1534年6月2週目。日向の伊東攻めの話と目算。島津からしたら時にはがっつり戦いたいというがそれは今後に取っておいてくれと話す八郎。
湯気の立つ新しい市を見ながら、忠良はしばらく黙っていた。
八郎は相変わらず、釜の位置や米払いの帳面、湯番の順番まで細かく指示を飛ばしている。
忠良がその横顔を見ながら、ぽつりと言った。
「八郎殿」
「はい」
八郎が振り向く。
忠良は少し笑ってから、低い声で尋ねた。
「おぬし、八月末に連合軍で伊東と対峙するとして、どれくらいで日向を全部飲み込めると思っておる」
周囲の家臣たちが息を呑んだ。
だが八郎は、特に驚いた様子もなく、小さく首を傾げた。
「全部、ですか」
「どうせ考えておるのだろう」
忠良は苦笑する。
「収穫前を狙っておるのも、見えておる」
「早刈りさせるにしても、こちらが国境で飯を炊き続ければ、伊東の命令だけでは民は動かん」
「包囲しながら、稲を刈り取りながら、飯を炊く」
「おぬしのやりそうなことじゃ」
八郎は少しだけ笑った。
「外しませんね」
「やはりか」
貴久が額に手を当てる。
「本当にやる気ですか」
「収穫期は大事です」
八郎は淡々と言った。
「米を押さえれば、兵糧を押さえます」
「兵糧を押さえれば、城の中の心が揺れます」
「外で飯を炊けば、城の中の腹が鳴ります」
「民が早刈りしようとしても、こちらが買い取ると言えば迷います」
「伊東のために刈るのか」
「自分の借金を減らすために売るのか」
「そこを迷わせます」
忠良は低く笑った。
「戦の前に、米の買い方で戦を始めるわけか」
「はい」
「刀を抜く前に、米俵を動かします」
貴久が呆れたように言う。
「恐ろしい四歳児ですな」
八郎はさらに続けた。
「それに、新しい武器が手に入れば、少し試してみたいものもあります」
忠良の眉がぴくりと動く。
「新しい武器?」
「琉球の方で、明や南方の火薬を使った武器を輸入できるか試しています」
「火矢、火筒、小型の砲のようなもの」
三郎が遠くから聞きつけ、思わず声を上げた。
「また怖いこと言うてる!」
八郎は振り返らずに答える。
「やることは変わりません」
「飯を炊き、帳面を見て、借金を減らし、城の中を眠らせない」
「火矢があれば、夜に少し空を光らせるだけです」
「少しで済む言い方ではないな」
忠良は腕を組んだ。
「だが、北九州では同じようにはいかぬか」
「はい」
八郎はすぐに頷いた。
「北九州は状況が変わります」
「大友、大内、少弐、龍造寺、松浦、有馬、天草」
「いろいろな家が絡みます」
「一つ動けば、別の家が見ます」
「だから、まずは南です」
「日向は比較的取りやすい」
「大隅側と島津本家側から挟めます」
「島津分家も絡めます」
「周辺国人衆を先に削れば、伊東本体はかなり苦しくなる」
貴久が地図を思い浮かべるように目を伏せた。
「その後は」
「大友になるか」
「龍造寺になるか」
「大内になるか」
「あるいは四国へ目を伸ばすか」
八郎は指を折った。
「ただ、すぐに大友とはいきません」
「日向を取れば借金も山ほどあります」
「民の心をこちらに残す必要があります」
「庄屋衆の借金も見なければならない」
「市も湯浴みも、寺社市も入れなければならない」
「だから、日向を飲み込んだ後、すぐ大友へ向かうのは危ないです」
忠良は頷いた。
「島津としては、借金が馬鹿馬鹿減るのはありがたい」
「それに、大軍で行けるなら兵の消耗が少なくて済む」
「そこは、いつも助かっておる」
少し間を置いて、忠良は苦く笑った。
「ただな」
「島津としては、本気でぶち当たって勝ちたいという思いもある」
「武家としては、そういう血もある」
八郎は静かに頷いた。
「分かります」
「ですが、それをすると、先々の兵が疲弊します」
「日向の後には、大友があります」
「北もあります」
「海もあります」
「四国もあります」
「ここで島津の兵を削りすぎるのは、もったいないです」
「味方が死なないに越したことはありません」
貴久が小さく息を吐いた。
「武家に、兵を惜しめと言う四歳児」
「兵は銭より高いです」
八郎は真面目に言った。
「銭は稼げます」
「米も作れます」
「湯浴みも建て直せます」
「でも、死んだ兵は戻りません」
その言葉に、忠良は黙った。
八郎は続ける。
「少なくとも、日向を全部取ったら、すぐに大友ではありません」
「帳面を見ます」
「庄屋衆の借金を減らします」
「農民に米を売る道を作ります」
「侍には仕事を出します」
「その上で、大友が南へ攻めてきたなら、援軍をお願いするかもしれません」
忠良が笑う。
「その時は、島津を頼るか」
「もちろんです」
八郎はあっさり答えた。
「ただ、その前に民の心をこちらに残しておきます」
「大友が来ても、民がこちらに米を売る」
「こちらの市へ逃げる」
「こちらの湯に入りたいと思う」
「そうしておけば、持久戦にできます」
「向こうが兵を出しても、飯が続かない」
「こちらは市で回す」
「そうやって削ります」
忠良は貴久と顔を見合わせた。
貴久は、もう呆れるしかないという顔をしていた。
「本当に四歳とは思えませんな」
八郎は胸を張る。
「私は四歳児です」
三郎が遠くから叫んだ。
「都合のいい時だけ四歳になるな!」
忠良は笑った。
だが、その笑いの中には、わずかな畏れが混じっていた。
八郎は刀を振るう子ではない。
だが、この子は米を動かし、湯を沸かし、借金を消し、民の心を動かして国を取る。
伊東を攻める前に、すでに日向の収穫と民心を計算している。
忠良は湯気の向こうにいる四歳児を見て、静かに思った。
この子と組むのは恐ろしい。
だが、この子と敵になる方が、もっと恐ろしい。




