第20話 迷ったら、入れない
第20話 迷ったら、入れない
翌朝。
神崎蓮司の事務所には、一枚の紙が貼られていた。
『政治AIを使う前の最低限チェック』
三島が、朝一番でホワイトボードの横に貼ったものだった。
一、支援者名簿を入力しない。
二、献金者情報を入力しない。
三、陳情メールは個人情報を削る。
四、選挙戦略を外部AIに相談しない。
五、未公開政策案は入力しない。
六、サーバー所在地を確認する。
七、入力データが学習に使われるか確認する。
八、ログを誰が見られるか確認する。
九、削除できるか確認する。
十、AI生成文をそのまま送らない。
十一、事務所内で誰がAIを使っているか把握する。
十二、迷ったら入れない。
神崎は最後の一行を見て、少しだけ満足した。
「やっぱり、十二番が一番いいな」
三島が言った。
「先生らしいです」
「褒めてるのか?」
「はい。雑だけど強いです」
「その評価、昨日から流行ってるな」
セイムが表示した。
『“迷ったら入れない”は、非専門家向けの安全原則として有効です。
ただし、詳細ガイドラインでは例外条件の整理が必要です』
「細かいことは後でいい」
『後で必要になります』
「分かってる」
ヤミちゃんが表示した。
『標語化リスク。
“迷ったら入れない”が過度に拡散すると、AI利用全般への萎縮につながる可能性があります』
神崎は画面を見た。
「お前、今日は慎重だな」
『拡散しやすい言葉は、意図より広がります』
三島が頷いた。
「確かに。“入れるな”だけが広がると、またAI禁止論に見えますね」
神崎はホワイトボードに追記した。
『公開情報は使ってよい。個人情報・政治データは慎重に』
「これでどうだ」
セイムが表示した。
『バランス改善。』
ヤミちゃんも表示した。
『流言リスク低下。』
「よし」
そこへ、雨宮紗季から連絡が入った。
『チェックリスト、こちらでも秘書向けに共有したいです。少し表現を整えてよいですか』
神崎は返信した。
『もちろん。十二番は残してください』
すぐ返事が来た。
『残します。雑だけど強いので』
神崎はスマートフォンを伏せた。
「雨宮議員まで完全にその評価で固定してきた」
三島は笑わなかったが、少しだけ口元が動いた。
午前九時。
事務所内AI利用確認会議。
参加者は、神崎、三島、事務所スタッフ三名、セイム。
ヤミちゃんは裏方。
神崎はスタッフを見渡した。
「今日は、うちの事務所でAIを何に使っているか確認します。怒るためではありません。把握するためです」
スタッフたちは、少し緊張していた。
神崎は続けた。
「正直に言うと、私自身もセイムに頼りすぎて失敗しました。だから、誰かを責める資格はありません。ただ、危ない使い方を放置するわけにもいきません」
三島がチェックリストを配った。
「まず、使っているAIサービス名。用途。入力している情報。個人情報の有無。ログや学習利用の確認状況。分かる範囲で書いてください」
若いスタッフが、おそるおそる手を挙げた。
「先生」
「はい」
「会報の下書きを作るのに、無料のAIを使ったことがあります」
「入力した内容は?」
「先生の過去の公開発言と、公開済みの政策資料です」
神崎は頷いた。
「それならリスクは低い。ただ、無料AIの規約と学習利用は確認しましょう」
別のスタッフが言った。
「支援者へのお礼文の文案を作ったことがあります」
「支援者の名前や住所は入れた?」
「名前は入れていません。ただ、“長年支援してくれている高齢の女性向けに”という感じで」
神崎は少し考えた。
セイムが表示した。
『リスク:中低。
個人特定情報なし。ただし属性情報と文脈が具体化すると再識別リスクが上がります』
神崎は言った。
「今後は、個人が分かるような具体的事情は避けてください。“一般的なお礼文”として作らせて、最後に人間が直す」
スタッフが頷いた。
三人目のスタッフが、少し言いにくそうにした。
「陳情メールの要約に使ったことがあります」
会議室が静かになった。
神崎は、声を荒げなかった。
「そのまま入れましたか?」
「一度だけ、個人名を消さずに入れてしまいました。すぐ気づいて削除しましたが……」
