1534年6月4週目。八郎の新しい市を立ち上げる快感が病みつきになるところと色々つながっていくところを理解し始める姫君たち。
数日もすると、町娘姿の姫君たちは、だいぶ市の空気に慣れてきていた。
最初は袖を汚さぬように立っていた姫も、今では桶を数え、米俵の置き場を聞き、
湯番の女衆に声をかけるようになっている。
立ち上げたばかりの市は、まだ整ってはいない。
だが、釜から湯気が上がり、飯場から味噌汁の匂いが流れ、米払いの帳面に列ができると、
村の顔が目に見えて変わっていく。
その変化を見て、長女格の姫がぽつりと言った。
「これは……病みつきになるかもしれませんね」
八郎が振り向く。
「何がですか」
「村の人たちの顔が変わることです」
姫は湯浴みへ向かう農民たちを見た。
「昨日まで困っていた人たちが、今日は笑っている」
「何もなかった場所に、釜が来て、湯が沸いて、米で物が買える」
「それだけで、こんなに喜ばれる」
「八郎様が精力的に動く理由が、少し分かった気がします」
八郎は嬉しそうに頷いた。
「そうなんです」
「結構、病みつきになります」
「早く驚かせようと思うんです」
「昨日も湯浴みを無料にしたでしょう」
「みんな喜んでいたでしょう」
「はい」
「それを見ると、またやりたくなります」
八郎は釜の方を指した。
「それに、雇った人たちにも日当はちゃんと払っています」
「釜を据える人、薪を割る人、湯を運ぶ人、桶を洗う人」
「仕事が増えれば、そこでも喜ばれます」
「特に農閑期や、畑を持たない人には大きいです」
「銭を作る仕事がないですから」
三郎が横で呆れたように笑った。
「お前はほんますごいな」
五郎も頷く。
「口だけやなくて、回し方がえぐい」
八郎は首を横に振った。
「私は口でぎゃあぎゃあ言っているだけです」
「実際に動いてくださる兄様方がいるから成り立っています」
「そして、そういう兄様方を見て、姫君方が、兄様方はいいな、となるわけです」
三郎と五郎が同時に顔をしかめた。
「そこに繋げるの、ほんまやめろ」
「市から縁談に持っていくな」
すると姫君たちが、にこにこと近づいてきた。
「でも、そうですよね」
「働いておられる姿は、やはりよく見えます」
三郎の額に汗が浮かぶ。
「いや、僕は料理を頑張るだけなんで」
五郎も慌てて言う。
「僕も仕事を頑張るだけです」
「では、またお昼を一緒に食べましょう」
妹姫の一人がさらりと言った。
「食事も仕事のうちです」
五郎は言葉に詰まった。
長女格の姫は楽しそうに続ける。
「嫌な理由を一つずつ消していけばよいのではありませんか」
「まず、何が敷居になっているのかを聞く」
「それを私たちが一つずつ潰す」
「そうすれば、最後には丸裸にできますね」
「怖いことを言わないでください」
五郎が本気で困った顔をした。
「丸裸にされたら逃げられないじゃないですか」
「なぜ逃げようとなさるのですか」
「いや、そら、お父様方との付き合いとか、いかついお侍さん方との付き合いとか、
いろいろあるでしょう」
長女格の姫は少し首を傾げた。
「侍は侍です」
「それも大事です」
「でも、こうやって市を開き、借金を返せる仕組みを作る方々も大事です」
「民がついてくる理由が、私たちにも分かってきました」
「戦には戦の大事さがあります」
「でも、湯を沸かし、米を受け取り、帳面を消す大事さもある」
「今、島津は八郎様のそのやり方に飲まれかけています」
姫はにっこり笑った。
「ですから、潔く私たちにも飲まれてください」
三郎が吹き出した。
「言い方が露骨すぎませんか」
五郎も耳まで赤くなる。
「飲まれるって何ですか」
「市も縁も、受け入れるということです」
「余計怖いです」
周囲の者たちは笑った。
八郎はそれを見ながら、ふむ、と頷く。
「この調子なら、隣の市も開いてくださいと言われそうですね」
忠良の家臣がぎょっとする。
「もうですか」
「そう思っているから、風呂釜を多めに持ってきました」
八郎は平然と言った。
「四百五十です」
「今の市に全部使わなくても、次に回せます」
「それに、日向へ向けて何かするなら、この辺りに風呂釜を大量に置いておいた方がいいです」
「兵站にもなります」
「民心にもなります」
「戦の前の湯気です」
三郎が頭を抱える。
「また話が日向まで飛んだ」
五郎もため息をつく。
「市を立ててたら、いつの間にか戦の準備になってるんよ」
八郎は胸を張った。
「全部つながっています」
長女格の姫が、それを真似るように言った。
「市も、湯浴みも、借金も、縁も、全部つながっていますね」
八郎はにこりと笑った。
「よく分かってきましたね」
「八郎様に言われると腹が立ちます」
「でも、少し楽しくなってきました」
その言葉に、三郎と五郎は顔を見合わせた。
島津の姫君たちは、もうただ見ているだけではない。
市の湯気の中に入り、農民の笑顔を見て、兄弟たちの仕事ぶりを見て、少しずつ八郎の仕組みに
馴染み始めている。
それはありがたいようで、恐ろしいようで、逃げ場がなくなるような空気だった。
八郎は釜の湯気を見上げて言った。
「では、一つずつやりましょう」
「今日は湯浴み」
「明日は寺社市」
「その次は帳面」
「縁談は……兄様方に任せます」
「そこだけ丸投げするな!」
兄たちの声に、姫君たちの笑い声が重なった。
新しい市は、まだ始まったばかりだった。
だが、湯気と笑いと少しの恋の気配が、もう確かに立ち上がっていた。




