1534年5月4週目。帳面合わせ。旧阿蘇領からの寄付。高級湯あみ360万文のツケと武士の借金290万文消す。酢を使った料理を検討中。
五月四週目。
その日もまた、広場には人が集められていた。
庄屋、商人衆、侍、職人、飯屋の者たち。
皆、どこか期待と不安の混じった顔をしている。
八郎が広場の前に立つと、帳面役が一礼して札を置いた。
「まず、旧阿蘇領地より、寄付として百八十万文をいただいております」
八郎は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「皆様のおかげで、次の市、次の湯浴み、次の借金消しが進められます」
旧阿蘇領の庄屋衆が、慌てて手を振った。
「いやいやいや」
「借金を全部返していただいて、利息がなくなるだけで全然違うんです」
「こちらこそ、ありがとうございます」
庄屋たちも頷く。
「利息がないだけで、今年の米が違います」
「子どもに飯を食わせられます」
八郎はもう一度頭を下げた。
「それでも、ありがとうございます」
「寄付は寄付です」
「いただいたものは、きちんと帳面に載せて、次へ回します」
広場に、ほっとした笑いが広がった。
続いて、帳面役が次の札を出す。
「高級湯浴み場の付け」
「一箇所百二十万文」
「三箇所分、合計三百六十万文」
八郎が頷く。
「消します」
職人衆がざわめいた。
「三箇所分」
「全部ですか」
「はい」
八郎は言った。
「高級湯浴みは贅沢だけではありません」
「人が集まります」
「商家衆が客を連れてきます」
「侍が体を休めます」
「女衆も息をつけます」
「湯があるところに、市が育ちます」
桶職人、大工、薪を扱う者、湯屋番の者たちが一斉に頭を下げた。
「ありがたいことでございます」
「次も、きちんと作ります」
八郎はにこりと笑った。
「お願いします」
「湯がぬるいと、人の機嫌が悪くなります」
三郎が横でぼそっと言った。
「そこも帳面に出るんか」
「出ます」
「怖いわ」
次に、帳面役が三枚目の札を置いた。
「肥後南部」
「侍借金、二百九十万文」
八郎は広場を見渡した。
「ここを消します」
今度は侍たちの間に大きなどよめきが起きた。
「二百九十万文」
「我らの借金が」
「消えるのか」
八郎は頷いた。
「はい」
「ただし、借金が消えたから終わりではありません」
「仕事はあります」
「交易の用心棒」
「荷運びの警護」
「市の見回り」
「鳥獣対策」
「炊き出しの護衛」
「暇になったから何もしない、ではまた借金になります」
「そこを何とかしましょう」
年配の侍が、震える声で頭を下げた。
「そこまで面倒を見てくださるとは」
「ありがたいことでございます」
「戦の時は、また戦でお願いします」
八郎はさらりと言った。
「ただ、普段は田畑と荷と市を守ってください」
「それも戦です」
五郎が苦笑した。
「また戦って言うた」
「豊かさを守る戦です」
その場は大いに盛り上がった。
借金が消える者。
仕事が生まれる者。
湯浴みの付けが払われる職人。
寄付を受け取られ、また領内に回される商家衆。
広場の空気が、ひと段落したところで、八郎がふと思い出したように手を打った。
「あ、そうそう」
「三郎兄様と母上に言おうと思っていたことがあります」
母が少し嫌な予感のする顔をした。
「何やの」
「酢漬けです」
三郎が首をかしげる。
「酢漬け?」
「天ぷら、やってるでしょう」
「鯖とか、親鶏とか」
「それを揚げた後に、お酢と味噌、醤油だれ、酒、砂糖、蜂蜜をうまい具合に混ぜたものに漬けたら、
どうかなと思いまして」
三郎は目を細めた。
「また変なこと考えたな」
「変ではありません」
八郎は真剣だった。
「夏場は酢がいいと思うんです」
「夏バテ防止にもなりそうですし」
「天ぷらの脂っこさを、酢で少し中和できます」
「そこに甘辛さを足せば、飯に合うはずです」
母が腕を組む。
「鯖は、いけそうやね」
「はい」
「鯖を揚げて、甘酢味噌醤油みたいなのに漬ける」
「混ぜ飯と一緒に出す」
「多分、売れます」
三郎も少し真面目な顔になった。
「親鶏も使えるかもな」
「硬いから、叩きまくって薄くして、揚げて、漬ける」
「酢でちょっとふやけさせて、冷まして、切って出す」
「混ぜ飯と一緒なら、ありかもしれん」
八郎は大きく頷いた。
「そうです」
「利益なんて別にどっちでもいいです」
三郎が即座に突っ込む。
「どっちでもいいって言うな」
母も笑う。
「原価は大事やで」
「はい」
八郎は素直に頷いた。
「利益も原価も大事です」
「原価を抑えて売れれば、その分だけ借金が減る速度が上がります」
「でも、俺の予想では、利益ゼロにはならないと思います」
「数量限定でも、一日二百文くらいは利益が取れるのではないかと」
五郎が横から口を挟んだ。
「でも、八郎が考えてるのは、それだけやないやろ」
「よその店の料理と被らへんことを考えてるんやろ」
八郎はにこりと笑った。
「考えています」
「さらに美味しければ、なおよしです」
三郎がため息をついた。
「性格悪いな」
「商売です」
「酢は酸っぱいです」
「でも、蜂蜜、醤油、味噌、砂糖、酒」
「この辺をうまく混ぜて漬ければ、ただ酸っぱいだけではなくなります」
「そこは三郎兄様と母上次第です」
母が目を細める。
「めちゃくちゃ丸投げするやん」
三郎も頷く。
「考えるだけで結構重そうやぞ」
八郎は悪びれない。
「一週間、うちの食卓で出してみてください」
三郎が声を上げた。
「なんで家にまで仕事持ってくんねん」
「炊き出しの時でええやろ」
八郎はぽんと手を打った。
「あ、そうですね」
「それもそうです」
「炊き出しの時にいろいろ試してみて、来てくれた方に味を聞いてください」
「鯖」
「親鶏」
「味噌強め」
「醤油強め」
「蜂蜜多め」
「酢強め」
「いくつか作って、人気を見ましょう」
母と三郎は顔を見合わせた。
しばらくして、母が苦笑した。
「まあ、やってみようか」
三郎も頷く。
「鯖は試す価値あるわ」
「親鶏も、うまく柔らかくできたら飯に合う」
八郎は満足そうに頷いた。
「ありがとうございます」
五郎が笑う。
「また新しい店が増えそうやな」
「まだ試作です」
「嘘つけ」
三郎が即座に言った。
広場には、借金が消えた喜びと、湯浴みの銭が払われた安堵と、なぜか新しい飯の匂いまで
漂い始めていた。
八郎は小さな体で帳面を抱え、にこりと笑う。
「借金も消します」
「仕事も作ります」
「飯も増やします」
「一個一個、順繰りです」
母が笑って言った。
「その一個一個が重いんよ」
八郎は胸を張った。
「私は四歳児ですから」
三郎と五郎の声が重なった。
「都合のいい時だけ四歳になるな」
広場に笑いが広がり、その笑いの中で、また一つ、八郎商会の新しい味が生まれようとしていた。