三島が顔を上げた。
神崎はゆっくり聞いた。
「どのAIサービス?」
スタッフが答える。
神崎は三島を見た。
「利用規約と削除手続きを確認。入力履歴が残っているかも確認してください」
「はい」
スタッフは青い顔をしていた。
神崎は言った。
「責めているわけではありません。私も確認不足で法案事故を起こしました。だからこそ、今ここで見つかってよかった」
スタッフは小さく頭を下げた。
「すみません」
「謝るより、次から防ぎましょう」
セイムが表示した。
『事務所内ルール案。
一、陳情・相談メールは原文入力禁止。
二、AI利用前に個人情報を削除。
三、要約用テンプレートを用意。
四、入力前チェック担当を置く。
五、無料AIへの個人情報入力禁止。』
三島がすぐにメモした。
「今日中に事務所内ルールを作ります」
神崎は頷いた。
「お願いします」
会議の最後に、神崎はスタッフに言った。
「これからは、“AIを使ったかどうか”を隠さないでください。怒られそうだから隠す、というのが一番危ない」
スタッフたちは頷いた。
「そして、迷ったら入れない」
ホワイトボードの十二番を指差す。
「迷ったら、三島に聞く。三島が迷ったら私に聞く。私が迷ったら……」
三島が言った。
「セイムに聞く?」
神崎は首を振った。
「まず自分で考える。その上で、必要ならセイムに聞く」
セイムが表示した。
『適切です』
スタッフの緊張が少し解けた。
会議が終わると、三島が言った。
「先生、よかったです」
「何が?」
「怒らなかったところです」
神崎は苦笑した。
「怒れる立場じゃないからな」
「でも、怒る人は怒ります」
「怒ると隠れる」
「はい」
神崎はホワイトボードを見た。
支援者名簿。
献金者情報。
陳情メール。
選挙戦略。
未公開政策案。
全部、政治の現場では日常的に扱っている。
AIが来る前から危ない情報だった。
AIが来たことで、危なさが見えやすくなっただけなのかもしれない。
午前十一時。
雨宮から、修正版チェックリストが届いた。
『政治AIを使う前の最低限チェック 議員事務所・秘書向け』
一、公開情報か、非公開情報かを確認する。
二、個人情報を含む場合は原則入力しない。
三、支援者名簿・献金者情報は入力しない。
四、陳情メール・相談記録は、個人が分からない形にする。
五、選挙戦略・未公開政策案は外部AIに入力しない。
六、入力データが学習に使われるか確認する。
七、ログを誰が見られるか確認する。
八、削除できるか確認する。
九、AI生成文をそのまま送らない。
十、事務所内でAI利用状況を共有する。
十一、無料AIと業務用AIを混同しない。
十二、迷ったら入れない。
神崎は読んで、頷いた。
「整ってる」
三島が覗き込んだ。
「雨宮議員らしいですね」
「うちのより真面目だ」
「でも十二番は残ってます」
「そこが大事」
神崎は返信した。
『この形で賛成です。共同で出しましょう』
雨宮から返事。
『本日午後、公開しましょう。地方議員向け版も作りたいです』
神崎。
『やりましょう』
雨宮。
『あと、選挙事務所向け版も必要です』
神崎は額に手を当てた。
「増えるなあ」
三島が言った。
「でも必要です」
「分かってる」
セイムが表示した。
『派生版が必要です。
一、議員事務所・秘書向け。
二、地方議員向け。
三、選挙事務所向け。
四、政党支部向け。
五、後援会事務局向け。』
神崎は天井を見た。
「五種類」
『最低限です』
「最低限って言葉は怖いな」
ヤミちゃんが表示した。
『流言リスク。
チェックリストが増えすぎると、“結局どれを見ればいいのか分からない”という反応が出ます』
神崎は頷いた。
「それも正しい」
三島が言った。
「共通版一枚と、詳細版を分けましょう」
「採用」
午後一時。
神崎と雨宮は、共同でチェックリストを公開した。
表題。
『政治AIを使う前の最低限チェック』
副題。
『議員事務所・秘書向け暫定版』
冒頭には、こう書いた。
『AIは政治活動を効率化します。しかし、支援者情報、陳情内容、選挙戦略などを安易に入力すると、国民の政治参加に関する情報が外部に流れるおそれがあります。AIを使う前に、最低限、以下を確認してください。』
