けることです」
「民を荒らさない」
「兵を暴れさせない」
「大友と不用意にぶつからない」
「借金を見ないまま放置しない」
「そこだけ守ってくれれば、後で帳面は直せます」
四郎が静かに頷いた。
「分かりました」
「現場で処理できる小さな揉め事は、こちらで処理します」
「早馬を出すべきことは、すぐ出します」
「お願いします」
八郎は次に、大友の姫君たちへ目を向けた。
「大友の姫君方は、一度帰られます」
「護衛をつけて、きちんとお返ししてください」
「その護衛には、肥後方面から入ってもらいます」
「大友の姫君方が後ほど、女中や警護の者を連れて、八郎本拠地の薩摩川内へ遊学に入ること」
「それを肥後の各所に、順繰り伝えてください」
「大友領から肥後へ入り、八郎領を通る」
「その道中で揉めないように、先に話を通します」
島津本家の姫君が、少し感心したように言った。
「物騒なことも考えておられますね」
八郎は当たり前のように答えた。
「考えます」
「物騒なことを頭の中で考えておかないと、万が一の時に動けません」
「停戦しているから安全、ではありません」
「姫君が動くなら、道が必要です」
「道を通すには、文と護衛と先触れが必要です」
「それを忘れると、よい話も悪い話になります」
五郎が呟く。
「ほんま、四歳児が言う話ちゃうな」
「私は四歳児です」
「ただ、道中の警護は大事です」
三郎が苦笑した。
「そこを四歳児で押し切るな」
八郎は続けた。
「私は帰ります」
「ここでは、ちいさい揉め事がたくさん出ると思います」
「飯が足りない」
「湯浴みの順番でもめる」
「寺社市の場所でもめる」
「証文を出す出さないでもめる」
「元伊東兵を雇う雇わないでもめる」
「そういうものは、現場で処理してください」
「全部、本拠地の私に聞いていたら回りません」
三郎が頷いた。
「まあ、それはそうやな」
五郎も帳面を叩いた。
「一週間、二週間、証文を破りまくって、型を固める」
「それでええな」
「はい」
八郎は言った。
「もう一週間、二週間、ここで帳面を破ってください」
「民に見せてください」
「庄屋衆に信用させてください」
「寺社市を回してください」
「湯浴みの仕事を作ってください」
「もうええなと思ったら、順繰り帰ってきてください」
「途中で島津本家や島津分家に寄るのもよいでしょう」
「そのあたりは、私は知りません」
兄たちが一斉に八郎を見た。
「知らんのかい」
「縁談絡みになった瞬間、逃げたな」
八郎は涼しい顔で言った。
「現場判断です」
その言葉を聞いた島津本家の長女格の姫君が、にこりと微笑んだ。
「そうですか」
「では、私たちも、せっかく一緒に働きましたので」
「慰労も兼ねて、兄様方に一日二日ほど寄っていただけるとありがたいです」
分家の姫君も、四郎の方を見ながら言った
「父上も、今回の戦が形はどうあれ勝ちになったことを喜んでいると思います」
「お顔を見せていただければ、きっと喜ばれます」
四郎は、少しだけ目を泳がせた。
三郎は苦笑する。
「ほら来た」
五郎も肩をすくめた。
「八郎が知らんって言った瞬間に、寄り道が決まっていくやん」
八郎は籠の中へ半分入りながら言った。
「私は知りません」
「兄様方が決めてください」
「ただし、遊びすぎず、帳面はちゃんと見てください」
三郎が笑った。
「そこは言うんやな」
「帳面は大事です」
島津の姫君たちは楽しそうに笑い、大友の姫君たちはそのやり取りを興味深そうに見ていた。
佐土原の夜は、戦の前の夜とは違っていた。
太鼓ではなく、湯を沸かす音。
怒号ではなく、明日の市の段取り。
逃げる兵ではなく、働き口を探す元伊東兵。
そして、帰る八郎と、残される兄たち。
八郎は布団に入る前、最後に小さく言った。
「最悪を避けてください」
「それ以外は、順繰りで大丈夫です」
三郎が静かに頷いた。
「任せとけ」
五郎も笑った。
「多少むらは出るけどな」
四郎は帳面を抱えたまま答えた。
「形は崩しません」
八郎は安心したように目を閉じた。
「では、寝ます」
その一言で、佐土原の一日が終わった。
翌朝、八郎は本拠へ帰る。
だが佐土原には、兄たちと姫君たち、そして破るべき証文の束が、まだ山ほど残っていた。




