1534年6月1週目。市を導入した村々の隣の市未導入の村々を見学。農民たちに嘆願される。隣の村々がまぶしすぎる。市を入れてくださいと。導入と面子に揺れる島津本家。
翌日。
忠良は貴久たちを連れ、今度は八郎商会の市をまだ入れていない隣の土地へ向かった。
前日に見た市とは、空気がまるで違っていた。
人はいる。
店もある。
だが、声に張りがない。
荷車も少なく、米俵を持ってくる者の顔も暗い。
商家衆は店先に座っているが、客と話す声に勢いがない。
忠良は馬上からそれを見て、思わず眉を寄せた。
「……元気がないな」
貴久も静かに頷く。
「昨日の土地とは、まるで違います」
その時、数人の農民が恐る恐る近づいてきた。
侍がすぐ前に出る。
「控えよ。お殿様の御前であるぞ」
しかし農民の一人は、額を地面につけるようにして言った。
「お殿様、なんとかなりませんか」
侍が顔をしかめた。
「何を申す」
「借金で首が回りません」
農民は震えた声で続けた。
「税が少しでも安うなれば、ありがたいのですが」
「誰に口を聞いておる!」
侍が怒鳴る。
だが忠良は手を上げて止めた。
「言わせよ」
農民は怯えながらも、なお口を開いた。
「隣の、同じ島津の土地では、借金がめちゃくちゃ減っていると聞いております」
「利息も下げてくれると」
「米でも買ってくれると」
「湯浴みもあると」
「布団も買えると」
「なんで、うちだけこのままなのでしょうか」
侍たちの顔が険しくなる。
だが農民はもう止まらなかった。
「同じお殿様の領地なら、差をつけずにやっていただければ、こちらもなんとかなるのに」
忠良は返す言葉に詰まった。
農民は、さらに言った。
「お殿様が、借金を消してくださるのですか」
「それは……」
忠良は言葉を濁した。
農民は顔を上げる。
「では、なんとかならないでしょうか」
「隣が、眩しすぎます」
その一言に、忠良の胸が詰まった。
眩しすぎる。
同じ島津の領内で、民がそんな言葉を口にする。
ただ静かに忠良を見た。
別の農民も口を開いた。
「向こうの湯浴みに、行った者もおります」
「五文で入ったと」
侍が眉を吊り上げる。
「勝手に他の村へ行ったのか」
農民は慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません」
「でも、一度だけ見たかったのです」
「五文も、今の私らには安いとは思いません」
「借金の利息がありますので」
「けれど、入った者が言うには、すごく気持ちよかったと」
「湯に入って、体が軽くなったと」
「向こうの村では、皆が借金が減った、次は何を買う、布団を買う、米で払う、
そんな世間話をしていると」
「こちらから見ると、眩しすぎます」
忠良は黙った。
農民の言葉には、恨みだけではない。
羨望があった。
諦めがあった。
そして、同じ領民なのに自分たちだけ置いていかれているという悔しさがあった。
「なんなら、向こうの村に移りたいと思うくらいでございます」
侍が怒鳴った。
「勝手に動くことは許さんぞ!」
農民は顔を上げ、必死に言った。
「許されないなら、なんとかしてください!」
広場が静まり返った。
その声は、ただの不満ではなかった。
追い詰められた者の声だった。
忠良はようやく口を開いた。
「……考えておく」
農民たちは深く頭を下げた。
だが、忠良の胸は晴れなかった。
考えておく。
それしか言えなかった自分が、ひどく小さく思えた。
少し離れたところで、貴久が低い声で言った。
「殿」
「分かっておる」
忠良は苦い顔で答えた。
「隣に市を入れれば、そのまた隣が眩しいと言う」
「そのまた隣も言う」
「結局、一気に入れるか、少しずつ入れるかの違いだけじゃ」
貴久は頷いた。
「遅いか早いかの話になりますな」
忠良は昨日見た市を思い出した。
湯気。
飯の匂い。
布団を買えると笑う農民。
米で払えると喜ぶ女衆。
借金が減ったと帳面を見せる庄屋。
そして今日のこの土地。
暗い顔。
利息に追われる農民。
隣を羨む声。
忠良は小さく吐き捨てた。
「毒が怖すぎる」
貴久は静かに言った。
「しかし、もう入った土地から市を抜くことはできませぬ」
「抜けば、民が怒り狂います」
「布団まで買い始めております」
「湯浴みに入り、借金が減り、米を買ってもらえる暮らしを知った者に、元へ戻れとは申せません」
忠良は頷いた。
「そうじゃ」
「もう、やめるという選択肢はない」
「ならば、入れる方向で考えるしかない」
「問題は、それが早いか遅いか」
「伊東が落ちる前か」
「伊東がまだあるうちか」
「伊東を削った後か」
貴久が少し間を置いて言う。
「賢いのは、全部入れることです」
忠良は苦笑した。
「分かっておる」
「分かっておるから悩んでおる」
「賢いのは全部入れること」
「民も喜ぶ」
「借金も減る」
「兵站も整う」
「伊東攻めも楽になる」
「だが、面子がある」
貴久は静かに返した。
「面子で腹は膨れませぬ」
「分かっておる」
忠良は声を低くした。
「だが、面子で家は立つ」
「島津本家が、八郎に飲まれたと見られるわけにはいかぬ」
「それでも、民がこの顔をしておる」
「隣が眩しすぎるなどと言われて、何もせぬわけにもいかぬ」
重臣の一人が口を挟んだ。
「八郎家から、正式に打診が来るのでしょうか」
「来る」
忠良は即答した。
「春姫へ先に言うたということは、次はこちらへ来る」
「向こうはもう、こちらが考える時間まで読んでおる」
貴久が苦笑する。
「相変わらず、四歳児とは思えぬ手順ですな」
「四歳児が一番、こちらの面子を読んでおる」
忠良は空を見上げた。
伊東を攻める。
そのためには兵がいる。
兵站がいる。
飯がいる。
銭がいる。
民の顔がいる。
そして、そのすべてを八郎の市が握り始めている。
忠良はゆっくりと息を吐いた。
「戻るぞ」
「はい」
「貴久」
「何でございましょう」
「市を入れる場合の言い方を考えろ」
貴久が目を細める。
「入れる方向でございますか」
「まだ決めてはおらぬ」
忠良はそう言いながらも、声に迷いは少なくなっていた。
「だが、決めねばならぬ」
「八郎に言われて入れるのではない」
「島津が伊東を攻めるため、島津の民を守るため、島津が自ら選んで入れる」
「そういう形にせねばならぬ」
貴久は深く頭を下げた。
「承知しました」
忠良はもう一度、元気のない市を見た。
そして、昨日の賑わいを思い出した。
毒か薬か。
その答えは、もう出ていた。
問題はただ一つ。
島津本家が、それを飲む覚悟をいつ決めるかだけだった。




