1534年6月2週目。帳面のツケを大量に返す。島津本家と伊東・日向を見据えて。料理・菓子の導入確定。
六月二週目。
帳面合わせの日である。
大広間には、いつものように兄たち、母、帳面役、庄屋衆、職人衆、侍の代表が集まっていた。
八郎は帳面を前にして、いつもより少し眠そうな顔をしている。
「では、帳面は見ておいてください」
三郎が即座に眉をひそめた。
「雑やな」
「大きくは変わっていませんので」
「お前の大きく変わってないは信用ならん」
五郎も笑った。
「先週もそれで五百万文払ったやろ」
八郎は小さく咳払いをした。
「では、言います」
帳面役が札を二枚置く。
「湯浴み関連」
「通常湯浴み、一束百五十万文」
「高級湯浴み、一束百二十万文」
「それぞれ二束分、減らします」
大広間が一瞬静かになり、それからどよめいた。
「また減らすんですか」
「めちゃくちゃ減らすやんけ」
「先週も払いましたやろ」
職人衆は喜び半分、驚き半分で顔を見合わせている。
八郎は頷いた。
「減らします」
「これは、先々の島津と伊東を見ています」
三郎が腕を組んだ。
「もうそこまで見てるんか」
「はい」
八郎は当たり前のように答えた。
「島津本家に市が入る可能性があります」
「そして伊東を攻める可能性があります」
「そうなると、湯浴みと市は大量に増えます」
「その前に、今こちらが抱えている付けを消しておかないと、あとで鬼のように
借金を抱えることになります」
母がため息をつく。
「鬼のように、ってあんたが増やすんやろ」
「増やす前に消しているので、偉いと思います」
「自分で言うな」
八郎は気にせず続けた。
「貴久様と忠良様が決断してくださるなら」
「多分、島津本家は一気に市を入れた方がいいと分かるはずです」
五郎が目を細める。
「分かるけど、面子があるやろ」
「はい」
「だから、早いか遅いかの話になります」
「島津本家が自分から入れる形を取るのか」
「八郎家から言われて入れる形になるのか」
「伊東が落ちた後に、押されて入れる形になるのか」
「同じ市でも、見え方が違います」
帳面役が地図を広げた。
八郎は日向を指差す。
「伊東に関しても同じです」
「日向国は三十五万石ほどと見ます」
「三万五千石の束で考えれば、十束です」
「そこへ順繰り市を入れることを考えれば、湯浴み、寺社市、飯屋、帳面役、荷運び、用心棒、
全部必要になります」
「つまり、今のうちに付けを消しておくべきです」
三郎が呆れた顔で言った。
「どこまで見てんねん」
「今年の秋くらいまでです」
「十分怖いわ」
実久様が低く笑った。
「お前、日向を全部食う気か」
八郎は即答した。
「食べる気です」
大広間が静まり返った。
八郎は平然としている。
「もちろん、一口で食べるとは言っていません」
「周りの国人衆を削る」
「市を入れる」
「借金を見る」
「伊東と一度停戦するかもしれません」
「また削る」
「順繰りです」
三郎が頭を抱えた。
「四歳児が国を食う話をするな」
「私は四歳児なので、皆様に手伝っていただきます」
「都合のいい時だけ四歳になるな」
そこで母が話を変えるように言った。
「それで、飯の方はどうするんや」
八郎の顔が少し明るくなった。
「今週から、南蛮漬けとふくふく焼きを出しましょう」
三郎が頷く。
「南蛮漬けは、鯖と親鶏やな」
「はい」
「揚げて、酢、味噌、醤油、酒、砂糖、蜂蜜で漬ける」
「親鶏は叩いて、薄くして、揚げてから漬ける」
「混ぜ飯と一緒に出します」
母が言う。
「味はまだ追い込みきれてへんけどな」
「もう出しましょう」
八郎はきっぱり言った。
「これ以上やると、追求になりすぎます」
「今出して、駄目なら修正です」
