1534年9月3週目。伊東へ総攻撃。最後の抵抗もあるも数十人の死傷者で落城。落城後、帳面の管理。借金の整理等。
総攻撃の前夜。
八郎軍の陣では、相変わらず飯を炊いていた。
大釜から湯気が上がり、味噌汁の匂いが城へ流れていく。
干物を炙る匂い。
握り飯を握る手。
少しだけ振る舞われる酒。
兵たちは明日が総攻撃だと分かっていながら、どこか祭りのような顔をしていた。
三郎が鍋をかき混ぜながら言う。
「ほんまに総攻撃の前の日か、これ」
五郎は飯を門の前へ運ぶ者たちを見て苦笑した。
「攻めてるのか、差し入れしてるのか分からんな」
八郎は真面目な顔で言った。
「最後の降伏勧告です」
「飯を門の前に置いてきます」
「食べたければ食べればいい」
「食べた後に逃げたければ逃げればいい」
「それでも戦うなら、明日攻めます」
兵たちは盾を構え、外郭の壊れた門近くまで進んだ。
そして声を張り上げる。
「飯を置いていく!」
「食え!」
「腹が減っては戦もできんぞ!」
「降る者は殺さぬ!」
「逃げる者も追わぬ!」
そう叫ぶと、握り飯と味噌汁の桶を門の前に置き、さっと引いた。
城の中では、しばらく誰も動かなかった。
罠ではないか。
毒ではないか。
そう疑った。
だが、匂いに耐えられなかった兵の一人が、門の隙間から手を伸ばした。
握り飯をつかみ、恐る恐る口に入れる。
次の瞬間、彼は泣きそうな顔で食べ始めた。
それを見た者たちが、次々に飯へ群がった。
一度食べると、もう止まらなかった。
温かい飯。
塩気のある味噌汁。
外で聞こえる笑い声。
自分たちは何のために命をかけているのか。
その疑問が、腹の底から湧き上がった。
その夜だけで、城から逃げた兵は五百ほどにのぼった。
残る兵は三千前後。
しかも疲れ切っていた。
翌朝、八郎は静かに言った。
「そろそろ、総攻撃にしましょう」
島津本家、島津分家、八郎軍。
合わせて一万二千。
外郭はすでに破られ、城の周囲の国人衆はほとんど八郎側へ振っている。
内に残る三千は、眠れず、腹も満たされず、味方を見張ることに疲れた兵たちだった。
大友の物見は、その様子を遠くから見ていた。
「ほとんど兵の消耗がない」
報告を受けた大友の陣では、重臣たちが顔をしかめた。
「毎晩宴のように騒ぎ、時折火矢を浴びせる」
「周囲の国人衆は降っている」
「米は三倍で買われ、伊東の城には入らない」
大友の当主は、地図を見ながら低く笑った。
「八郎は、この辺りの戦がうまい」
「八千集められるはずの伊東に六千しか集めさせず」
「それを昼夜削り、三千まで落とした」
「兵を減らさず、相手の腹と眠りと忠誠を削る」
「並の戦ではない」
「金が潤沢にある仕組みは、必ず調べねばならぬな」
そう言いながらも、大友は北日向からさらに南へ兵を進め始めた。
八郎軍の総攻撃を見るために。
そして、落城後の境を見極めるために。
総攻撃は朝から始まった。
八郎軍の伝令が声を張る。
「抵抗しなければ殺さぬ!」
「武器を置け!」
「降る者は飯を食わせる!」
「最後まで斬る者だけを討つ!」
一万二千の兵が、一気に動いた。
島津の兵が前へ出る。
八郎軍が後ろで飯場と救護を整える。
盾が進み、槍が続き、壊れた外郭を越えて兵が流れ込む。
城内の兵は、もはやまともに押し返せなかった。
数で四倍。
外郭は破られている。
米は少ない。
眠れていない。
戦う理由も薄れている。
次々に武器が置かれた。
「降る!」
「命だけは!」
「もう戦わぬ!」
本丸近くでは、なお抵抗があった。
伊東の重臣たちが最後の意地を見せ、数度激しく斬り結んだ。
だが、それも長くは続かなかった。
双方に数十人ほどの死傷者が出たところで、城はついに落ちた。
戦として見れば、あまりにもあっけない落城だった。
だが、そのあっけなさを作るために、八郎は何日も飯を炊き、銭を撒き、米を買い、
火矢を撃ち、眠りを奪ってきたのである。
城内に入ると、八郎はすぐに商人衆と帳面役を呼んだ。
「証文を集めてください」
「米蔵を確認」
「武具の数」
「怪我人の数」
「残る者、出る者」
「全部、帳面に載せます」
商人衆がばさばさと帳面を広げ、証文を集めていく。
三郎が苦笑した。
「落城したばっかりやのに、相変わらず締まらんな」
八郎は胸を張る。
「これが大事なんです」
「城を取るより、取った後の方が大事です」
捕らえられた伊東の者たちの前に、八郎は座った。
「八郎軍に降るか」
「大友の方へ向かうか」
「選んでください」
伊東の重臣が、血のついた袖を握りしめて言った。
「我らを斬らぬのか」
「後悔するぞ」
八郎は少し首を傾げた。
「後悔は、今ここで首を取る方がしそうです」
「私は、あまり殺傷を好みません」
「大友へ行きたいなら行ってください」
「ただし、馬は多くは出せません」
「歩ける者は歩いてください」
「残りたい者は残っても構いません」
「借金と住まいと仕事は、順繰り見ます」
その言葉に、伊東の者たちはざわついた。
敗れた以上、皆殺しや処刑も覚悟していた。
だが、目の前の四歳児は、首ではなく帳面を見ている。
結局、残った者のおよそ半分は八郎軍の下に残ることを選んだ。
農民兵、下級の侍、商家衆に近い者たちである。
「ここで飯を食えるなら」
「借金を見てもらえるなら」
「家族を残しているから」
そう言って、頭を下げた。
残りの半分ほどは、大友の方へ向かうことを望んだ。
重臣や一族に近い者が多かった。
「ここには残れぬ」
「伊東の名を完全に捨てるわけにはいかぬ」
「大友に身を寄せる」
八郎はそれを止めなかった。
「分かりました」
「道中で乱暴はしないでください」
「武器は預かります」
「食べる分の握り飯は渡します」
五郎が小声で言う。
「敵に握り飯持たせて送り出すんか」
三郎が肩をすくめた。
「八郎軍やからな」
大友へ向かう伊東の者たちは、最後に一度、落ちた城を振り返った。
城壁の上には、島津と八郎の旗が立ち始めている。
だが、その下ではもう飯が炊かれ、怪我人に粥が配られ、商人衆が帳面をめくっていた。
戦が終わった瞬間から、市が始まっている。
それが八郎の戦だった。
八郎は城の中庭に立ち、静かに言った。
「では、片付けます」
「米蔵」
「借金」
「怪我人」
「寝床」
「湯浴み」
「順番です」
三郎が疲れた顔で笑った。
「落城の余韻も何もないな」
八郎は少しだけ笑った。
「余韻より、飯です」
「人が生きるには、そちらが先です」
日向の伊東は落ちた。
だが、八郎の本当の仕事は、ここから始まるのだった。




