1534年5月4週目。八郎が春姫に話をしに行く。島津の面子をつぶすことなく市の導入を促してほしい。
帳面合わせから数日後。
八郎は、いつものように兄たちを連れず、一人でとことこと二郎と春姫の館へ向かった。
門番が少し驚いた顔をする。
「八郎様、お一人でございますか」
「はい」
「今日は少し、春姫様にお話があります」
通された座敷には、二郎と春姫がいた。
春姫は八郎の顔を見て、すぐにいつもと違う空気を察した。
「八郎様」
「今日は、何か大事なお話ですか」
八郎は小さく頷いた。
「はい」
「先だって、八郎家の中で今後の九州をどうするか話しました」
二郎が姿勢を正す。
八郎は畳の上に地図を広げた。
「今、気になっているのは三つです」
「北九州の肥後国人衆」
「天草、有馬、松浦あたりの海と交易」
「そして日向国の伊東です」
春姫は黙って聞いている。
八郎は日向の方を指した。
「この中で、一番現実的に動くのは伊東です」
「ただ、伊東を攻略するにあたり、島津本家に市を入れてもらう話が出てきます」
「今は、島津本家と島津分家の境のあたり、一部だけ市を任せてもらっています」
「そこから、伊東へつながるまでの土地」
「三万五千石の束で、三つ」
「ここへ八郎商会の市を入れたい」
春姫は目を伏せ、少し考えた。
「それを、私からお父様へ」
「はい」
八郎はまっすぐ答えた。
「私が主導でやると、島津本家に無理やり市を入れさせる形になります」
「それは都合が悪い」
「島津本家の面子があります」
「だから、春姫様の方から」
「八郎家からこういう話がある」
「二週間後を目処に、改めて打診が来る」
「その前に一度、考えてほしい」
「そう伝えていただきたいのです」
二郎が静かに言った。
「兄弟の前では言いにくい話やな」
「はい」
八郎は頷いた。
「今日は縁談の話ではありません」
「姫君たちとのお茶会とも、三郎兄様や五郎兄様の話とも毛色が違います」
「だから一人で来ました」
春姫は少し緊張した声で言った。
「一度、相談しないと分かりません」
「もちろんです」
八郎はすぐに返した。
「相談は、絶対にしてもらった方がいいです」
「これは強制ではありません」
「でも、兵站を無視して、我々が伊東へ向かうことはおそらくありません」
「島津と伊東の停戦期間が終われば、伊東を攻める話になります」
「それは、伊東を全部飲み込む話かもしれません」
「あるいは二段階に分けるかもしれません」
八郎は地図に指を滑らせる。
「まず、日向の国人衆を削る」
「一度、伊東と停戦する」
「削った土地に市を入れる」
「借金を返す」
「人をこちらに慣らす」
「その後、また動く」
「早いか遅いかの違いです」
春姫の表情が硬くなった。
八郎は続けた。
「ただし、その手を取ってしまった後で、島津本家が市を入れるとなると、市の意味合いが変わります」
「伊東が落ちる前に、自分から市を入れるのか」
「伊東が削られた後に、押されて市を入れるのか」
「同じことをしても、見え方が違います」
「島津本家は面子を大事にされる家です」
「だから、こちらから無理やり言う形ではなく」
「島津の方から考えていただく形にしたい」
「そのために来ました」
春姫はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「八郎様」
「いつもと空気が違いますね」
八郎は即座に頷いた。
「違います」
「私も認識しています」
二郎が少し驚いた顔をする。
八郎は真面目なまま続けた。
「普段、へらへらやっているのは、皆さんの縁を組みたいという私の親心です」
「四歳児の親心です」
二郎がすぐ突っ込んだ。
「四歳児が親心言うな」
「ですが、今日はそういう話ではありません」
八郎は二郎の突っ込みを受け流した。
「これは、兄様方の前で言うのはあまりよろしくない」
「縁談に混じると、話が濁ります」
「だから、春姫様にだけ先に伝えに来ました」
春姫は少し柔らかく笑った。
「八郎様は、お優しいですね」
八郎は胸を張った。
「優しいでしょう」
