1534年9月3週目。伊東落城も大友が迫っている。門を直すよりも城内で狩場を作る。場外の不安な人々の帳面をつくり、飯を炊く。
伊東の城が落ちた翌朝。
城内はまだ、戦の匂いを残していた。
壊れた門。
倒れた柵。
焼け焦げた木材。
散らばった矢。
だが八郎は、壊れた門をじっと見たあと、首を横に振った。
「門を直すのは後です」
島津本家の侍が驚く。
「後でよいのですか」
「大友が来ておりますぞ」
「だからです」
八郎は城内の広場を指した。
「まず狩場を作ります」
「門を完全に直すより、中で土を積み、柵を敷き、曲がり道を作ります」
「まっすぐ入れないようにしてください」
「三方向から矢を入れられる場所も作ります」
「大友が攻めてくる可能性は薄いですが、ゼロではありません」
「うちは戦う気があるぞ、と見せる必要があります」
実久の侍が頷いた。
「なるほど」
「壊れた門を直すより、入ってきた敵が戦う際、攻めにくく、困らせる形を作るわけですな」
「はい」
「時間を稼げれば十分です」
「その間にこちらは飯を炊き、兵を集め、火矢も使えます」
島津の侍たちは、すぐに動き出した。
土を運ぶ者。
杭を打つ者。
柵を並べる者。
壊れた門を塞ぐのではなく、門の内側にもう一つの構えを作っていく。
それは立派な城修理ではない。
だが、攻め込む側からすれば嫌な形だった。
三郎がその様子を見て呟く。
「城を直すんやなくて、嫌がらせを足してるな」
五郎が頷く。
「八郎らしいわ」
一方、八郎は城の外に出た。
城下には、まだ不安げな民が集まっている。
敗れた伊東の兵。
庄屋衆。
農民。
職人。
僧。
皆、これからどうなるのか分からず、八郎軍の動きを見ていた。
八郎は大きく声を上げた。
「まず、帳面を作ります!」
「借金を調べます!」
「米蔵を調べます!」
「庄屋衆、侍衆、農民、寺社の借り入れを順番に見ます!」
ざわめきが広がる。
「城の修理より借金か」
「本当に見てくれるのか」
「命は助かったが、借金は残ると思っていた」
八郎は続けた。
「湯浴み釜は六百持ってきています!」
「全部をここで使うわけではありませんが、まずは湯を沸かします!」
「市の説明をします!」
「寺社市の説明をします!」
「米払いの説明をします!」
「領主は変わります!」
「今日は振る舞いです!」
三郎の飯場では、握り飯と味噌汁が配られた。
少しだけ酒も出された。
「領主替わりの振る舞い酒です」
五郎がそう言うと、民たちは恐る恐る杯を受け取った。
「戦の後に酒をもらえるのか」
「米を奪われると思っていた」
「帳面を見ると言っていたぞ」
「借金もか」
六郎と七郎は、寺社市の説明を繰り返していた。
「銭がなくても、米で払える仕組みを作ります」
「ただし、全部帳面に残します」
「誰がどれだけ出し、誰がどれだけ買ったか」
「あとで揉めないようにします」
四郎は庄屋衆を集め、証文を出させていた。
「隠すと後で困ります」
「出しても、すぐ責めるわけではありません」
「まず、見えるようにします」
「利が高すぎるものから見ます」
敗れた城下は、まだ怯えていた。
だが、飯を食い、湯の準備を見て、帳面役が淡々と話を聞くうちに、少しずつ空気が変わっていく。
壊れた城の内側では、島津の侍が仮の守りを作っている。
城の外では、八郎商会が市の種をまいている。
八郎はその両方を見ながら言った。
「大友の動きは、必ず見てください」
「物見を切らさないでください」
「でも、こちらの仕事も止めません」
「守りながら、市を立てます」
「戦が終わったら、すぐ暮らしです」
そのころ、大友の陣にも、伊東落城の報が届いていた。
さらに、伊東の敗残兵たちが北へ逃れてきた。
大友の当主は彼らを迎え、静かに言った。
「間に合わず、すまなかった」
伊東の重臣は、疲れ切った顔で頭を下げた。
「我らは、もう戻る城がございません」
大友の当主は地図を見た。
「北日向の国人衆は、だいぶこちらへ降ってきている」
「そなたたちには、そこを任せる」
「大友の下で、北日向を守れ」
敗残兵の一人が、思わず顔を上げた。
「では、八郎を攻めぬのですか」
大友の重臣が眉をひそめた。
「口を慎め」
当主も冷ややかに言った。
「わしらは、お前たちを拾ってやると言っている」
「拾わねば、どこへでも流れていくしかなかったのだぞ」
伊東の者たちは顔を伏せた。
「……従います」
大友の当主は、南を見た。
「もう少し進める」
「八郎軍と島津の様子を見る」
「ぶつかるかどうかは、それから考える」
すぐに物見が放たれた。
何騎も、道を変え、村を変え、八郎軍の様子を探りに行く。
そして戻ってきた報告は、奇妙なものだった。
「八郎軍は、飯を炊き続けております」
「城下で振る舞い酒をしております」
「庄屋衆から証文を集め、帳面をつけております」
「湯浴み釜を並べ、市と寺社市の説明を始めております」
「城内では、壊れた門を直すより先に、仮の守りを作っている様子」
大友の重臣たちは、顔を見合わせた。
「落としたばかりで、もう市か」
「戦の余韻もないのか」
当主は、ゆっくりと笑った。
「なるほどな」
「ただ滅ぼしただけではない」
「もう次をしておる」
「やり方が早い」
別の重臣が低く言う。
「恐ろしいですな」
「普通なら、落城後は首実検、褒美、略奪の始末、城の修理」
「そこからようやく民のことを考える」
「八郎は、落ちた瞬間に帳面と飯と湯を入れております」
当主は頷いた。
「だから民が寄る」
「だから国人衆が揺れる」
「だから兵が減らぬ」
「なるほど」
「四歳の麒麟児と言われるだけはある」
彼は地図の南を見つめた。
その先では、八郎が城を直す前に市を立て、門を塞ぐ前に湯を沸かし、首を取る前に証文を集めている。
大友の当主は静かに言った。
「これは、ただの戦上手ではない」
「国の形を変える者じゃ」
「ならば、こちらもただ槍を並べて会うわけにはいかぬ」
北日向には、大友の旗が立ち始めていた。
南では、八郎の湯気が上がっている。
二つの勢力が、日向の地で向かい合おうとしていた。




