1534年10月1週目。市の立ち上げ最中。先週稼働分の仕入れと借金を付け合わせて庄屋衆の借金を消す場面を姫君達と一緒に見る。
十月一週目。
佐土原以南の立ち上げは、まだ急ごしらえだった。
一週間まるごと市を開けたわけではない。
場所によっては三日。
多いところで四日。
それでも、下魚のつみれ汁をただで食わせ、湯浴み釜を据え、米払いを説明し、
商家衆と帳面を合わせ、利息を下げるところまでは、なんとか形になり始めていた。
八郎は帳面を見ながら言った。
「とりあえず、ここで一度、証文を消します」
「それを見届けたら、私は本拠へ帰ろうと思います」
三郎が顔を上げる。
「早いな」
五郎も頷いた。
「まだ佐土原、立ち上げたばっかりやぞ」
八郎は真面目に言った。
「一ヶ月以上、本拠を空けています」
「毎週の帳面合わせを見ないと、気持ちが悪いです」
三郎が呆れる。
「そこら辺、全然四歳児ちゃうな」
「私は四歳児です」
「四歳児は本拠の帳面を気にせん」
その横で、大友の姫君が二人、静かに手を上げた。
「私たちも、一度大友へ戻ろうと思います」
「この状況を父上へ伝えます」
「それから、大友から肥後経由で侍や女中を連れて、荷物を整えて入り直したいのです」
八郎は頷いた。
「それはちょうどいいですね」
「うちの者もつけます」
「町まで送り、大友領を通って肥後へ入る形を整えましょう」
「肥後側にも先に通達しておきます」
「大友の姫君が遊学で行き来する、と」
姫君はほっとした顔をした。
「助かります」
八郎は帳面を閉じた。
「では、その前に」
「皆さんで、証文が消える瞬間を見ましょう」
「大友の姫君方も、あの瞬間はなかなか気持ちがいいですよ」
島津本家の姫君が微笑む。
「はい」
「民の顔が変わります」
分家の姫君も頷いた。
「最初は疑っていた方々が、急にこちらを見る目を変えます」
一行は、庄屋衆の屋敷へ向かった。
今日は人数が多い。
八郎、兄たち、島津本家と分家の姫君、大友の姫君、八郎商会の商人衆、村の代表、寺社の者。
庄屋の主は座敷に入ってきた一行を見て、少し顔を引きつらせた。
「今日は、えらい多いですね」
八郎はちょこんと座った。
「はい」
「証文を破りますので」
その言葉に、座敷がざわついた。
八郎商会の帳面役が、今週の仕入れ帳を広げる。
米。
薪。
下魚。
野菜。
味噌。
塩。
干物。
湯浴み用の薪と桶。
寺社市の仮の売り物。
それらを一つずつ読み上げていく。
五郎が説明した。
「本来、八郎領の三万五千石の束なら、仕入れだけで週九十万文から百万文ほど動くことがあります」
「ただ、今回は急ごしらえです」
「開けたのは三日、四日」
「ただで食わせた分もあります」
「だから今回は五十万文です」
庄屋衆が息を呑む。
「それでも五十万文か」
八郎は頷いた。
「その五十万文分、こちらが仕入れました」
「ですので、利が高いもの、緊急のものから順に、借用書を出してください」
「この場で消します」
農民たちは半信半疑だった。
商家衆も、まだ信じ切ってはいない。
一人の農民が、おずおずと古い証文を出した。
「これ……出してええんですか」
八郎は四郎に目を向ける。
四郎が証文を読み、商家側の帳面と合わせる。
「元本三万文」
「利が膨らんで合計四万五千文」
「今週の薪と米の仕入れ分で、三万文を充当できます」
商家の主が自分の帳面を確認し、頷いた。
「合うてます」
八郎は言った。
「では、このすべてのうちの三万文分の証文は消します」
四郎が証文に印を入れた。
商人も自分の控えに印を入れる。
そして八郎は、その証文を両手で持った。
びりっ。
紙が裂ける音が、座敷に響いた。
農民は目を丸くした。
「破って……大丈夫なんですか」
八郎は頷く。
「大丈夫です」
商人も証文の控えを破った。
びりっ。
「これで、この分の証文はなしです」
「この借りは消えました」
農民は、しばらく声を出せなかった。
やがて、膝から崩れ落ちた。
「ほんまに……消えたんか」
「三万文が……」
「これで、利を払わんでええんか」
島津本家の姫君が、大友の姫君へ小さく言った。
「ここです」
「この顔です」
大友の姫君は、息を呑んで見ていた。
一人の証文が破られた。
ただそれだけで、座敷の空気が変わった。
次の農民が前へ出る。
「うちのも見てください」
その後ろから、別の者も続く。
「うちは米の分があります」
「薪を出しました」
「魚の仕入れは、うちの借りに当てられますか」
あっという間に列ができた。
さっきまで遠巻きだった者たちが、証文を握りしめて並び始める。
五郎が笑った。
「ほら、来た」
三郎も腕を組んだ。
「一回破ると、みんな信じるんやな」
八郎は真面目に言った。
「人は、説明だけでは動きません」
「証文が破れる音で動きます」
次々に帳面が合わされていく。
五千文。
一万二千文。
三万文。
八万文。
利の高いものから、緊急のものから、順番に消えていく。
そのたびに、びりっ、びりっ、と紙の裂ける音がした。
大友の姫君は、その音を聞きながら呟いた。
「戦の勝ち鬨より、こちらの方が民には響くのですね」
島津分家の姫君が頷く。
「はい」
「借金が消える音ですから」
夕方までに、五十万文分の証文が処理された。
全部がなくなったわけではない。
だが、確かに減った。
目の前で減った。
佐土原の民は、それを見た。
八郎は少し疲れた顔で言った。
「今日はここまでです」
「明日からは兄様方と姫君方にお願いします」
「私は本拠へ帰る準備をします」
三郎が言う。
「ほんまに帰るんやな」
「はい」
「でも、型はできました」
「飯を売る」
「仕入れる」
「帳面を合わせる」
「証文を破る」
「これを続けてください」
五郎が証文の切れ端を見ながら笑った。
「簡単に言うなあ」
八郎は胸を張った。
「順繰りです」
その日、佐土原で初めて証文が破られた。
紙の音は小さかった。
だがその音は、伊東の支配が本当に終わり、新しい市が始まったことを、誰よりもはっきり
民に知らせた。




