1534年6月2週目。島津本家では連日会議。市の導入について。八郎から使者が来て35,000石1束の導入を決める。八郎即行動。
島津本家では、連日、市の導入について話し合いが続いていた。
忠良は広間の上座で腕を組み、貴久はその横で帳面を広げている。
重臣たちも、もう最初のように「八郎の市など」とは言わなくなっていた。
昨日見た、市が入った土地。
今日見た、市が入っていない土地。
その差が、あまりにも大きかったからである。
「一つは入れねばならぬ」
忠良が低く言った。
「これはもう、隣が見ておる」
「民が知っておる」
「借金が減ることも、湯浴みに入れることも、米で買えることも、布団が買えることも」
「知られてしまった」
貴久が頷く。
「一束は、もはや避けられませぬ」
「問題は残り二束ですな」
重臣の一人が渋い顔で言う。
「一気に三束は、八郎に飲まれたように見えます」
別の者が返す。
「しかし一束だけでは、隣がまた騒ぎますぞ」
「なぜあちらだけだ、と」
「そこじゃ」
忠良は苦い顔で笑った。
「遅いか早いかの違いになっておる」
「分かっておる」
「賢いのは、一気に入れることじゃ」
「だが、島津本家の面子もある」
その時、外から家臣が駆け込んできた。
「申し上げます」
「八郎家より使者が参っております」
広間の空気が止まった。
忠良は貴久を見た。
貴久も小さく頷いた。
「ついに来たか」
すぐに使者が通された。
使者は深く頭を下げると、用件を述べた。
「八郎様より、島津本家様へ」
「伊東方面への備え、また民の借金整理、兵站の整備を考え、残る三万五千石の束のうち、
まず一つへ市を導入されませんか、とのことでございます」
忠良はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「一つは入れる」
使者は顔を上げた。
「ありがたきことにございます」
「残り二つは、まだ検討中じゃ」
忠良は続ける。
「まず一束」
「すでに決めておる」
「動いてよい」
広間にいる重臣たちも、反対はしなかった。
もうそこは、決定事項だった。
貴久が使者へ向き直る。
「ただし、残り二束は、その一束を見て決めます」
「どれだけ早く立ち上がるか」
「民がどう変わるか」
「借金がどれだけ減るか」
「湯浴み、寺社市、鳥獣対策がどう動くか」
「それを見てからです」
使者は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
忠良はさらに言った。
「鳥獣対策についても、似たような形で願いたい」
「侍に仕事を出し、借金を減らす」
「農民は田畑を守れる」
「それが本当に回るなら、残り二束を考える材料にもなる」
貴久が付け加える。
「できるだけ急ぎで動いてほしい」
「民はすでに隣を見ております」
「早く動けば、それだけ喜ぶ」
「そう八郎様へ伝えてください」
使者はもう一度頭を下げた。
「すぐに戻り、伝えます」
その日のうちに、使者は馬を走らせた。
そして八郎の元へ戻ると、息を整える間も惜しんで報告した。
「島津本家様より」
「三万五千石一束、市導入許可」
「鳥獣対策も同時に打診」
「残り二束は、立ち上がりを見て判断とのことです」
八郎は一瞬だけ目を細め、それからぱん、と手を打った。
「はい」
「一気に行きます」
三郎が横で顔をしかめる。
「早いな」
「今からですか」
「今からです」
八郎は即答した。
「動かせる釜は全部動かします」
「飯屋衆、帳面役、荷運び、薪、米、味噌、塩、椀、鍋」
「湯浴みの桶と釜も回せるだけ回します」
「寺社市の木札も出してください」
「鳥獣対策の侍名簿も作ります」
五郎が苦笑した。
「取りに行くみたいやな」
「取りに行くのです」
八郎は真顔で言った。
「土地ではありません」
「暮らしです」
「細い言い方するな」
「こういうのは速さが命です」
八郎は帳面役に指示を飛ばし続ける。
「隣の市から分かる者を呼んでください」
「釜の扱い、米払いの帳面、湯浴みの順番、寺社市の木札」
「全部、見て覚えた者をつけます」
「最初から完璧でなくていい」
「回しながら直します」
母が呆れた顔で言った。
「また見切り発車やね」
「見切りではありません」
「火がついているうちに釜をかけるのです」
「うまいこと言うな」
その動きは、驚くほど早かった。
翌日には荷車が出た。
米、味噌、塩、干物、薪、鍋、椀、木札、帳面。
さらに隣の市で慣れた者たちが呼ばれ、島津本家の新しい土地へ入った。
二日後には、最初の飯場が立った。
三日目には寺社市が始まった。
四日目には、湯浴みの仮設釜に湯が沸いた。
島津の農民たちは、最初は戸惑っていた。
「ほんまに始まるんか」
「こんな早くか」
「隣と同じように、米で買えるんか」
八郎商会の者が答える。
「米でも買います」
「帳面に載せます」
「借金も見ます」
「湯は五文から」
「布団はすぐ全部は無理ですが、順番に」
その言葉に、人々は一気にざわめいた。
「布団も来るんか」
「湯もあるんか」
「借金も見るんか」
年配の農民が、思わず手を合わせた。
「ありがたい」
「冬場は、ほんま助かります」
別の男が笑う。
「今でも、畑のない者からしたら仕事があるだけで助かります」
「荷運びでも、薪割りでも、湯番でも、何でもやります」
八郎はその場に立ち、小さな体で頷いた。
「仕事は、ちゃんとこちらに振るように頑張ります」
「市を立てる」
「湯を沸かす」
「荷を動かす」
「帳面を書く」
「鳥獣を追う」
「そうやって仕事を振ります」
農民たちは笑いながらも、何度も頭を下げた。
島津本家の家臣たちは、その様子を黙って見ていた。
あまりにも早い。
昨日まで元気のなかった土地に、もう飯の匂いがしている。
まだ借金が消えたわけではない。
湯浴みも仮の釜だ。
布団も全部には届かない。
それでも、人の顔が変わり始めている。
貴久の使いの侍が、ぽつりと呟いた。
「これを見せられたら、残り二束も騒ぎますな」
八郎は聞こえていたのか、にこりと笑った。
「だから早く動きます」
「遅いと不満になります」
「早いと期待になります」
「同じ不足でも、見え方が違います」
三郎が呆れたように言った。
「恐ろしい四歳児やな」
八郎は胸を張る。
「私は四歳児なので、釜を早くかけるだけです」
「釜で国を煮るな」
新しい市では、まだ湯気が薄く立ち上ったばかりだった。
けれど、その湯気は確かに、島津本家の残る二束へも流れ始めていた。