「試食の食いつきを見ている限り、大丈夫だと思います」
三郎が腕を組んだ。
「まあ、鯖は反応良かったな」
「親鶏も、漬けたら硬さがましになった」
「酢があるから、夏向きや」
「はい」
八郎は頷く。
「そして、ふくふく焼きは絶対大丈夫です」
母が笑った。
「あれは子どもが目を輝かせてたからね」
「一店一日、利益二百文は固いです」
「もしかすると三百文いくかもしれません」
三郎が首を振る。
「いや、それは黒糖が足らん」
「量が作られへん」
「そうですね」
八郎はあっさり認めた。
「黒糖の安定供給が課題です」
「でも、数量限定でもいいです」
「甘味がある市は強い」
「甘味を買いに来た人が飯を買う」
「飯を食べた人が湯に入る」
「湯に入った人が布を見て、布団を欲しがる」
「全部つながっています」
五郎が苦笑した。
「ふくふく焼きから布団まで行くんか」
「行きます」
八郎は真顔だった。
「甘味は入り口です」
「甘い匂いで人を止めます」
「止まった人に飯を食べてもらいます」
「飯を食べた人は、少し長く市にいます」
「長くいると、他の店も見る」
「だから黒糖は、ただ甘いだけではありません」
「市の滞在時間を伸ばす道具です」
母が少し感心したように見た。
「ようそんなこと考えるな」
「食い意地です」
「違うやろ」
八郎は帳面を閉じた。
「ひとまず、南蛮漬けとふくふく焼きで一週間回しましょう」
「原価と利益は、来週の帳面に出ます」
「味は母上と三郎兄様がいるので安心しています」
三郎が少し照れたように鼻を鳴らした。
「丸投げやけどな」
「信頼です」
「言い方変えただけやろ」
その笑いが落ち着いたところで、五郎が尋ねた。
「島津からの返事はどうする」
八郎は少しだけ目を細めた。
「それは、もう少し聞きましょう」
「春姫様経由で伝えてもらいました」
「今、忠良様や貴久様が、市を見てくださっているはずです」
「こちらから正式に打診する前に、向こうから連絡が来るかもしれません」
「その方が、島津本家の面子が保てます」
一郎が静かに言った。
「そこまで考えて、春姫様に先に言うたんか」
「はい」
「こちらから押し込む形にはしたくありません」
「島津本家が、自分で見て、自分で選んだ形にしたい」
「でも、選びやすいように、見てもらう順番は整えました」
大広間がまた静かになった。
三郎がぽつりと言う。
「恐ろしい四歳児やな」
八郎は胸を張った。
「褒め言葉ですね」
「たぶん違う」
実久様が笑った。
「毒を飲ませる前に、毒が薬に見えるところまで見せておる」
「薬です」
八郎は言った。
「民の借金が減ります」
「湯に入れます」
「飯が増えます」
「布団が買えます」
「ただ、その薬を飲むと、八郎商会の帳面も一緒についてきます」
貴久が聞けば顔をしかめそうな言葉だった。
五郎が笑う。
「それを毒って言うんや」
「では、よく効く薬です」
母が呆れたように言った。
「ものは言いようやね」
八郎はもう一度、帳面を軽く叩いた。
「今週は、借金を減らす」
「湯浴みの付けを消す」
「南蛮漬けを出す」
「ふくふく焼きを出す」
「島津の返事を待つ」
「交易は黒糖を増やす」
「火矢はまだ見つかればでいいです」
三郎が最後に眉を寄せた。
「最後だけ物騒やねん」
「順繰りです」
「その順繰りの中に火矢を混ぜるな」
大広間に笑いが広がった。
だが、その笑いの裏で、八郎の帳面はすでに次の夏を見ていた。
島津本家が市を入れるか。
伊東がいつ動くか。
黒糖がどれだけ入るか。
そして、日向に十束分の市をどう広げるか。
六月二週目。
まだ戦は始まっていない。
けれど、帳面の上では、もう日向への道が引かれ始めていた。




