1534年7月4週目。帳面合わせ。島津分家7万文分の侍の借金1030万文を消す。実久大喜び。兄様方の援護(笑)と8月末からの戦の動員をにらんで
七月四週目の帳面合わせ。
八郎はいつものように、分厚い帳面を前にして座っていた。
広間には父、母、一郎、千代姫、実久様、番頭衆、商家衆、職人衆、
そして武士たちの代表が集まっている。
八郎は帳面を軽く叩いた。
「細かい数字は、あとで全部見ておいてください」
三郎がいないので、誰もすぐには突っ込まない。
代わりに父が苦笑した。
「最近そればっかりやな」
「細かすぎますので」
八郎は平然と答えた。
「ただ、今回大きいところだけ言います」
「島津分家七万石分」
「侍衆の借金、合わせて千三十万文」
「全部消しました」
広間が、一瞬静まり返った。
次の瞬間、実久様が立ち上がった。
「……まことか」
「はい」
「証文は順次破棄、または帳面上で返済処理に回します」
実久は拳を握りしめた。
「まじか」
「いや、まじかと言うてしまうわ」
「何代もかけて返さなあかんと思っておった侍の借金が、全部消えたのか」
「はい」
「七万石分、かなり軽くなります」
実久は大きく息を吐き、それから笑い出した。
「これは嬉しいぞ」
「むちゃくちゃ嬉しい」
「八郎殿、これはあれか」
「兄様方への援護射撃か」
八郎はにこりと笑った。
「援護射撃です」
広間に笑いが広がる。
千代姫が目を細めた。
「援護射撃、ですか」
「はい」
八郎はいたずらっぽく言った。
「今、三郎兄様、五郎兄様、四郎兄様たちは島津分家でお世話になっています」
「ですので、借金完済のお祝いをしてあげてください」
「ごつい侍さんたちで兄様方を囲んで」
「姫君方も呼んで」
「盛大にお祝いをしてあげてください」
実久は腹を抱えて笑った。
「それは面白い」
「逃げ場がなくなるな」
「逃げ場をなくすのではありません」
「祝いの場を作るだけです」
「同じことじゃ」
実久は楽しそうに笑い続ける。
八郎は指を折りながら続けた。
「今、三郎兄様と五郎兄様は人気があります」
「ただ、四郎兄様も、分家の姫君と少し仲良さげにしていた気がします」
「なので、今回の祝いが後押しになれば、一つ縁ができるかもしれません」
「六郎兄様、七郎兄様はまだ少し早いでしょう」
千代姫がくすりと笑った。
「八郎様、そこまで見ておられるのですか」
「分かりません」
八郎はあっさり言った。
「これが私のいたずらで終わるのか、本当に縁が進むのかは分かりません」
「でも、借金を返すことで効果は二つあります」
実久が腕を組む。
「聞こう」
「一つは、兄様方の縁談に弾みがつきます」
「島津分家として、八郎家に恩を感じる」
「その上で姫君方と兄様方が仲良くなれば、縁が結びやすくなる」
「これはあると思います」
実久は頷いた。
「あるな」
「もう一つは、八月四週目から九月一週目あたり」
「連合軍で動く時の士気です」
広間の空気が少し引き締まった。
「日向か」
「はい」
八郎は静かに言った。
「借金が消えた侍衆は、気持ちよく動けます」
「家の重しが取れた者は、戦にも出やすい」
「参加したいという人数も増えるかもしれません」
「私は当初、島津分家から千五百人ほどの参加を見込んでいました」
「ですが、今回の借金完済で、二千人ほど来ていただける可能性もあると思っています」
実久は目を細めた。
「そこまで見込んで、千三十万文を消したのか」
「はい」
「ですので、実久様には二つ見ていただきたいです」
「一つは縁談の空気」
「もう一つは侍衆の士気と、出兵可能人数」
「どれくらい動けるか、見積もっていただけるとありがたいです」
実久は力強く頷いた。
「分かった」
「それはわしが見る」
「しかし、盛り上がるぞ」
「借金を丸ごと消してもらって、侍たちが黙っておるわけがない」
「祭りになる」
「祭りにしてください」
八郎は言った。
「借金が消えたことを、ちゃんと祝いにしてください」
「そうすれば、侍衆の面目も立ちます」
「施しではありません」
「仕事と縁と戦のための支度です」
実久は少し真面目な顔になった。
「八郎殿」
「わしは、政が下手だったのかもしれんな」
「何代も返せぬ借金を抱えさせておった」
八郎はすぐに首を横に振った。
「違います」
「島津分家の政だけが悪かったわけではありません」
「どこの領地も似たようなものです」
「うちだって昔はそうでした」
「違うのは、八郎商会があることです」
「市、湯浴み、寺社市、米払い、帳面、交易」
「これを一緒に回せる商会があるから、借金を消せるのです」
「つまり、八郎商会がすごすぎるということですね」
父が即座に言った。
「自分で言うな」
母も笑いながら続ける。
「ほんまに、すぐ自分で言うんやから」
八郎は少し胸を張った。
「でも、すごいのは間違いありません」
「また言うた」
父が呆れる。
しかし母は、少し柔らかい顔で八郎を見た。
「でも、八郎はようやってる」
「ほんまに、ようやってるよ」
その言葉に、広間の空気が少し温かくなった。
八郎は一瞬だけ、照れたように目を伏せた。
「ありがとうございます」
実久は大きく笑って立ち上がった。
「よし」
「ならば分家で祝いじゃ」
「侍衆を集める」
「庄屋衆も呼ぶ」
「姫たちも呼ぶ」
「三郎殿、五郎殿、四郎殿には、たっぷり礼を言ってやろう」
千代姫が笑う。
「父上、それは少し圧が強いのでは」
「圧ではない」
実久はにやりと笑った。
「感謝じゃ」
八郎もにこりと笑った。
「兄様方は感謝に弱いです」
「逃げにくくなります」
父がまた突っ込む。
「結局、逃げ場をなくしてるやないか」
八郎は澄ました顔で帳面を閉じた。
「借金も縁も、順繰りです」
母が笑いながら首を振った。
「ほんまに、この子は」
その日、島津分家七万石分の借金は消えた。
それはただの返済ではなかった。
侍の士気を上げる火であり、商家衆を味方にする薬であり、兄たちの縁談をそっと押す
援護射撃でもあった。
八郎商会の帳面の上で消えた千三十万文は、島津分家の中で、祝いと笑いと少しの逃げ場のなさに
変わろうとしていた。




