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1534年6月1週目。数日後忠良のもとに春姫から文が届く。八郎の毒を飲むかどうか市を見て把握しようと決める

数日をかけて、春姫からの話は島津本家へ届いた。

忠良は文を読み終えると、しばらく黙っていた。

そばに控えていた貴久が、静かに口を開く。

「ついに来ましたな」

忠良は文を畳み、深く息を吐いた。

「来たな」

「八郎が、島津本家へ市を入れよと言ってくる」

「しかも、伊東攻めの前に」

広間には重臣たちも集まっていた。

誰もが難しい顔をしている。

一人の家臣が口を開いた。

「そもそも、伊東は島津が攻め、島津が土地を取ればよいのではありませぬか」

「八郎にそこまで入り込ませる必要がございましょうか」

その言葉に、忠良は目を細めた。

「それでは連合軍にならぬ」

家臣は黙る。

忠良は地図を指した。

「今の島津本家は十四万石」

「伊東は二十万石ほどある」

「こちら単体で攻めれば、勝てぬとは言わぬ」

「だが、兵は消耗する」

「田も荒れる」

「借金の束を抱え込む」

「しかも取った後に、市も帳面も湯浴みもなければ、民はついてこぬ」

貴久が頷いた。

「八郎家と島津分家が加われば、兵の規模は少なくとも二倍、場合によっては二倍半」

「大隅側と島津本家側、二方向から日向へ圧をかけられます」

「楽さがまるで違います」

別の家臣が唸る。

「大隅を取られたのが大きいですな」

「肝付が落ちたことで、伊東は南からも西からも見られておる」

忠良は地図の大隅と島津本家領を指でなぞった。

「しかも、伊東を攻める前に、周辺の国人衆が何組か落ちるだろう」

「八郎は、城を攻める前に民を揺らす」

「飯を炊き、酒を出し、借金を聞き、市を見せる」

「国人衆が、伊東に残るか八郎に降るか迷い始める」

貴久が苦い顔で言う。

「肝付でやったことを、日向でもやるわけですな」

「そうじゃ」

忠良は頷いた。

「それも、おそらく八月末からだ」

重臣の一人が顔を上げた。

「収穫期ですか」

「八郎のことじゃ」

忠良は吐き捨てるように言った。

「狙っておるだろう」

「収穫の時に、米を買い占める」

「兵糧を集める」

「こちらは飯を炊ける」

「向こうは米を囲えぬ」

「伊東が焦って早刈りするかもしれぬ」

貴久が首を振る。

「しかし、大隅に兵を置かれれば、早刈りも容易ではありますまい」

「国境で飯を炊かれ、帳面役を置かれ、しかも兵が見ている」

「民が伊東の命令だけで動くかどうか」

広間が重く沈んだ。

忠良は低く言う。

「つまり、島津が単独で土地を取るという話は、単純には難しい」

「取ったところで、消耗する」

「しかも、市を入れぬなら借金まみれの土地を抱えるだけじゃ」

「では、取った土地に八郎の市を入れるか」

「入れるしかなかろう」

「しかし入れれば、毒が回る」

重臣たちは顔を見合わせた。

貴久が静かに続ける。

「毒、ですな」

「おうよ」

「市を入れれば、農民の借金が減る」

「庄屋衆の利息も減る」

「侍には鳥獣対策や警護の仕事が回る」

「湯浴みが入り、飯屋が入り、布や味噌や酒が回る」

「民は喜びます」

「だからこそ恐ろしい」

忠良は苦笑した。

「うちの土地なのか、八郎の土地なのか、分からなくなる」

「名は島津でも、飯と帳面は八郎」

「銭の流れも八郎」

「民がありがたがるのも八郎」

「これでは、気づけば腹の中を全部見られておる」

一人の若い家臣が悔しそうに言った。

「ならば、入れぬ方が」

貴久が即座に首を振った。

「入れねば、もっと悪い」

「すでに一部導入した場所では、借金が五百万文を切っております」

「湯浴みも入った」

「庄屋衆も農民も、違いを知り始めている」

「入れていない土地の者が、それを見ればどう思うか」

忠良は文を見下ろした。

「遅いか早いかの話じゃ」

「八郎は、いずれ言ってくる」

「伊東を攻める前に入れるか」

「伊東を削った後に入れるか」

「伊東を落としてから、追い詰められて入れるか」

「同じ市でも、見え方が変わる」

貴久は春姫の文を思い出すように言った。

「春姫様の婚姻の時と似ておりますな」

「肝付が落ちる前に縁を結ぶか、落ちた後に格上へ差し出したように見えるか」

「今回も同じ」

「島津が自ら市を入れるのか」

「八郎に押されて入れるのか」

忠良は苦い顔で笑った。

「また、わしが選ばされるわけか」

「八郎という四歳児は、選択肢を置くのが上手い」

「どちらを選んでも、八郎の道に入る」

重臣たちの間に、重い沈黙が落ちた。

やが貴久が言った。

「まずは、見に行くべきでしょう」

忠良が顔を上げる。

「市を入れた土地と、入れていない土地を、です」

「借金が減った帳面」

「湯浴みの使われ方」

「庄屋衆の顔」

「農民の暮らし」

「侍の仕事」

「それを見ずに決めるのは危うい」

忠良は少し考え、頷いた。

「そうじゃな」

「見に行こう」

「八郎の市が入った土地と、入っていない土地」

「その差を、この目で見る」

家臣の一人が尋ねる。

「その上で、市を入れるかどうかを」

「決める」

忠良は言った。

「ただし、忘れるな」

「これは八郎に頭を下げる話ではない」

「島津本家が、伊東を攻め、南九州をまとめるために必要な道具を見るのじゃ」

貴久が小さく笑った。

「言い方は大事ですな」

「大事じゃ」

忠良は苦笑する。

「面子で人は動く」

「飯で民は動く」

「帳面で国が動く」

「八郎め、それを全部知っておる」

貴久が深く頭を下げた。

「では、視察の支度をいたします」

「春姫様にも返答を」

「うむ」

忠良は文をもう一度見た。

春姫の字は丁寧だった。

迷いながらも、島津本家を守ろうとしている字だった。

忠良は小さく呟く。

「嫁に出したと思ったら、今度は島津を救うための間者のようになっておる」

貴久が笑った。

「姫様は、八郎家の毒を飲まれましたな」

「毒を飲んで、強くなったならよい」

忠良は立ち上がった。

「ならば、わしらも見よう」

「毒か薬か」

「八郎の市というものを」

そうして島津本家は、ついに自らの目で、八郎の市を見に行くことを決めた。

伊東を攻める前に。

面子を失う前に。

そして、毒を飲むかどうかを、自分たちで選ぶために。

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