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第9講 相互認知

 それから。


 一ノ瀬は、わかりやすく距離を詰めてくるようになった。


 用もないのに声をかけてくる。

 必要以上に近い距離で話す。

 視線を外さない。


 ——完全に、わざとだ。



「咲倉さん、これ」



 差し出された資料を受け取ろうとする。


 その瞬間、指先が触れた。



「——っ」



 ほんのわずかに、指が跳ねる。


 反射的に手を引きそうになって、未羽は寸前でこらえた。


 たったそれだけ。

 ただ指先が触れただけなのに。


 触れた場所ばかりが、妙に意識に残る。



(……何を動揺してるんだ、私は)



 すぐに資料を引き寄せ、何事もなかったように抱え直す。


 けれど、一ノ瀬はその一連の動きを見ていた。

 資料から未羽の顔へ、ゆっくりと視線を移す。


 目が合う。


 一ノ瀬の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。



「……どうしたの?」



 不意に、声をかけられる。


 わかっているくせに。


 何でもないことのような口調で、わざわざ聞いてくる。



「……なんでもないです」



 未羽は資料を抱え直し、視線を逸らした。



「ふーん?」



 一ノ瀬が、楽しそうに目を細める。

 口元には、まだ笑みが残っていた。


 ——絶対、気づいてる。


 未羽は一歩、距離を取った。


 すると、一ノ瀬も何でもないことのように一歩近づく。



「……先生」


「ん?」


「……近いです」


「そう?」



 とぼけた声。


 離れる気配は、なかった。


 そんなやり取りが、何度か続いた。



⸻



「咲倉」



 講義終わり、廊下で呼び止められる。


 振り返ると、同じ一ノ瀬研の坂谷がいた。



「あ、お疲れ。坂谷」


「お疲れ〜」



 同じ院生で同学年の坂谷。

 学部生の頃、グループワークで一緒になったのがきっかけで仲良くなった。


 気取らない性格で、思ったことをそのまま口にする。

 今も彼女と順調らしく、他人の恋愛話を面白がるところがある。


 そんな坂谷が、こちらを見てにやりと笑った。



「咲倉さ」


「ん?」


「最近、一ノ瀬と仲良くね?」



 唐突すぎて、一瞬固まる。



「……いや、別に普通だよ」



 できるだけ平静を装って返す。



「そう?」



 坂谷は少し首をかしげてから、



「一ノ瀬も、あんな顔すんだなって思ったわ」


「……は?」


「なんかさ、楽しそうっていうか」



 にやっと笑う。



「見たことない顔してた」



 未羽は一瞬言葉に詰まって、視線を逸らした。



「……気のせいでしょ」


「へえ」



 明らかに信じてない声。



「この後、昼飯食う?」


「あー、ごめん」



 少し早口になる。



「研究室行かなきゃなんだわ……」


「ふーん」



 坂谷はにやにやしたまま、



「やっぱなんかあるだろ」


「マジでやめて……」



 思わず低い声が出る。



「ほんとにないから」


「はいはい」



 軽く手を振りながら、



「まあなんかあったら相談乗るよ」



 楽しそうに言って、そのまま去っていく。



(……絶対勘違いしてる)