最後の一行。
『迷ったら入れない。迷ったら、事務所内で確認する。』
公開直後、反応は大きかった。
『これは現場向けで助かる』
『地方議員版も欲しい』
『選挙事務所版も必要』
『もう支援者名簿入れちゃった場合は?』
『無料AIと有料AIの違いが分からない』
『迷ったら入れない、覚えやすい』
『AI利用を禁止しないのが現実的』
一方で、批判も来た。
『こんなの守ってたら現場が回らない』
『AI活用を萎縮させる』
『支援者情報を分析できないと選挙で不利』
『結局、大きな政党だけが安全なAIを持てる』
『神崎は自分が失敗したからルール厨になった』
神崎は最後を見て笑った。
「ルール厨」
三島が言った。
「若干、当たってますね」
「当たってるのか」
「最近、ルールばかり作ってます」
「作らざるを得ないんだよ」
セイムが表示した。
『ルール作成は、事故後の再発防止として妥当です』
ヤミちゃんが表示した。
『“ルール厨”は、蔑称としての拡散可能性があります。ただし、一部支持者が自虐的に使用すれば中和可能です』
神崎は首を傾げた。
「どういうことだ」
三島がスマートフォンを見せた。
すでに誰かが投稿していた。
『神崎先生、AI政治のルール厨で草。でも必要。』
神崎は少し笑った。
「まあ、これならいいか」
雨宮からメッセージが来た。
『ルール厨と言われていますね』
神崎は返信した。
『見ました』
雨宮。
『否定しすぎない方がいいと思います』
神崎。
『雨宮議員も、追及厨と言われてますよ』
少し間があった。
雨宮。
『知っています』
神崎は笑ってしまった。
午後三時。
PoliBrain Proから、共同質問状への正式回答の一部が届いた。
黒瀬は、やはり早い。
そして、やはりうまい。
『高リスクデータ警告について』
支援者名簿、献金者情報、選挙戦略等を検出した場合、警告を表示。
利用者が続行する場合、利用目的、同意確認、データ管理責任を確認するチェックボックスを設ける。
初期設定では、個人識別情報を含む支援者名簿の直接入力を非推奨。
将来的には、組織管理者が入力禁止設定を選択可能にする予定。
神崎は資料を読んだ。
「非推奨、か」
三島が頷く。
「禁止ではないですね」
セイムが表示した。
『改善はありますが、なお自己責任入力構造です』
次。
『監査ログへの事業者アクセスについて』
原則として、事業者側は利用者の対話ログ内容を閲覧しない。
技術的支援が必要な場合、利用者の明示的同意に基づき、限定された担当者がアクセス。
アクセス履歴を記録。
将来的に、利用者への通知機能を実装予定。
神崎は言った。
「将来的に、か」
三島がメモする。
「現時点では通知機能がない可能性」
次。
『削除について』
利用者は管理画面から削除申請が可能。
通常三十日以内に処理。
バックアップからの完全削除には最大九十日。
法令上・監査上保存が必要なログは一定期間保存。
神崎は目を細めた。
「削除申請しても、最大九十日残る」
セイムが表示した。
『利用者への明確な説明が必要です』
次。
『匿名化利用統計について』
利用回数、機能利用傾向、エラー発生状況等を匿名化してサービス改善に利用。
政治的傾向、個別支援者情報、選挙戦略内容を統計利用しない方針。
神崎は言った。
「方針」
『“方針”は、契約上の義務かどうか確認が必要です』
セイムが即座に表示した。
「全部、まだ詰めが必要だな」
三島が頷く。
「でも、質問状を出したことで、かなり情報が出てきました」
「それは成果だな」
雨宮からメッセージが来た。
『正式回答、確認しました。改善はあるが不十分。次の共同コメントは、評価と追加確認の両方で』
神崎は返信した。
『同意。禁止ではなく非推奨、通知は将来実装、削除は最大90日、方針と義務の違い。この四点ですね』
雨宮。
『はい。あと、管理者が入力禁止設定を選べるという点。初期設定で禁止にしない理由を聞くべきです』
神崎。
『了解』
夕方。
共同コメントが出された。