「自分で言うな」
二郎がまた言った。
その小さなやり取りで、少しだけ空気が緩んだ。
しかし、八郎の声はすぐにまた低くなった。
「この流れになることは、おそらく間違いありません」
「実際に、今、島津本家で任せてもらっている市は、庄屋衆と農民の借金がもう
五百万文を切っています」
「湯浴みも、規定の数を入れています」
「三百ほど、形を整えています」
春姫が目を見開いた。
「そこまで」
「はい」
「だから、一度、農民たちや市を見てもらうことも提案してください」
「飲めない、すぐには決められないというのであれば」
「まず見てください、と」
「市が入った村と、入っていない村」
「湯浴みがあるところと、ないところ」
「借金が減っている帳面」
「それを見れば、多分、違いが分かります」
二郎が静かに頷いた。
「夏場の湯浴みは大きいな」
「はい」
八郎は二郎を見る。
「特に農民は、これから汗をかきます」
「田畑に出て、泥にまみれて、草を取り、鳥獣を追う」
「その後に湯へ入れるかどうか」
「これはかなり違います」
「湯浴みは贅沢ではありません」
「体を休め、病を防ぎ、人を集める場所です」
「市の土台になります」
春姫は静かに聞いていた。
八郎はさらに言った。
「今、市を入れてもらえれば、八郎家は新たに大きく進攻している場所がありません」
「大隅も動き始めました」
「だから今なら、八月の暑い時期までに、湯浴みを大量に島津本家領へ入れられます」
「輸送費はこちらで持ちます」
「桶も、鍋も、薪の手配も、できる限りこちらで見ます」
「もちろん、全部を一度にとは言いません」
「三万五千石の束、三つ」
「全部が無理なら、一つでもいい」
「まず、一つ入れてください」
春姫の手が、膝の上で少し握られた。
「それを、お父様へ」
「はい」
「ただ、春姫様一人で背負わなくていいです」
「姉姫様、妹姫様、信頼できる家臣、二郎兄様」
「間を入れてください」
「これは、春姫様が勝手に動いた話にしてはいけません」
「島津本家が、自分で考えた形にしなければなりません」
二郎は八郎を見た。
「八郎」
「本当に、今日は空気が違うな」
「大事な話ですから」
八郎はそう答え、少しだけ笑った。
「普段の私は、団子と縁談とふくふく焼きの四歳児です」
「今日は、市と面子と伊東の四歳児です」
二郎が眉を寄せた。
「どっちも四歳児ではない」
春姫は思わず笑った。
けれど、その笑いはすぐに真剣な表情へ戻った。
「分かりました」
「私から、お父様へ伝える道を考えます」
「ただ、どう伝えるかは慎重にいたします」
「島津本家が押されたように見えず、しかし急がなければならないことは伝わるように」
八郎は深く頭を下げた。
「お願いします」
「これは、島津本家のためでもあります」
「そして、伊東を攻める時に、人を無駄に死なせないためでもあります」
「兵站が整っていれば、飯が炊けます」
「飯が炊ければ、降る者が増えます」
「降る者が増えれば、戦が短くなります」
「そのための市です」
春姫はその言葉をゆっくり飲み込んだ。
市。
湯浴み。
借金。
面子。
伊東。
すべてが一本につながっている。
八郎家の話は、いつもそうだった。
小さな甘味や湯浴みの話から、気づけば国の形が動いている。
春姫は静かに頷いた。
「一度、考えてみます」
「そして、必ず相談します」
八郎はようやく、いつものように少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「では、難しい話はここまでです」
二郎が首を傾げる。
「何か他にもあるんですか」
「はい」
八郎は小さな包みを取り出した。
「母上が、春姫様に甘い団子を持たせてくれました」
春姫は目を丸くし、それからふっと笑った。
「やはり、八郎様ですね」
「はい」
八郎は胸を張った。
「私は四歳児ですから」
二郎が即座に言った。
「都合のいい時だけ四歳になるな」
その声に、春姫も八郎も笑った。
けれど、畳の上に広げられた地図は、もう次の夏を指していた。




