1534年8月3週目。帳面合わせの後日向へ出陣。日向の伊東周辺の国人衆へ勧告の手紙を出す。
八月三週目の帳面合わせは、いつもより少し短かった。
広間には帳面が並んでいる。
だが、八郎はそれを前にして、いつものように細かく読み上げることはしなかった。
「帳面は、前回と大きく変わりません」
三郎が少し驚く。
「今日は細かい数字を言わへんのか」
「出陣前ですから」
八郎は淡々と答えた。
「庄屋衆への借金は、規定の額だけ仕入れ分で減らしておいてください」
「それ以外は、大きく動かしません」
「今は銭を残します」
五郎が頷いた。
「米を買うためやな」
「はい」
「日向の米を買います」
「兵を食わせます」
「湯を沸かします」
「噂を流します」
「だから、帳面そのものは前回通りでいいです」
八郎は顔を上げ、広間の皆を見渡した。
「私はこれをもって出ます」
「皆さんは、市を平常通り回してください」
「飯場、湯浴み、寺社市、米払い、帳面」
「戦に気を取られて、ここが乱れるのが一番困ります」
四郎が静かに頷く。
「本拠の市が崩れれば、外へ出る兵も崩れる」
「そうです」
「うちの城は帳面と市です」
「崩さないでください」
その言葉に、番頭衆や庄屋衆が一斉に頭を下げた。
八郎は次に、大隅方面の者を呼んだ。
「大隅へ文を出してください」
「何通もです」
「一通で届くと思わないでください」
「同じ内容を、道を変えて、相手を変えて、何度も出します」
使者役の侍が膝を進める。
「内容は」
八郎はすでに用意していた文案を読み上げた。
「まず、日向の国人衆へ」
「我らは伊東を攻めます」
「島津本家と伊東の停戦は、八月四週末に切れます」
「それまでは八郎軍と島津分家が国境近くへ進み、飯を炊き、米を買い、様子を見ます」
「停戦が切れた後、島津本家も合流します」
「連合軍はおよそ一万二千」
「それを見て、伊東につくか、八郎につくか、選んでください」
広間が静まり返る。
もう戦は、目の前に来ていた。
八郎はさらに続ける。
「八郎に降るなら、命は保証します」
「城の借金、侍の借金、庄屋衆の借金、農民の借金」
「全てこちらで見ます」
「ただし」
八郎の声が少し低くなった。
「借金を全て出した場合、その領主には責任を取ってもらう必要があります」
「民を苦しめた責任です」
「その場を去っていただくこともあります」
二郎が眉を寄せる。
「殺すのではないんやな」
「殺しません」
「八郎領の中であれば、身の保証と住居の保証はします」
「食うに困らないようにはします」
「ただ、元の城には残せない場合があります」
「借金の上に座ったまま、同じように支配することは許しません」
父が低く言った。
「厳しいな」
「厳しくします」
八郎はきっぱり言った。
「農民、庄屋衆、侍衆の借金を消すということは、誰かが責任を取るということです」
「それでも命は取らない」
「その線で行きます」
次に、八郎は大隅方面への指示を出した。
「大隅は、兵の準備ができているなら、兵二千」
「炊き出し五百」
「この形で領境からじわじわ飯を炊き始めてください」
「費用は惜しまなくていいです」
「米の値段は、日向の米なら三倍で買うと触れを回してください」
「農民が持ってくる米」
「早刈りして持ってくる米」
「基本、全部受け入れます」
庄屋衆の一人が思わず言った。
「早刈りまで買うのですか」
「買います」
「伊東の城に入る前に、こちらで買います」
「米は銭になります」
「銭は噂になります」
「噂は心を動かします」
「城に集まれと言われても、米を三倍で買ってくれる相手が目の前にいれば、農民は迷います」
三郎が苦笑した。
「ほんまに、えげつない攻め方やな」
「奪うよりはましです」
八郎は即答した。
「こちらは払います」
「払って奪います」
「それを奪うと言うんや」
五郎が突っ込むと、広間に少し笑いが起こった。
だが、その笑いもすぐに引き締まる。
八郎は使者たちに向き直った。
「文には、こうも書いてください」
「八郎軍は乱取りを許さない」
「米は買う」
「民は殺さない」
「降る者は使う」
「ただし、火を放ち、米を隠し、こちらの使者を殺す者は許さない」
「その時は、火矢も使います」
侍衆の顔が険しくなる。
「火矢五百ですね」
「はい」
「脅しではありません」
「使う時は使います」
「ただし、先に降る道を見せます」
「道を見せてから、それでも閉じる城に使います」
一郎が静かに頷いた。
「飯と文で先に心を取りに行く」
「それでも駄目なら火矢か」
「はい」
「順番です」
八郎は最後に、兄たちを見た。
「兄様方は出陣の準備をお願いします」
「三郎兄様は飯場」
「五郎兄様は庄屋衆と米買い」
「四郎兄様は寺社、市の帳面と、文の控え」
「六郎兄様、七郎兄様は説明役と伝令補助」
「二郎兄様は兵の動きと春姫様への顔見せ」
二郎が眉をひそめた。
「最後、なんか混ざってないか」
春姫が横で微笑む。
「大事なことです」
三郎と五郎が笑いをこらえた。
八郎は澄ました顔で続ける。
「島津本家、分家の姫君方にも、いずれ日向の市立て直しで働いていただくかもしれません」
「そのためにも、最初の荒れをできるだけ抑えます」
「占領地を、早く市に変えます」
「それが今回の戦です」
広間の皆が、静かに頭を下げた。
八月三週目。
帳面は大きく動かさない。
その代わり、文が動く。
米が動く。
兵が動く。
釜が動く。
大隅へ、日向国境へ、国人衆の城へ。
八郎の言葉が、何通もの書状となって飛んでいく。
伊東につくか。
八郎につくか。
命と借金と米の値段を前に、日向の国人衆たちは選ばされることになる。
八郎は最後に帳面を閉じた。
「では、出ます」
「飯を炊きに行きましょう」
その言葉に、三郎が苦笑した。
「戦に行く言葉ちゃうやろ」
五郎が続ける。
「でも、八郎らしいわ」
こうして、日向への戦は、刀より先に、飯の匂いと米三倍の触れで始まった。




