1534年8月1週目。島津分家での残り期間を終えて帰宅の途につく兄様達。四郎兄様は仲の良い姫と文を送る約束をする。
島津分家での残り一週間は、思っていたほど悪いものではなかった。
少なくとも、三郎と五郎にとっては、島津本家の時よりずっと息がしやすかった。
一番大きかったのは、四郎だった。
四郎が、分家の姫君と少しずつ仲を深めていたからである。
派手に何かをするわけではない。
朝、市の様子を見に行く。
昼、寺社市の帳面を一緒に確認する。
夕方、湯浴み釜の場所を見て、帰りに少し茶を飲む。
ただそれだけだった。
けれど、その穏やかなやり取りが、周囲には妙に目立った。
姫君たちは四郎のそばに視線を向け、侍衆も庄屋衆も、ああ、あちらはあちらで進んでおるな、
という顔をする。
そのおかげで、三郎と五郎への圧は少し弱まった。
三郎は飯場で味を見ながら、小さく息を吐いた。
「なんやろな」
「今回は、わりとのびのびできたな」
五郎も米払いの列を眺めながら頷いた。
「四郎に視線が行ってくれたからやな」
「俺らが囲まれる時間が減った」
「ありがたいような、四郎に悪いような」
「まあ、本人も嫌そうではないしな」
少し離れたところでは、六郎と七郎が寺社市の説明をしていた。
最初はぎこちなかったが、島津本家領でも同じような説明を何度もしていたため、
言葉はだいぶ滑らかになっている。
「米払いはこちらです」
「飯屋へ出した米と、寺社市で使う米は帳面を分けます」
「分からない時は、その場で聞いてください」
七郎も続ける。
「寺への寄進分は、後でまとめて見えるようにします」
「売った側も、買った側も、あとで揉めないようにするためです」
農民たちは真剣に聞いていた。
前なら、子どもに近い若者が説明しても、半信半疑だったかもしれない。
だが今は違う。
八郎商会の市は、すでに分家領に馴染み始めている。
湯浴みは人を集め、飯場は腹を満たし、寺社市は米を銭のように動かし始めていた。
さらに大きかったのは、侍衆の協力である。
「釜を運ぶなら、うちの若い者を出そう」
「鳥獣狩りの段取りも任せてくれ」
「夜の警備は交代で見る」
「市の周りで喧嘩が起きぬよう、こちらでも目を配る」
誰もがよく動いた。
借金を返してもらった恩がある。
そして、四郎と姫君の縁ができるかもしれないという期待もある。
侍衆は、どこか浮き立っていた。
ただ浮かれているだけではない。
働きたい。
役に立ちたい。
この流れに乗りたい。
そういう熱があった。
三郎は鍋の前で苦笑した。
「侍さんらが、こんなに協力的やと、飯場も回しやすいな」
五郎も頷く。
「警備も、鳥獣狩りも、荷運びも、全部早い」
「借金を消すって、ほんまに人の顔を変えるな」
六郎が戻ってきて言った。
「寺社市の説明も、前より聞いてもらえました」
「島津本家でやった時より、怖さが少ないです」
七郎も少し笑う。
「分からないところを聞き返してくれるのがありがたいです」
「黙って分かったふりされる方が困ります」
四郎は、その横で静かに頷いた。
「いい空気ですね」
三郎がすかさず見る。
「その一因は、お前かもしれんぞ」
四郎は首を傾げた。
「僕ですか」
五郎がにやりと笑う。
「お前と姫君がええ感じやから、侍衆も姫君たちも機嫌がいい」
「そのおかげで、俺らへの圧が減った」
「感謝してるぞ」
四郎は少し頬を赤くした。
「僕は、普通に話しているだけです」
「その普通が大事なんやろ」
三郎が言うと、近くにいた分家の姫君が、少し嬉しそうに笑った。
そうして、二週間は大きな混乱もなく過ぎた。
市はまだ完全ではない。
寺社市も、湯浴みも、これから直すところはいくらでもある。
けれど、分家の空気は確実に変わっていた。
借金が消え、侍が動き、庄屋衆が前を向き、姫君たちも現場に出る。
八郎商会の市は、分家の中に根を下ろし始めていた。
帰り支度の日、一郎と千代姫も見送りに来た。
千代姫は四郎に向かって、静かに言った。
「四郎様」
「婚姻の話を、今日明日で決められないのは分かります」
「ただ、日向が落ちた後に諸々を進めるとなると、きっと忙しくなります」
一郎も頷く。
「日向の市立て直し、兵の整理、借金、米、寺社市」
「その中で縁談を考えるのは大変やぞ」
四郎は少し黙った。
分家の姫君は、少し離れたところでこちらを見ている。
逃げるような顔ではない。
ただ、待っている顔だった。
千代姫は柔らかく続けた。
「結婚するかどうかを今すぐ決める必要はありません」
「でも、会えない間に文を交わすくらいは、してもよいのではありませんか」
「気持ちを整理するためにも」
一郎も笑った。
「落ち着く相手なら、文でも落ち着くかもしれん」
三郎が横から茶化す。
「文で落ち着くって何や」
五郎も笑う。
「でも、ありやな」
「逃げるよりはええ」
四郎は少し考えてから、静かに頷いた。
「文は、書こうと思います」
「すぐに答えが出るかは分かりません」
「でも、話していて落ち着くのは本当なので」
千代姫は満足そうに微笑んだ。
「それで十分です」
分家の姫君にもその話が伝わると、彼女は嬉しそうに頭を下げた。
「お待ちしています」
四郎は少し照れながらも、ちゃんと目を見て頷いた。
帰路につく荷車の道中で、三郎は大きく伸びをした。
「なんやかんや、悪くなかったな」
五郎も息を吐く。
「島津本家より、だいぶ楽やった」
六郎が笑う。
「仕事もしやすかったです」
七郎も頷く。
「侍さんたちが協力的なのが大きかったですね」
四郎は静かに外を見ていた。
三郎がその横顔を見て、にやりとする。
「文、ちゃんと書けよ」
四郎は苦笑した。
「分かっています」
「兄様方に言われなくても書きます」
五郎が笑う。
「おお」
「少し進んだな」
四郎は照れ隠しのように窓の外を向いた。
「まだ、少しだけです」
その少しだけが、大きいのだと皆分かっていた。
八郎が聞けば、きっとこう言うだろう。
順繰りです、と。
島津分家での二週間は、仕事も縁も、確かに一歩進めて終わった。




