第10講 選択的注意
——選択的注意
心理学用語。多くの情報の中から、特定の情報を選択し、注意を向ける認知機能。
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ノートを開く。
今日の出来事が、頭から離れない。
不意に見てしまった、一ノ瀬の表情。
思いがけず口にしてしまった言葉。
思い出すたびに、落ち着かなくなる。
(……考えるの、やめよう)
考えたところで、答えが出るわけでもない。
未羽は小さく息を吐いて、ペンを握り直した。
書きかけの物語の続きを、少しずつ綴っていく。
静かな空間。
未羽はペンを動かし始めた。
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——どうしてそんなこと聞くの
久瀬の問いは、短い。
逃げ場を与えないまま、まっすぐに向けられる。
心春は、少しだけ考えてから口を開いた。
「……あまりにも違うと思って、気になったので」
それでも、視線は逸らさない。
「講義とそれ以外で、そこまで態度を変える必要があるんでしょうか」
その言葉に、久瀬はわずかに目を細める。
数秒の沈黙。
やがて、視線を外した。
「……君は、知る必要がないことだ」
それで、終わりだった。
それ以上、言葉は続かない。
心春は、何も言えなかった。
閉じられたままの距離だけが、残る。
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ペンが止まる。
未羽は、しばらく書きかけのページを見つめていた。
続きを書こうとしても、言葉が浮かばない。
何度かペン先を紙に近づけては、結局、何も書けずに止めてしまう。
「……」
小さく息を吐く。
どうにも、うまくいかない。
それでも、ふと目に入った文章に、未羽は視線を止めた。
——君は、知る必要がないことだ。
「……なんで」
思わず、声が漏れる。
久瀬の言葉を、頭の中でもう一度なぞる。
こんなふうに突き放す必要が、あっただろうか。
少なくとも、一ノ瀬は。
こんな言い方は、しなかったはずだ。
答えを濁すようなところはあった。
それでも、こんなふうに、最初からこちらを遠ざけるような言い方ではなかった。
なのに、どうして自分は、こんなふうに書いたのだろう。
未羽は、ペンを持つ手を止めたまま、しばらくその一文を見つめていた。
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翌日。
研究室の前で、未羽は足を止めた。
(……どんな顔すればいいんだろ)
昨日のことが、頭をよぎる。
あんなふうに見つめてしまったこと。
思ってもいなかった言葉が、口から出てしまったこと。
今さら、なかったことにはできない。
かといって、いつも通りに振る舞える自信もなかった。
未羽は小さく息を吐いて、ドアをノックした。
「失礼します」
「お、咲倉さん」
顔を上げた一ノ瀬は、いつもと変わらない調子だった。
「お疲れ」
「……お疲れさまです」
拍子抜けするほど、普通だった。
昨日のことなんて、まるでなかったかのように。
未羽は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
——よかった。
そう思った、はずだった。
「今日、何かやることありますか」
「んー、今日はそんなに忙しくないから大丈夫。自分の研究進めてていいよ」
「……わかりました」
あっさりとした返事。
それだけだった。
いつもなら、もう少し何か言ってくる。
こちらの反応を窺うような、からかうような一言。
返事をする間もなく近づいてきて、こちらが困るのを面白がるような仕草。
けれど、今日はない。
一ノ瀬はもう自分の作業に視線を戻していた。
未羽は自分の席に向かい、資料を広げる。
キーボードの音。
紙をめくる音。
短い会話。
どれも、いつもと同じ。
——なのに。
なんとなく、違和感がある。
視線を上げると、一ノ瀬は普通に他の院生と話している。
(……普通だ)
いつも通り、のはずなのに。
(……あの頃に、戻ったみたいだ)
必要以上に近づいてくることも、こちらの反応を楽しむような言葉もなかった頃。
これでいいはずだ。
あんなふうに意識してしまうこともない。
返事に困ることも、距離に戸惑うこともない。
なのに。
何かが、引っかかっていた。
⸻
午後。
学部生向けの講義『認知心理学』の時間。
未羽はTAとして教室にいた。
「それは、事実?それとも解釈?」
一言で、空気が止まる。
迷いのない声。
揺らがない視線。
講義中の一ノ瀬は、いつもこうだった。
以前は、ただ怖いと思っていた。
けれど今は、その姿を見ながら、研究室での表情がふと頭をよぎる。
(……やっぱり、全然違う)
同じ人のはずなのに。
⸻
講義が終わる。
未羽は自然と一ノ瀬の方へ向かった。
「持ちます」
「あ、ありがと」
短く言って、資料を渡される。
そのまま並んで歩く。
でも。
何も言われない。
軽口も、距離を詰めるような動きもない。
ただ、普通に歩いているだけ。
(……やっぱり、おかしい)
⸻
研究室に戻る。
資料を置く。
「これで大丈夫ですか」
「うん、助かった」
それだけ。
他の院生と同じような距離感。
昨日までのやり取りが、嘘みたいに消えている。
未羽は一瞬だけ迷う。
でも、そのまま帰る気にはなれなかった。
「……あの」
声をかける。
一ノ瀬が顔を上げる。
「ん?」
「……今日、なんか変ですよね?」
言ってから、少しだけ間が空く。
(……聞いてしまった)
自分から。
一ノ瀬は、一瞬だけ目を見開いた。
ほんのわずかに。
けれど、すぐにいつもの表情に戻る。
「そう?」
軽く返す。
その声は、いつもと変わらない。
ただ、一度だけ視線が未羽の顔をなぞった。
それから、ほんの少し。
口元が緩む。
——あ。
未羽は、なぜかそこに引っかかった。
今の一瞬、何かが揺れた気がした。
気のせいかもしれない。
他の人なら、きっと気づかない程度の変化。
それでも、未羽は目を離せなかった。
「はい」
未羽はそのまま続ける。
「いつもと違う気がします」
視線を逸らさずに言う。
(……観察してるだけ)
そう言い聞かせながら。
一ノ瀬は、今度こそわずかに目を細めた。
未羽の視線を受け止めるように、ゆっくりと見返す。
その口元には、さっきよりもはっきりと笑みが浮かんでいた。
「……気のせいじゃない?」
声は軽い。
けれど、その目はもう、いつものように未羽の反応を窺っていた。
「ていうか」
さらに、少しだけ近づく。
「そんなに気になる?」
口角が、ゆっくりと上がる。
試すような目。
「……観察してるだけです」
少しだけ間を置いて、言う。
前と同じ言葉。
でも、前より少しだけ弱い。
一ノ瀬はそれを聞いて、わずかに目を細めた。
「へえ。……じゃあ、ちゃんと見てよ」
さらっと言う。
距離が、さっきより近い。
「前より分かりやすくしてあげるよ」
軽い声。
でも、その意味は軽くない。
「……は?」
未羽が反応する前に。
一ノ瀬はすっと距離を戻す。
「じゃ、これお願い」
何事もなかったみたいに、資料を渡す。
さっきまでの空気が、嘘みたいに消える。
未羽はそれを受け取りながら、言葉を失った。
(……なんなの、この人)
でも。
さっきより、確実に距離は近い。
避けていたはずなのに。
気づけば、また巻き込まれている。
未羽は小さく息を吐いて、資料に視線を落とした。
胸の奥に残る違和感を、見ないふりをしながら。




