1534年6月3週目。全ての市を見て感想を聞く八郎に、ここまで心が揺れることをわかって仕向けたことに拗ねる姫君。つねる。抱き寄せてあやすwww島津本家との話し合い。
証文の突き合わせを終えるころ、村の空気は朝とはまるで違っていた。
農民たちは、まだ不安げではある。
けれど、先ほどまでのような、底に沈んだ顔ではない。
一千万文。
その重さを初めて目で見て、さらに利息が半分になると聞いて、何人かはまだ目元を拭っていた。
八郎は帳面役に向かって言った。
「帳面は、これからもちゃんとつけておいてください」
「誰が、誰に、いくら借りているのか」
「利がいくらなのか」
「どこまで返したのか」
「そこを曖昧にすると、また苦しくなります」
庄屋が深く頭を下げる。
「はい。必ずつけます」
八郎は、商人たちにも向き直った。
「利を下げてくださったところとは、徐々にお付き合いしていきます」
「市が入った時、寺社市が動いた時、交易品が入った時」
「その都度、きちんと話を回します」
商人たちは、先ほどまでの偉そうな顔をすっかり消していた。
「よろしくお願いいたします」
「八郎様の信用に乗らせていただきます」
農民たちも一斉に頭を下げた。
「一生忘れません」
「八郎様、ありがとうございます」
八郎は少し困った顔で笑った。
「まだ私は、一文も出していませんよ」
農民の女が涙を拭きながら言う。
「一文も出してへんのに、利が半分になりました」
「それだけで、十分でございます」
八郎は頷いた。
「では、次に市が入るまで、帳面を崩さないようにしてください」
「はい!」
そうして一行は、島津本家の城へ戻ることになった。
道中、町娘姿の姫君たちは、しばらく黙っていた。
先に入った市の賑わい。
立ち上げ中の市の熱気。
まだ市のない村の暗さ。
証文の山。
利が半分になると聞いて泣き出した農民たち。
それらが胸の中で混ざり、言葉にならなかった。
城へ戻る少し手前で、八郎が振り返った。
「どうでしたか」
「今日、いろいろ見て」
長女格の姫が、じっと八郎を見た。
「八郎様は、ずるいです」
「はい?」
「私たちの気持ちが、ここまで揺れることを分かっていたでしょう」
八郎は少しだけ視線をそらした。
「見れば、考えてくださるとは思っていました」
「そういうところです」
姫はむすっとした顔になる。
「本当にひどい男です」
三郎と五郎が後ろで噴き出した。
「四歳児に言う言葉ちゃうやろ」
「でもまあ、ひどいのは合ってるな」
姫君たちは八郎を囲むように立った。
「私たちは、どうしたらよいのですか」
八郎は首を傾げる。
「それは、本家の方でお話しされるのがよいと思います」
「今日見たこと」
「気づいたこと」
「納得できないこと」
「忠良様や貴久様と話してみてください」
「違います」
長女格の姫は首を振った。
「そういう答えではありません」
「私たちは、もう八郎様の手のひらの上にいると分かっているのです」
「それが悔しいのです」
「それは……すみません」
「謝られても腹が立ちます」
そう言うなり、姫は八郎の頬を軽くつねった。
「痛いです」
「痛いようにつねっています」
「嫌です。拗ねるのはやめてください」
八郎は頬を押さえながら言った。
「僕は痛いのは嫌いです」
「柔らかいのは好きですよ」
一瞬、場が止まった。
三郎が目を見開く。
五郎が口元を押さえる。
長女格の姫は、にこりと笑った。
「では、これはどうですか」
そう言って、八郎をひょいと抱き寄せた。
姉が小さな弟をあやすように、ぎゅっと腕の中に包み込む。
八郎の小さな体は、すっぽりと収まった。
「痛くありませんね」
「これは……」
八郎は少しだけ考えた。
「最高ですね」
三郎と五郎が同時に吹き出した。
「何を言うとんねん、この四歳児は!」
「完全にあやされとるやないか!」
姫は満足そうに八郎の頭を軽く撫でた。
「なるほど」
「八郎様の弱点が分かりました」
「弱点ではありません」
「柔らかい説得です」
「それを弱点と言うのです」
春姫も口元を押さえて笑っている。
二郎は困ったように笑いながら、八郎を見ていた。
「八郎、そろそろ父上たちへ報告せなあかん」
「はい」
長女格の姫は、ようやく八郎を離した。
八郎は服を整えながら、少しだけ真面目な顔に戻る。
「今日見たことは、私の言葉ではなく、皆様の言葉で伝えてください」
「その方が、忠良様にも貴久様にも届きます」
姫君たちは頷いた。
やがて城へ戻ると、八郎たち兄弟は別室へ通され、姫君たちは奥へ向かった。
忠良と貴久は、すでに待っていた。
長女格の姫が座り、深く頭を下げる。
「父上」
「貴久様」
「一応、見てまいりました」
忠良は静かに問いかけた。
「どうであった」
姫君たちは互いに顔を見合わせた。
市の湯気。
米払い。
湯浴み。
証文の山。
泣き崩れた農民。
そして、何もせずに利を半分にした八郎の小さな背中。
長女格の姫は、ゆっくり口を開いた。
「悔しいですが」
「八郎様の見せたものは、無視できません」
島津本家の奥で、次の話し合いが始まろうとしていた。




