1536年6月3週目。立ち上がり始めた市を見る。風呂釜に隠された八郎の意図を語る住民。まだ市が導入されていない村々を見る。農民と帳面と商人を集めて話し合いの場を作る。
立ち上げかけの市は、まだ形こそ粗かった。
釜の位置も定まっておらず、薪も山積みのまま、帳面役も何度も声を張り上げている。
だが、そこにいる者たちの顔は明るかった。
農民たちは忙しそうに動きながらも、不思議と嫌そうではない。
町娘姿の姫君の一人が、小さく呟いた。
「労役というものは、皆、もっと嫌々やるものだと思っていました」
すると薪を運んでいた男が笑った。
「そら、島津様の普請や労役とは違いますわ」
姫君は思わず聞き返す。
「違うのですか」
「違いますわ」
男は背中の薪を降ろし、額の汗を拭った。
「ここは一日四十文出るんです」
「わしら農民にも、湯浴みの釜番や薪くべをやらせてくれる」
「仕事になってるんです」
別の農民も加わった。
「八郎様のすごいところは、湯浴みを作って湯浴みだけで儲けようとしてるところやないんです」
「薪を割る者」
「湯を沸かす者」
「桶を洗う者」
「湯番をする者」
「そういう仕事を、農民に回してくれるんです」
「農作業が終わった冬場なんか、銭を作る仕事はほとんどありません」
「けど、八郎様はそこまで考えてくださる」
「しかも、それでちゃんと利益を出しておられる」
「だから誰も損せえへん
姫君たちは顔を見合わせた。
男はさらに熱を込めて言う。
「湯浴みには入りたい」
「入れば汗が流せる」
「人が集まれば話もできる」
「しかも仕事は一人に固めず、順繰りで回すように言うてくださる」
「特定の者だけに銭が集まらんように、そこまで考えてはる」
「この釜は、ただの釜やないんです」
「仕事を生む釜なんです」
長女格の姫は、黙ってその釜を見た。
高価なものだとは分かる。
初期の投資も相当かかったはずだ。
だが、目の前ではその釜を中心に、人が動き、銭が生まれ、湯が沸き、笑い声が出ている。
「今はほんまに、鬼のように入れてくれてます」
農民の女が笑った。
「みんな急に人間に戻ってる感じですわ」
「汗を流して、温かいもん食べて、ちょっと寝る」
「それだけで違います」
姫君たちは、先ほど見た完成した市と、この立ち上がりかけの市を比べた。
違いはある。
けれど、空気は同じだった。
人が前を向いている。
八郎はそれを見て、小さく頷いた。
「では、最後に市がまだ入っていないところを見に行きましょう」
次に向かった村は、空気が違った。
市はあるにはある。
だが、静かだった。
荷車は少なく、店先も寂しく、農民たちの顔は暗い。
湯浴みの湯気もない。
味噌汁の匂いもない。
姫君たちは、先ほどまでの賑わいとの差に言葉を失った。
その時、村の男が八郎の顔を見て、はっとした。
「八郎様……」
「大隅への行軍で見ました」
「あの時、銭を撒いて、米や野菜をちゃんと買い取ってくれたのを見ています」
男はその場に膝をついた。
「こちらにも、市を入れてもらえませんでしょうか」
八郎はすぐに首を横に振った。
「ここは私の領地ではありません」
「島津本家のご意向があります」
「そんな、見捨てんといてください」
「見捨てるわけではありません」
八郎は静かに答えた。
「隣にも市を入れさせていただき、今動かしているところです」
「それが羨ましいんです」
別の農民が苦しそうに言った。
「借金で首が回りません」
「親戚が市の入った村におります」
「米で払えて、湯に入れて、借金が減っていると聞きました」
「眩しすぎます」
「島津のお殿様に談判しに行きたいくらいですわ」
その言葉に、姫君たちの顔が強張った。
八郎は一歩前に出た。
「今日言って、今日市を入れることはできません」
「それは島津の家が決めることです」
「ただ、今、私にできることはあります」
村人たちが顔を上げる。
「帳面は今、どうしていますか」
「借用の証文は、誰が持っていますか」
男たちは顔を見合わせた。
「商人です」
「寺にもあります」
「庄屋のところにも控えが」
八郎は頷いた。
「では、皆さんの借用証文をできるだけ集めてください」
「表も裏も、帳面も」
「借りている商人たちも呼びます」
「話し合いはできます」
姫君の一人が思わず尋ねた。
「話し合って、何が変わるのですか」
村人も同じ顔をしていた。
「何が変わりますのや」
八郎はにこりと笑った。
「やれば分かります」
「まず、借金の形を見ます」
「誰が誰に、いくら貸しているのか」
「利息がどれだけ乗っているのか」
「どこが苦しいのか」
「どこから崩せるのか」
「それを並べるだけでも価値があります」
長女格の姫が、八郎をじっと見た。
「また、何かやるのですね」
「はい」
「何をするつもりですか」
八郎は帳面役を呼びながら答えた。
「見ていただければ、意味が分かると思います」
三郎が後ろで呟く。
「また始まった」
五郎も苦笑した。
「市がなくても、帳面から火をつける気やな」
八郎は何も言わず、村人たちへ声をかけた。
「証文を集めてください」
「商人も呼んでください」
「市が入る前にできることを、先にやります」
姫君たちは、その小さな背中を見つめた。
市がある場所では、民は喜んでいた。
市を立ち上げている場所では、人が生き生きしていた。
そして市がない場所でも、八郎はもう次の手を打ち始めている。
本当に、手のひらの上なのかもしれない。
そう思うと悔しい。
けれど、目の前の農民たちが少しだけ顔を上げたことも、姫君たちは確かに見てしまった。




