↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/11

第10講 選択的注意

 ——選択的注意


 心理学用語。多くの情報の中から、特定の情報を選択し、注意を向ける認知機能。



⸻



 ノートを開く。


 今日の出来事が、頭から離れない。


 不意に見てしまった、一ノ瀬の表情。

 思いがけず口にしてしまった言葉。


 思い出すたびに、落ち着かなくなる。



(……考えるの、やめよう)



 考えたところで、答えが出るわけでもない。


 未羽は小さく息を吐いて、ペンを握り直した。

 書きかけの物語の続きを、少しずつ綴っていく。


 静かな空間。


 未羽はペンを動かし始めた。



⸻



 ——どうしてそんなこと聞くの


 久瀬の問いは、短い。

 逃げ場を与えないまま、まっすぐに向けられる。


 心春は、少しだけ考えてから口を開いた。



「……あまりにも違うと思って、気になったので」



 それでも、視線は逸らさない。



「講義とそれ以外で、そこまで態度を変える必要があるんでしょうか」



 その言葉に、久瀬はわずかに目を細める。


 数秒の沈黙。


 やがて、視線を外した。



「……君は、知る必要がないことだ」



 それで、終わりだった。

 それ以上、言葉は続かない。


 心春は、何も言えなかった。


 閉じられたままの距離だけが、残る。



⸻



 ペンが止まる。


 未羽は、しばらく書きかけのページを見つめていた。


 続きを書こうとしても、言葉が浮かばない。


 何度かペン先を紙に近づけては、結局、何も書けずに止めてしまう。



「……」



 小さく息を吐く。


 どうにも、うまくいかない。


 それでも、ふと目に入った文章に、未羽は視線を止めた。


 ——君は、知る必要がないことだ。



「……なんで」



 思わず、声が漏れる。


 久瀬の言葉を、頭の中でもう一度なぞる。


 こんなふうに突き放す必要が、あっただろうか。


 少なくとも、一ノ瀬は。


 こんな言い方は、しなかったはずだ。


 答えを濁すようなところはあった。

 それでも、こんなふうに、最初からこちらを遠ざけるような言い方ではなかった。


 なのに、どうして自分は、こんなふうに書いたのだろう。


 未羽は、ペンを持つ手を止めたまま、しばらくその一文を見つめていた。



⸻



 翌日。


 研究室の前で、未羽は足を止めた。



(……どんな顔すればいいんだろ)



 昨日のことが、頭をよぎる。


 あんなふうに見つめてしまったこと。

 思ってもいなかった言葉が、口から出てしまったこと。


 今さら、なかったことにはできない。


 かといって、いつも通りに振る舞える自信もなかった。


 未羽は小さく息を吐いて、ドアをノックした。



「失礼します」


「お、咲倉さん」



 顔を上げた一ノ瀬は、いつもと変わらない調子だった。



「お疲れ」


「……お疲れさまです」



 拍子抜けするほど、普通だった。


 昨日のことなんて、まるでなかったかのように。


 未羽は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 ——よかった。


 そう思った、はずだった。



「今日、何かやることありますか」


「んー、今日はそんなに忙しくないから大丈夫。自分の研究進めてていいよ」


「……わかりました」



 あっさりとした返事。


 それだけだった。


 いつもなら、もう少し何か言ってくる。

 こちらの反応を窺うような、からかうような一言。

 返事をする間もなく近づいてきて、こちらが困るのを面白がるような仕草。


 けれど、今日はない。


 一ノ瀬はもう自分の作業に視線を戻していた。


 未羽は自分の席に向かい、資料を広げる。


 キーボードの音。


 紙をめくる音。


 短い会話。


 どれも、いつもと同じ。


 ——なのに。


 なんとなく、違和感がある。


 視線を上げると、一ノ瀬は普通に他の院生と話している。



(……普通だ)



 いつも通り、のはずなのに。



(……あの頃に、戻ったみたいだ)



