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第8講 自己呈示

 ——自己呈示(じこていじ)


 心理学用語。他者に与える印象を調整するために、自分の見せ方や振る舞いを変えること。



⸻



 それから数日。


 あの夜、ノートに書いてしまった言葉が、ふとした瞬間に蘇る。


 ——気になったからです。


 すぐに消した。

 なかったことにした。


 ただの小説だ。

 心春の台詞であって、自分の気持ちではない。


 そもそも、一ノ瀬のことを気にする理由なんてない。


 小説を書くために観察しているだけ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 だから、余計なことは考えない。

 必要以上に近づかない。


 観察することと、個人的に意識することは別だ。


 ——ちゃんと、切り分ける。


 そう決めてから、未羽は一ノ瀬との距離を少しだけ意識するようになった。


 講義中は、できるだけ視線を上げない。

 研究室でも、必要以上に話さない。

 雑用は、こなす。

 頼まれたことは、ちゃんとやる。


 でも。


 それ以上は、踏み込まない。

 会話が広がりそうになる前に切る。

 目が合いそうになったら逸らす。


 小説を書くために、観察は続ける。

 ただし、余計な感情は持ち込まない。


 そんなふうに、改めて一線を引く。


 ——つもりだった。



⸻



 資料を運び終えて、机に置く。



「これで全部です」


「ありがと」



 短いやり取り。


 それで終わるはずだった。



「……咲倉さん」



 呼ばれる。


 顔を上げると、一ノ瀬がこちらを見ていた。



「最近、なんか変じゃない?」



 軽い声。


 でも、逃げ場はない。



「……そんなことないです」



 すぐに返す。


 用意していたみたいに。



「ふーん」



 一ノ瀬はわずかに口角を上げる。



「前より話さなくなったし」



 一歩、距離が詰まる。



「目もあんまり合わせないよね」



 さらに、近い。


 指摘が、的確すぎる。



「……気のせいです」



 視線を逸らしたまま言う。


 自分でも、少し無理があると思う。



「へえ」



 短く笑う。


 完全に、わかっている顔。



「もしかして」



 声が少しだけ低くなる。


 視線が、逃げ場を塞ぐ。



「意識しちゃってる?」



 口角を上げて、問う。



「……違います」



 すぐに否定しようとして、言葉がわずかに遅れた。


 一ノ瀬は、そのわずかな間を見逃さなかった。



「へえ」



 面白そうに目を細める。



「じゃあ、なんで避けてるの?」


「……避けてません」


「そう?」



 疑うような声。


 一ノ瀬は、少しだけ首を傾げた。



「じゃあ、こっち見てよ」


「……」



 未羽は黙った。


 見ればいいだけだ。

 ただ目を合わせるだけ。


 そう自分に言い聞かせて、渋々顔を上げる。


 視線が、ぶつかった。


 一ノ瀬は、意地悪そうに笑っていた。



(……やっぱり、面白がってる)



 今すぐ視線を逸らしたくなる。


 けれど、ここで逸らしたら、認めたようなものだ。


 未羽は、ぐっとこらえて見返した。



「……何ですか」


「ん?何が?」



 一ノ瀬が、わずかに顔を傾ける。


 分かっているくせに。


 そう言いたくなるような、意地の悪い声だった。


 未羽は小さく息を吸った。


 このままでは、また好き勝手にからかわれるだけだ。


 だったら。



「……先生は」



 顔を上げたまま、口を開く。



「どうして講義のときと、それ以外で違うんですか」



 その言葉が落ちた瞬間。

 一ノ瀬が、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。


 予想していなかった、というように。


 未羽は、そのわずかな変化を見逃さなかった。


 一ノ瀬はすぐには答えず、少しだけ視線を外した。


 何かを考えているようにも見えた。

 けれど、それが何なのかは分からない。


 やがて、何事もなかったように口を開く。



「……別に」



 短く答えてから、わずかに間を置く。



「相手によって変えてるだけ」



 あっさりとした口調だった。



「講義は講義だし」


「研究は研究」



 そこで言葉を切る。


 それ以上、説明するつもりはないらしい。


 未羽は、一ノ瀬の顔を見つめた。


 今の答えで、説明がついたような気もする。

 けれど、何かを聞きそびれたような感覚が残った。



「……それだけですか」



 思わず、未羽は聞き返していた。



「それ以上いる?」



 すぐに返される。


 軽い調子。

 でも、どこか試すような響き。


 未羽は言葉に詰まる。


 その一瞬を見逃さずに、一ノ瀬が少しだけ口角を上げる。



「ていうかさ」



 一歩、距離を詰める。


 さっきより、近い。



「なんでそんなこと気になるの?」



 視線が、まっすぐ落ちる。


 逃げ場がない。



「……」



 言葉が出ない。


 答えに迷う。


 一ノ瀬は小さく笑った。



「やっぱ意識してるじゃん」



 軽く、言い切る。



「……違います」



 即答。


 一拍おいて、未羽は視線を上げた。



「小説で書いてるので」


「参考にしておきたかっただけです」



 少しだけ、強めに言う。


 理屈としては、間違っていない。


 ——はずだ。


 一ノ瀬はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。



「へえ」



 興味が戻るみたいに、ゆっくり声を落とす。



「参考、ね」



 一ノ瀬は未羽の顔を見た。


 未羽は視線を逸らさなかった。


 ——小説のため。

 ただ、それだけだ。


 そう言い聞かせるように、一ノ瀬を見返す。


 やがて、一ノ瀬の口元がわずかに緩んだ。



「でも結局さ」



 そこで、一度言葉を切る。


 ほんの短い間。


 それから、何でもないことのように。



「俺のこと、知りたくなっちゃってない?」


「……」



 言葉が、出てこなかった。


 軽い調子だった。

 からかうような笑みも、いつもと変わらない。


 なのに。


 まるで、胸の内を覗き込まれたような気がした。


 未羽は、わずかに唇を引き結ぶ。


 ——違う。


 そう言えばいいだけなのに。


 否定できないのが、悔しい。

 でも、負けたくない。


 少しだけ間を置いて、言う。



「……ちゃんと切り分けてます」



 一ノ瀬は、その返答を聞いて——


 ほんの一瞬だけ、口角を上げた。



「はいはい」



 適当に流すような声。


 でも。

 その目は、少しだけ楽しそうだった。



「じゃあ、そういうことにしとく」



 そう言って、一ノ瀬はようやく一歩離れた。


 未羽は、気づかれないように小さく息を吐く。


 けれど。

 さっきの言葉は、まだ胸の奥に残っていた。


 うまく誤魔化せたのか、それとも。

 どっちなのかは、よくわからないまま。


 ただ。


 さっきよりも少しだけ、距離の取り方が難しくなった気がした。

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