1534年6月1週目。島津本家の春姫が姫君を集めて八郎が単身訪ねてきて島津本家へ市の導入を迫ってきている話をする。
一方その頃、春姫は島津本家の姉姫、妹姫たちを集めていた。
座敷には茶が置かれている。
けれど、今日の春姫の表情はいつもの柔らかいものではなかった。
長女格の姫が、すぐにそれに気づいた。
「春姫、何かありましたね」
春姫は静かに頷いた。
「はい」
「実は先日、八郎様が一人でこちらへ来られました」
妹姫の一人が驚く。
「お一人で?」
「はい」
「二郎様もいらっしゃいましたが、三郎様や五郎様、ほかの兄弟方はおられませんでした」
「縁談の話ではない、家同士の大事な話だと」
その言葉で、姫君たちの空気が変わった。
春姫は一つ息を整えてから続けた。
「島津本家で、今一部導入している市の話です」
「八郎様は、残りの土地を三万五千石の束で三つと見ておられます」
「そのうち、まず一つ」
「市を入れられないかと」
部屋が静かになった。
長女格の姫が、眉を寄せる。
「ゆくゆくは全部、ということですか」
「おそらくは」
春姫は頷いた。
「ただ、今すぐ三つ全部ではありません」
「まず一束」
「ですが、八郎様の考えでは、最終的には伊東へつながる土地に、市と湯浴みと帳面を
入れたいのだと思います」
妹姫が少し不満げに言った。
「それは、少し勝手な話ではありませんか」
春姫は否定しなかった。
「勝手な話です」
「八郎様も、それは分かっておられました」
「だからこそ、ご自身で強く言うのではなく、私から先に話を通してほしいと」
「八郎家から正式に打診が来る前に、島津本家として考える時間を作ってほしいと」
長女格の姫が目を伏せる。
「理由は、伊東ですね」
「はい」
春姫は膝の上で手を重ねた。
「今後、八月末をめどに伊東を攻める話になる可能性が高いそうです」
「島津と伊東の停戦が切れれば、八郎家と島津本家、島津分家の連合で動く」
「その時までに、島津本家側の土地に、市が稼働している方がよい」
「兵站のためです」
「飯を炊き、荷を運び、湯を沸かし、借金帳面を見せる」
「八郎様の戦は、兵だけでは動きません」
姫君たちは、黙って聞いていた。
春姫はさらに続ける。
「今、一部導入している市では、農民や商家衆の借金が五百万文を切っていると聞いています」
「湯浴みも、規定の数を入れている」
「三百ほど、動いているそうです」
「効果が、もう出ています」
妹姫が小さく呟いた。
「それでは、断りにくいですね」
「はい」
春姫は苦笑した。
「断りにくい話になっています」
「ただ豊かになると言われているだけではありません」
「実際に借金が減っている」
「実際に湯浴みで農民が喜んでいる」
「実際に庄屋衆が回り始めている」
「だから、父上にはまず、その様子を見に行っていただくのがよいのではないかと思っています」
長女格の姫が頷いた。
「見ずに断れば、ただ八郎を拒んだことになる」
「見てからなら、話が違いますね」
「はい」
春姫は少し声を落とした。
「もうすぐ、八郎家の方から島津本家へ正式に打診が来るはずです」
「その時、島津がどう動くかで、見え方が変わります」
「八郎家から言われて飲むのか」
「島津の方から、市を入れてくれと頼むのか」
「同じ市を入れるにしても、面子が違います」
姫君たちは顔を見合わせた。
春姫は、少しだけ自分の胸に手を置いた。
「私の婚姻の時と似ています」
その言葉に、何人かの姫が息を呑んだ。
「肝付が落ちる前に、私と二郎様の婚姻を進めるか」
「落ちた後に、格上となった八郎家へ嫁いだように見えるか」
「あの時も、選択を迫られました」
「今も同じです」
「伊東が落ちる前に、島津本家が自ら市を入れるのか」
「伊東が落ちた後に、八郎家の勢いに押されて市を入れるのか」
「たぶん、後から見れば同じではありません」
妹姫がぽつりと言った。
「また、選択を迫られるというわけですね」
「はい」
春姫は静かに頷いた。
「そして今回の方が、もっと大きいかもしれません」
「おそらく、誰が見ても分かります」
「島津の連合軍と八郎軍が動けば、伊東はかなりの確率で落ちます」
「一度で落ちるのか」
「講和のような形で段階的に削られるのか」
「その違いはあるでしょう」
「けれど、八郎様が日向へ市と帳面を入れることになれば、いずれ伊東は飲み込まれる」
長女格の姫は、深く息を吐いた。
「難しい相談ですね」
「はい」
春姫は素直に答えた。
「難しいです」
「八郎様の話は、いつも飯や湯浴みから始まります」
「でも、最後には国の形が変わります」
「今回も、市を一束入れるだけの話に見えます」
「けれど、本当は伊東攻め、島津の面子、日向の行方までつながっています」
妹姫の一人が少し震えた声で言った。
「では、私たちはどうすればよいのでしょう」
春姫はすぐには答えなかった。
少し考え、それから言った。
「まず、父上に見ていただくこと」
「今、市が入っている土地を」
「借金が減った帳面を」
「湯浴みに入る農民の顔を」
「庄屋衆がどう変わったかを」
「その上で、島津本家としてどうするか決めてもらう」
長女格の姫が続ける。
「その話を、春姫一人が持っていくのではなく、私たちも共有しておく」
「はい」
春姫は頷いた。
「私一人が八郎家に寄っているように見えるのはよくありません」
「姫たちも知っている」
「二郎様も知っている」
「信頼できる家臣も知っている」
「その上で、父上へ話を通す」
「そうした方がよいと思っています」
しばらく、座敷は静かだった。
やがて、長女格の姫が茶碗を置いた。
「分かりました」
「これは縁談の話ではありません」
「けれど、私たち姫にも無関係ではありません」
「島津本家がどう生き残るかの話です」
春姫は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
妹姫が少し笑った。
「春姉様は、嫁いでから急に大きな話ばかり持ってきますね」
春姫は困ったように笑った。
「私もそう思います」
「ただ、八郎家にいると、飯と帳面と湯浴みの話をしているだけで、いつの間にか国の話になるのです」
長女格の姫が静かに笑った。
「では、こちらも慣れなければなりませんね」
「飯の話を聞きながら、国の話を考えることに」
その言葉に、座敷の空気が少しだけ和らいだ。
けれど、春姫の胸の中には、まだ重いものが残っていた。
伊東。
市。
島津の面子。
父の決断。
八郎家の速度。
そして、自分がその間に立つこと。
春姫は茶の湯気を見つめながら、静かに思った。
これは、女たちの茶会ではある。
けれど、ここで交わされる言葉もまた、戦の前の一手なのだと。