 必要以上に近づいてくることも、こちらの反応を楽しむような言葉もなかった頃。


 これでいいはずだ。


 あんなふうに意識してしまうこともない。

 返事に困ることも、距離に戸惑うこともない。


 なのに。


 何かが、引っかかっていた。



⸻



 午後。

 学部生向けの講義『認知心理学』の時間。


 未羽はTAとして教室にいた。



「それは、事実?それとも解釈?」



 一言で、空気が止まる。


 迷いのない声。

 揺らがない視線。


 講義中の一ノ瀬は、いつもこうだった。


 以前は、ただ怖いと思っていた。

 けれど今は、その姿を見ながら、研究室での表情がふと頭をよぎる。



(……やっぱり、全然違う)



 同じ人のはずなのに。



⸻



 講義が終わる。


 未羽は自然と一ノ瀬の方へ向かった。



「持ちます」


「あ、ありがと」



 短く言って、資料を渡される。


 そのまま並んで歩く。


 でも。

 何も言われない。

 軽口も、距離を詰めるような動きもない。


 ただ、普通に歩いているだけ。



(……やっぱり、おかしい)



⸻



 研究室に戻る。


 資料を置く。



「これで大丈夫ですか」


「うん、助かった」



 それだけ。


 他の院生と同じような距離感。

 昨日までのやり取りが、嘘みたいに消えている。


 未羽は一瞬だけ迷う。


 でも、そのまま帰る気にはなれなかった。



「……あの」



 声をかける。


 一ノ瀬が顔を上げる。



「ん?」


「……今日、なんか変ですよね?」



 言ってから、少しだけ間が空く。



(……聞いてしまった)



 自分から。


 一ノ瀬は、一瞬だけ目を見開いた。

 ほんのわずかに。


 けれど、すぐにいつもの表情に戻る。



「そう?」



 軽く返す。

 その声は、いつもと変わらない。


 ただ、一度だけ視線が未羽の顔をなぞった。


 それから、ほんの少し。

 口元が緩む。


 ——あ。


 未羽は、なぜかそこに引っかかった。

 今の一瞬、何かが揺れた気がした。


 気のせいかもしれない。

 他の人なら、きっと気づかない程度の変化。


 それでも、未羽は目を離せなかった。



「はい」



 未羽はそのまま続ける。



「いつもと違う気がします」



 視線を逸らさずに言う。



(……観察してるだけ)



 そう言い聞かせながら。


 一ノ瀬は、今度こそわずかに目を細めた。

 未羽の視線を受け止めるように、ゆっくりと見返す。


 その口元には、さっきよりもはっきりと笑みが浮かんでいた。



「……気のせいじゃない?」



 声は軽い。


 けれど、その目はもう、いつものように未羽の反応を窺っていた。



「ていうか」



 さらに、少しだけ近づく。



「そんなに気になる?」



 口角が、ゆっくりと上がる。


 試すような目。



「……観察してるだけです」



 少しだけ間を置いて、言う。


 前と同じ言葉。

 でも、前より少しだけ弱い。


 一ノ瀬はそれを聞いて、わずかに目を細めた。



「へえ。……じゃあ、ちゃんと見てよ」



 さらっと言う。


 距離が、さっきより近い。



「前より分かりやすくしてあげるよ」



 軽い声。


 でも、その意味は軽くない。



「……は?」



 未羽が反応する前に。

 一ノ瀬はすっと距離を戻す。



「じゃ、これお願い」



 何事もなかったみたいに、資料を渡す。

 さっきまでの空気が、嘘みたいに消える。


 未羽はそれを受け取りながら、言葉を失った。



(……なんなの、この人)



 でも。

 さっきより、確実に距離は近い。


 避けていたはずなのに。

 気づけば、また巻き込まれている。


 未羽は小さく息を吐いて、資料に視線を落とした。


 胸の奥に残る違和感を、見ないふりをしながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。