1534年7月3週目。周囲の城と侍の借金を鬼ほど減る。兄様方は島津分家へ姫君と市を見に行く2週間。
七月三週目の帳簿合わせ。
広間には、いつものように帳面が積み上げられていた。
八郎は小さな体で上座近くに座り、兄弟たち、番頭衆、庄屋衆、職人衆を見渡した。
「ここから七月、八月四週目くらいまでは、私はあまり大きく動きません」
三郎が眉を上げる。
「ほんまか?」
「ほんまに動かへんのか?」
八郎は少し考えてから言った。
「私自身は、です」
「周りは動きます」
「やっぱりやないか」
五郎がため息をついた。
八郎は帳面を開く。
「皆さんの意見を聞きながら、順繰り借金を返していくことに力を入れます」
「まず、肥後南部、薩摩川内の北側三万五千石分」
「この城の借金を全部消します」
広間がざわりと揺れた。
「全部ですか!」
「城の借金が消えるのですか!」
八郎は続ける。
「さらに、その上の地域の武士の借金も全部消します」
今度は武士たちが声を上げた。
「おおっ!」
「これで面目が立つ!」
「八郎様、ありがとうございます!」
八郎は小さく頷いた。
「これは、ただ借金を消すだけではありません」
「北肥後を圧迫するための策でもあります」
その言葉に、広間の空気が少し引き締まった。
四郎が静かに尋ねる。
「豊かさを見せる、ということか」
「はい」
八郎は帳面を指で叩いた。
「南肥後の城の借金が消える」
「武士の借金が消える」
「農民は米払いで物を買える」
「湯浴みも寺社市も動いている」
「それを北肥後の国人衆や庄屋衆が見れば、こちらへ心が振れやすくなります」
「攻める前に、羨ましがらせます」
実久が苦笑した。
「また飯と借金で国を削る気か」
「はい」
「刀を抜く前に、帳面を見せます」
「お前の戦は、ほんまにいやらしいのう」
八郎は平然と続けた。
「それと、高級湯浴みのツケも消しております」
「職人衆への支払いも済ませます」
職人衆が顔を輝かせた。
「ありがたいです!」
「これでまた次を作れます!」
「作ってください」
八郎は頷いた。
「ただし、出費はものすごいです」
「八郎商会の手元資金は、先週に比べて一千万文ほど減っています」
広間が静まり返った。
「一千万文?」
「そんなに減っているんですか?」
五郎が思わず聞き返す。
「減っています」
八郎はあっさり答えた。
「ですが、その分、借金を減らしています」
「銭が消えたのではありません」
「城の重しを外し、武士の首にかかっていた縄を切り、職人衆が次に動けるようにしたのです」
三郎が腕を組む。
「言い方はうまいけど、数字はえぐいな」
「はい」
「でも、借金は基本的によいことがありません」
「消せるときに消します」
「その地域では、これから寺社市の売上も伸びるでしょう」
「高級湯浴みを使う人の頻度も上がります」
「借金が消えれば、銭が暮らしに回ります」
「銭が暮らしに回れば、市が育ちます」
「順繰りです」
六郎が小さく呟いた。
「最近、順繰りが怖く聞こえる」
七郎も頷く。
「一つ消したら、次の国が見えてくるもんな」
八郎は帳面を閉じ、今度は兄たちの方を見た。
「それから、三郎兄様以下の兄様方」
三郎、四郎、五郎、六郎、七郎が一斉に身構える。
「島津分家で二週間ほどお世話になります」
「姫君方と交流してきてください」
「私は残ります」
広間が一瞬止まった。
三郎が叫ぶ。
「なんで俺らだけそんな雑やねん!」
五郎も顔をしかめる。
「市の立ち上げより説明が雑やぞ」
八郎は真顔で答えた。
「私はめちゃくちゃ丁寧にやっています」
「兄様方が全然動かないから、こうなっているだけです」
「辛辣やな!」
四郎が苦笑し、六郎と七郎は顔を見合わせた。
「俺らも入ってるんか」
「完全に巻き込まれてるな」
八郎は構わず続ける。
「私はこの一ヶ月、あまり本拠を離れられません」
「取らないといけない情報があります」
「北肥後、大友、龍造寺、島津本家、伊東」
「それぞれの動きを見ます」
「それから火矢です」
「火矢?」
実久様が眉を上げた。
八郎は静かに言った。
「火薬を含んだ火矢を、千本ほど用意したいと思っています」
「次の伊東攻めに備えて」
広間の空気が、さらに重くなった。
三郎が顔を引きつらせる。
「また恐ろしいこと言うな」
五郎も呟いた。
「千本て」
「攻撃というより、眠らせないためです」
八郎は淡々と言う。
「夜に火矢を飛ばす」
「音を立てる」
「煙を見せる」
「城の中を不安にする」
「飯の匂い、太鼓、松明、火矢」
「城に籠もるのが嫌になれば勝ちです」
実久様が腕を組んだ。
「体より先に心を折るわけか」
「はい」
「ただし、火薬は危ないです」
「保管場所、試し撃ち場、火消し、水桶、砂、運搬役」
「全部決めないといけません」
「飯屋や湯浴み場の近くでは絶対に作りません」
「そこだけ急に現実的やな」
三郎が呆れたように言う。
「全部現実です」
八郎は言い返した。
「戦は派手に見えますが、勝つ前にやることは地味です」
「米を買う」
「借金を消す」
「湯浴みを入れる」
「寺社市を回す」
「火矢を作る」
「兵を食わせる」
「馬を休ませる」
「それを全部、帳面に乗せます」
番頭衆が真剣な顔で筆を走らせる。
八郎は兄たちを見た。
「だから兄様方」
「島津分家へ行ってください」
「縁談だけではありません」
「市を見て、寺社市を見て、分家の姫君方と話して、現場を回してください」
「私が本拠で戦の準備をしている間、兄様方には人の心を見てもらいます」
三郎は大きく息を吐いた。
「それを最初に言え」
五郎も少しだけ肩を落とした。
「結局、仕事なんやな」
「はい」
「ただし、姫君方とも仲良くしてください」
「そこは余計や!」
広間に笑いが戻った。
だが、帳面の上では確かに、日向への戦が近づいていた。
借金を消すこと。
北肥後へ豊かさを見せること。
島津分家との縁を深めること。
火矢を千本用意すること。
どれも別々に見えて、八郎の中では一本の線でつながっている。
八郎は最後に、静かに言った。
「大きく動く前ほど、細かく積みます」
「一つずつです」
「私たちが作った城を、崩さないために」
その言葉に、誰も軽口を返さなかった。
四歳児の前に積まれた帳面は、すでに一つの国の形をしていた。




