1534年6月4週目。市の立ち上げが爆速で動く。湯あみ今日はタダするというと行列ができる。姫君も立ち上げを経て楽しくなってくる。
新しい市に釜が届いたのは、朝のまだ早い時刻だった。
さすがに一日で三百個を据えるのは無理だった。
人手が足りない。
場所も足りない。
桶も、薪も、湯を運ぶ者も、湯番も、帳面役も足りない。
それでも八郎は止まらなかった。
「今日は百個でいいです」
「無理やりでも組み上げます」
「隣の市から分かる者を呼んでください」
「日当を払います」
「釜を据える者、薪を割る者、湯を運ぶ者、桶を洗う者、全部仕事です」
島津本家の家臣たちは呆れ、農民たちは目を丸くし、それでも銭が出ると聞くと一斉に動き出した。
昼過ぎには、急ごしらえながら百ほどの釜が並び、そこから湯気が立ち始めた。
八郎は湯気を見上げて、ぱん、と手を打つ。
「今日は試しです」
「湯浴みは無料でいいです」
「順番だけ守ってください」
その声が広がると、人が一気に集まった。
子どもが走り、農民の男たちが笑い、女衆が桶を抱え、老人まで杖をついてやってくる。
「ほんまに入ってええんか」
「今日はただやて」
「汗流せるんか」
「ありがたいわ」
町娘姿の姫君たちは、その様子を少し離れた場所から見ていた。
長女格の姫が、ぽつりと言う。
「……悪くありませんね」
五郎が少し笑った。
「結構あれでしょう」
「感動するでしょう」
三郎も湯気を見ながら頷く。
「やっぱり、湯に入れると皆、機嫌がようなりますね」
「飯もそうやけど、湯も強いわ」
姫君の一人が三郎を見た。
「三郎様は、そういうところをよく見ておられるのですね」
三郎は少し慌てた。
「いや、飯屋ですから」
「人の顔見んと味も分からんので」
その横で五郎も、農民たちの列を整理していた。
「はい、順番守ってください」
「熱すぎたら言うてください」
「桶は使ったらこちらへ」
「寺社市の米払いの話は、後で帳面役に聞いてください」
長女格の姫が、にこりと笑う。
「頼られる弟君を支えるお兄様方というのも、よいですね」
「本当にそう思います」
別の姫も続けた。
三郎と五郎は顔を見合わせる。
「いや、僕らそんな大したものではないです」
五郎が逃げるように言った。
「他にも、いい男はいっぱいいると思いますよ」
姫君たちは一歩近づいた。
「また逃げようとなさる」
「では、少し休み時間にしましょう」
「お茶でも飲んで、お話ししませんか」
三郎が慌てる。
「いや、まだ立ち上げが」
「一つくらい遅くても大丈夫です」
「八郎は早くしろって言うてますよ」
「市と縁は同時進行です」
五郎が頭を抱えた。
「その言い方、八郎みたいになってきてますやん」
姫君の一人が、そっと五郎の手を取った。
「そんなに、私たちと話すのは嫌ですか」
「いや、そんなことは」
「女の人と一緒にいるのは、お嫌いですか」
「嫌いではないですけども」
五郎の声が急に小さくなる。
姫君は少し真面目な顔になった。
「では、理由を聞きたいのです」
「なぜ、そんなに尻込みされるのか」
五郎は困ったように息を吐いた。
「二郎と春姫様の婚姻を近くで見て、だいぶ大変やったんです」
「家のこと、気持ちのこと、手順のこと」
「一つ間違えたら、誰かが傷つく」
「そういうのを見てると、軽く踏み込めへんのです」
姫君は静かに笑った。
「その大変なところを、ちゃんと考えてくださるところが良いのではありませんか」
三郎と五郎は、今度こそ言葉に詰まった。
一方、八郎は四郎、六郎、七郎を連れて、帳面場へ向かっていた。
「どうですか」
八郎は昨日証文を集めた農民たちに声をかける。
「一千万文から、まだ大きくは変わっていないと思いますけど」
庄屋は首を横に振った。
「十分です」
「こんなに早く市を開いていただいて、ありがとうございます」
「昨日の今日でございます」
「しかも風呂釜を大量に入れてくださった」
「八郎様の本気が伝わります」
農民の男も続けた。
「市としては、まだ一日二日で回るものではありません」
「でも、前を向けます」
「それがありがたいのです」
八郎は頷いた。
「これから寺社市も立ち上げます」
「四郎兄様、六郎兄様、七郎兄様をあちこちに配備します」
「寺や神社で小さな市を開き、米払いができるようにします」
その言葉を聞いた女衆が、また泣き出した。
「こんなに嬉しい日はありません」
「利を下げていただいて」
「湯も入れていただいて」
「米で買えるようにしていただいて」
「もう八郎様についていきます」
「やめてください」
八郎は慌てて手を振った。
「ここは島津本家の領地です」
「私はお手伝いです」
少し離れて見ていた町娘姿の姫君たちは、苦笑いするしかなかった。
まただ。
また民が八郎についていくと言う。
そして八郎は、それを否定しながら、確実に民の心を掴んでいる。
八郎は小さく息を吐き、帳面を閉じた。
「一つずつやっていきましょう」
「私は妖術が使えるわけではありません」
「釜を置く」
「湯を沸かす」
「米を受け取る」
「帳面を見る」
「寺社市を開く」
「一つ一つです」
庄屋は深く頭を下げた。
「その一つ一つが、重くてありがたいのです」
八郎は少しだけ照れたように頷いた。
湯気の向こうでは、農民たちの笑い声が広がっている。
市はまだ立ち上がったばかりだった。
けれど、その日、島津本家の新しい一束には、確かに人が前を向く音が生まれていた。