『PoliBrain Proからの回答により、高リスクデータ警告、監査ログ、削除手続き等について一定の情報が示されたことは前向きである。一方で、支援者名簿等の入力は初期設定で禁止ではなく非推奨にとどまること、事業者アクセス通知が将来実装予定であること、削除完了に最大九十日を要すること、匿名化利用統計に関する方針と契約上の義務の関係が不明であることなど、追加確認が必要である。』
このコメントは、また広がった。
『削除最大90日』
『非推奨は実質OKでは?』
『将来実装予定ってまだないのか』
『契約前に知りたい情報』
『安全版でも怖い』
PoliBrain Pro側はすぐに反論しなかった。
珍しく、沈黙した。
神崎はそれを見て言った。
「黒瀬が黙った」
三島が言った。
「珍しいですね」
セイムが表示した。
『対応を検討中と推定。
または、次の発表タイミングを調整中』
ヤミちゃんが表示した。
『沈黙も戦略です』
神崎は頷いた。
「そうだな」
夜。
神崎は、地方議員向けチェックリストを作っていた。
三島は、選挙事務所向け版。
セイムは、共通版と詳細版の整合性確認。
ヤミちゃんは、変な受け取られ方の監査。
事務所には、いつものように紙が増えていた。
ただし、今日は少し違った。
スタッフたちも、自分からAI利用状況を報告してくるようになっていた。
「この資料、公開情報だけなのでAI要約にかけます」
「このメールは個人情報があるので入れません」
「これ、匿名化すれば要約できますか?」
「迷ったので確認します」
神崎は、その様子を見て少し安心した。
怒らなくてよかった。
隠されるより、相談される方がいい。
三島が言った。
「先生、事務所内の空気が変わりましたね」
「そうだな」
「AI禁止ではなく、AI相談になっています」
「いいことだ」
セイムが表示した。
『組織的AI利用成熟度が上昇しています』
神崎は笑った。
「急にコンサルっぽいな」
『表現を変更します。
“少しマシになっています。”』
「それでいい」
二十二時。
神崎は帰り支度を始めた。
三島が言った。
「先生、今日も帰れますね」
「ルール厨だからな。自分のルールも守る」
「いいことです」
ヤミちゃんが表示した。
『“ルール厨だから帰る”は拡散力低。内輪向け。』
「内輪向けでいい」
セイムが表示した。
『本日の振り返りを行いますか?』
神崎は少し考えた。
「三分だけ」
『了解しました。
本日の良かった点:
一、事務所内AI利用の実態把握を怒らずに進めた。
二、チェックリストを現場向けに公開した。
三、PoliBrain Proの回答を具体的に評価した。
四、AI利用に関する相談しやすい空気を作った。
改善点:
一、作業量が増えすぎています。
二、チェックリスト派生版の管理が必要です。
三、黒瀬代表の次の一手への備えが必要です。
四、睡眠確保を継続してください。』
神崎は頷いた。
「妥当」
『以上です』
「短くていいな」
『三分指定に合わせました』
「距離感、よし」
神崎はタブレットを閉じた。
事務所を出る。
夜風が冷たい。
スマートフォンを見ると、雨宮からメッセージが来ていた。
『チェックリスト、かなり反応がありますね』
神崎は返信した。
『迷ったら入れない、が広がっています』
雨宮。
『雑だけど強いので』
神崎は笑った。
『そろそろ公式評価になりそうです』
雨宮。
『良い標語は、多少雑なものです』
神崎は空を見上げた。
AIなら、もっと整った言葉を作る。
専門家なら、もっと正確な言葉にする。
役所なら、もっと抜けのない文言にする。
でも、現場で人を止めるのは、意外と雑な一言だったりする。
迷ったら、入れない。
それは、AI時代の政治にしては、あまりにも素朴な言葉だった。
だが、素朴だからこそ、効くのかもしれない。
神崎は歩きながらつぶやいた。
「迷ったら、入れない」
その言葉を、自分にも向けた。
AIに情報を入れる時だけではない。
勢いで発言する時。
怒りを投稿する時。
誰かを切り捨てる時。
便利な話に乗る時。
黒瀬の笑顔を信じそうになる時。
迷ったら、一度止まる。
それは政治家としては、少し遅いのかもしれない。
でも、AI時代には、その一瞬の遅さが、人間に残された安全装置なのかもしれなかった。




