1534年8月2週目。日向攻めの兵站物資が着々と積みあがる。行軍は1週間かけて日向の国境まで向かう。
八月二週目は、まさにばたばただった。
本拠の庭には荷車が並び、米俵、味噌樽、塩、薪、桶、布、薬、釜が次々と積まれていく。
八郎は小さな体で帳面を持ち、あちらこちらに指示を飛ばしていた。
「湯浴み釜は六百、持っていきます」
三郎が振り向いた。
「六百?」
「そんなに持っていけるんか」
八郎は平然と答える。
「拠点が二十あります」
「各拠点に三十個ずつ釜を用意できるはずです」
「それを拾いながら進みます」
「全部を本拠から持っていくわけではありません」
五郎が呆れたように言う。
「道中で釜を集める行軍か」
「はい」
「後ろからついてきてください」
「まず島津本家と伊東領の境まで行きます」
「一週間弱ほどかけて、ゆっくり進みます」
二郎が腕を組んだ。
「ゆっくり進む意味は」
「銭を落とすためです」
八郎は即答した。
「今回は一千万文ほど持っていきます」
その場が静まった。
「一千万文?」
「どんだけ持っていくねん」
三郎が思わず声を上げる。
八郎は帳面をめくった。
「慰安費も兼ねています」
「兵の士気を落とさないためです」
「それと、日向側の米を買い尽くすつもりで行きます」
五郎が顔を引きつらせた。
「えげつない攻め方するな」
「奪うより穏やかです」
八郎は真顔で言う。
「三倍で買う」
「米を持ってきた者には銭を払う」
「足りない分は、できるだけツケでも受けます」
「日向の農民が伊東の城へ米を持っていくより、こちらに売った方が得だと思えば、それで勝ちです」
四郎が静かに頷いた。
「米を買えば、向こうの兵糧が減る」
「こちらの兵糧は増える」
「農民は銭を持つ」
「噂も広がる」
「はい」
八郎は満足そうに頷いた。
「八郎商会全体がフル稼働すれば、利益で千二百万文ほど出ます」
「そこは心配していません」
「私が心配しているのは、市が止まること、交易が止まることです」
「兵が出ても、市は平常通り回してください」
「飯場、湯浴み、寺社市、米払い、帳面」
「ここが止まると、足元が崩れます」
六郎と七郎も真剣に頷いた。
「説明役は残しておきます」
「寺社市も見ます」
八郎はさらに帳面を指で叩いた。
「火矢は五百ほど集まりました」
今度は父が顔をしかめた。
「物騒なものまで集めとるな」
「千本欲しかったのですが、今回は五百です」
「とりあえず持っていきます」
三郎が頭を抱える。
「飯と湯と銭で進むと思ったら、火矢もあるんか」
「物は試しです」
「試すものが物騒すぎる」
八郎は涼しい顔で続けた。
「火矢は攻め落とすためだけではありません」
「眠らせない」
「不安にさせる」
「城の中で飯が足りない時に、外ではこちらが飯を炊いている」
「その状態を作ります」
「心を折るための道具です」
一郎が芋焼酎の甕を見ながら苦笑した。
「お前の戦は、ほんまに飯と嫌がらせやな」
「死ぬ人が少ない方がよいです」
「そのためには、嫌がらせもします」
母が少し心配そうに八郎を見た。
「無理しすぎたらあかんよ」
「私は四歳児なので、無理はしません」
三郎が即座に突っ込む。
「一千万文持って火矢五百持って行く四歳児がおるか」
準備は進んだ。
八月二週目の終わりに帳面をもう一度合わせ、三週目には出立する。
その前に、八郎は兄たちへ向き直った。
「出る前に、島津本家の姫君方へ挨拶します」
三郎と五郎の肩がぴくりと動いた。
「やっぱりあるんか」
「あります」
「兄様方も心の準備をしてください」
五郎が顔をしかめる。
「分家の時より緊張するんやけど」
「島津本家の姫君方も魅力的ですよ」
八郎はにこにこと言った。
三郎が呆れたように睨む。
「お前のそういうところが、ちょっとませてんねん」
「事実です」
「それに、おそらく市で働きたいと言ってくるかもしれません」
「その時は、来てもよいと伝えます」
「島津分家の姫君方も同様です」
四郎が少し反応した。
八郎は見逃さず、にこりと笑う。
「ただし、日向は立ち上げ直後です」
「荒い対応になる可能性もあります」
「危ないこともあります」
「ですから、何かあれば兄様方に頼ってください、と言うつもりです」
五郎がすぐに言った。
「余計なこと言うな」
「余計ではありません」
「縁です」
「縁という名の外堀やろ」
六郎が小さく笑い、七郎も苦笑した。
二郎は春姫の方を思い出したのか、遠い目をしていた。
「逃げ道は、あるうちに大事にしとけよ」
三郎と五郎が同時に二郎を見る。
「経験者の顔やめてください」
広間に笑いが起こった。
だが、その笑いの外では、荷車が動き続けている。
釜六百。
銭一千万文。
火矢五百。
米を買うための商人。
兵を慰める湯浴み。
日向の国境へ向けて、八郎商会は静かに、しかし恐ろしい速さで形を変えていた。
八郎は帳面を閉じ、ぽつりと言った。
「戦は、始まる前が一番大事です」
「飯を炊けるか」
「湯を沸かせるか」
「銭を払えるか」
「市を止めないか」
「そこを間違えなければ、勝てます」
三郎はため息をつきながらも、少し笑った。
「ほな、勝つために飯を作るか」
五郎も頷いた。
「銭を落として、米を拾って、心を寄せる」
四郎が静かに言った。
「順繰りですね」
八郎は嬉しそうに頷く。
「はい」
「順繰りです」
その言葉とともに、日向へ向かう準備は、さらに速度を上げていった。