 未羽は小さくため息をついて、研究室へ向かった。



⸻



 研究室には、何人かの院生がいた。


 それぞれパソコンに向かったり、資料を広げたりしている。


 一ノ瀬も、机に向かっていた。


 デスクの上には、何冊もの資料と書類が広げられている。

 パソコンの画面を確認しては、手元の書類に目を落とし、何かを書き込む。

 ときどき別の資料を引き寄せては、また画面に視線を戻す。


 未羽が近づいても気づかないほど、目の前の作業に集中しているようだった。



「……先生」



 未羽が話しかける。

 ワンテンポ遅れて、一ノ瀬が顔を上げた。



「ああ、咲倉さん」



 こちらに気づくが、すぐに視線は資料に落ちた。

 そしてデスクの端から資料に手を伸ばす。



「これお願い」



 差し出された資料の束は、思ったより分厚い。



「……はい」



 素直に受け取る。


 一ノ瀬はそれを見届けることもなく、すぐにパソコンへ視線を戻した。



⸻



 気づけば、夕方になっていた。


 頼まれていた分は、すべて終わっている。


 未羽は一度手を止めて、一ノ瀬の方を見る。


 まだ、机に向かったまま。

 画面と資料を何度も見比べ、時折キーボードを叩いている。


 学会発表が近いと、以前どこかで聞いた気がする。

 その準備に追われているのかもしれない。



「先生」



 反応がない。


 少しだけ声を大きくする。



「一ノ瀬先生」



 それでも、返事はない。


 未羽は小さく息を吐き、立ち上がった。


 そのまま近づいて、デスクに手をつく。



「一ノ瀬先生」



 すぐそばから呼びかけた、その瞬間。



「——うわっ!」



 一ノ瀬が勢いよく顔を上げた。


 目を見開き、わずかに肩を揺らす。



「……っ、びっくりした」



 思わずこぼれた声。

 いつもの余裕のある口調とは、少し違っていた。



「……咲倉さんか」



 目の前の未羽を見て、まだ驚きが抜けきらないように瞬きをする。



「……え、まだいたの?」


「……いましたけど」


「あー……ごめん。もうみんな帰ったと思ってた」



(……自分で仕事を頼んだこと、忘れてるし)



 未羽は心の中で悪態をつく。


 一ノ瀬はデスクの上の資料に視線を落とし、苦笑した。



「……ごめん。全然気づかなかった」



 そう言ってから、ふと未羽の方へ目を戻す。


 思ったより、近い。


 未羽も、その視線に気づいて一瞬だけ固まった。



「ああ……それか。終わった?」



 いつもの調子を取り戻そうとするように、一ノ瀬が資料を指す。



「……はい」


「ありがとう」



 声が、少しだけ柔らかくなる。


 未羽は返事をしようとして——なぜか、その顔から目を離せなかった。


 いつもなら、すぐにからかってくる。

 余裕のある笑みを浮かべて、こちらの反応を楽しんでいる。


 なのに、今は。


 驚いたあとの、少し力の抜けた表情。

 わずかに緩んだ目元。

 いつもより、穏やかな声。



(……こんな顔、するんだ)



 気づけば、未羽はそのまま見つめていた。


 表情。

 目線。

 わずかな動き。


 観察するみたいに。



「……なに」



 一ノ瀬が、少しだけ眉を上げる。



「見惚れてんの?」



 いつもの軽口。


 ——のはずだった。



「……はい」



 気づいたときには、答えていた。


 一ノ瀬の表情が、止まる。



「……は?」



 今度は、聞き返す声まで遅れた。



「そんな顔もするんだと思って……」



 未羽は、まだ自分が何を口にしているのか、わかっていなかった。


 けれど、一ノ瀬は違った。


 さっきまでの驚きとは、明らかに違う。

 何かを言おうとして、言葉が出てこない。


 目の前の未羽を見たまま、ほんの一瞬、固まっていた。


 ——予想していなかった。


 そんな顔だった。


 その反応を見て、未羽は一気に現実に戻る。



「……っ、すみません!」



 慌てて距離を取る。



「失礼します!」



 それ以上何も言わずに、急いで荷物をまとめる。


 そのまま、研究室を出た。



⸻



(……何やってんだ私……)



 廊下を歩きながら、顔が熱くなる。


 心臓の音が、うるさい。


 意味がわからない。


 なんであんなこと——


 未羽はそのまま、早足でその場を離れた。



⸻



 研究室に、静寂が戻る。


 一ノ瀬はしばらくそのまま座っていた。


 思い返すのは、すぐ目の前にいた未羽の顔。


 あの距離で、じっとこちらを見つめていた。

 いつものように、からかわれるのを警戒する目ではなかった。


 ただ、純粋に。

 何かを確かめるように、自分を見ていた。



「……なんだ、あれ」



 小さく呟く。


 あんなふうに見られるなんて、思っていなかった。


 一ノ瀬は、片手で口元を覆った。


 ほんの少し、熱い。



「……いや。咲倉は、そういうのじゃないだろ……」



 自分に言い聞かせるように呟く。


 けれど、あの視線が頭から離れなかった。

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