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第7講 混同

 未羽は研究で詰まっていた。


 画面に表示されたデータを前に、何度も同じところで手が止まる。


 仮説は立てた。

 方向性も、間違っていないはずだった。


 それなのに、どこかが噛み合わない。



「……どうしよう」



 しばらく考えたあと、未羽はスマホに手を伸ばした。


 連絡先に登録された、一ノ瀬の名前。



『研究のことで聞きたいことがあったら、いつでも何でも聞いていい』



 昨日の言葉を思い出す。


 少し迷ってから、未羽はメッセージを打ち込んだ。



『先生、研究のことで相談したいことがあるんですが、今少しお時間ありますか?』



 送信して、画面を見つめる。


 ほどなくして、返信が届いた。



『どこで詰まってる?』



 未羽は、今の状況と引っかかっている箇所を説明した。


 少しして、返信が届く。



『そこ、前提が少し曖昧かも』



 画面を見つめる。



『何を明らかにしたいのか、もう一度整理してみて』



 未羽は、思わず手を止めた。


 仮説を立てることに意識が向きすぎて、そもそもの目的が曖昧になっていたのかもしれない。



『仮説に合うかどうかだけじゃなくて、ほかの可能性も考えてみて』



(……確かに)



 だが、また新しい疑問が浮かぶ。



『ありがとうございます。もうひとつ聞きたいことがあるんですが』



 そう返信して、質問を打ち込もうとした、そのとき。



『このあと、研究室来れる?』



 思わず、手が止まった。



『まだ続き見せてもらってないよね。例のアレ』



「……あ」



 未羽はスマホを見つめた。


 忘れていたわけではない。

 ただ、今は研究のことで頭がいっぱいだったのだ。



『……研究の相談の続きも、お願いできますか?』


『もちろん』



 すぐに返信が来る。



『じゃあ、待ってるね』



 ——小説を見せる約束も、忘れていなかったらしい。


 未羽はスマホを伏せ、小さく息を吐いた。



「……ほんと、ちゃっかりしてる」



 そう呟きながら、バッグに手を伸ばす。

 資料をまとめて、ノートを取り出した。


 一ノ瀬に見られた一件から、ノートはなるべく大学には持って行かないようにしていた。


 けれど。



「……約束だし」



 自分に言い聞かせるように呟いて、未羽は小説のノートもバッグにしまった。



⸻



 研究室の扉の前で、足を止める。


 ノックをして、中に入る。



「失礼します」


「来たね」



 一ノ瀬の視線が向く。

 いつもの、軽い調子。


 室内を見回して、未羽はふと気づいた。


 他の院生は、まだ誰も来ていない。



「……まだ誰も来てないんですね」


「ああ。今日のこの時間、来る人少ないから」



 一ノ瀬は、何でもないことのように答えた。


 未羽は小さく首を傾げる。



(……もしかして)



 小説を見せる上で、周りの目を気にしてくれたのだろうか。



(……いや、たまたまでしょ)



 未羽は早々に結論づけると、口を開いた。



「……研究の相談、続きいいですか」


「いいよ」



 即答だった。


 でも。



「——その前に」



 手が、差し出される。



「約束、覚えてる?」



 にやりと、口角が上がる。


 ——逃げられない。


 未羽は小さく息を吐いて、バッグからノートを取り出した。



「……少しだけ、です」


「十分」



 軽く言って、ノートを受け取る。


 そのまま、ぱらぱらとページをめくった。


 視線が走る。


 ただ流し読みしているわけではないらしい。ときどき指を止め、少し前のページに戻っては、また先へ進んでいく。


 思っていたよりも、ちゃんと読んでいる。


 未羽はその間、落ち着かないまま立ち尽くしていた。



「ふーん」



 やがて、一ノ瀬が小さく声を漏らす。



「……いいんじゃない」


「……ありがとうございます」


「前より、ちゃんと書けてるし」


「……それは、どういう意味ですか」


「そのまんまだけど」



 一ノ瀬は顔を上げ、さらりと答える。



「ちゃんと読めるし、続きも気になる」



 褒められている、のだろうか。


 どちらにしても、素直に喜べる言い方ではなかった。



「……まあ、誰かさんの観察記録みたいなもんだしね」


「……っ」



 思わず言葉に詰まる。


 そんな未羽の反応を見て、一ノ瀬の口元がわずかに緩んだ。



「てか、これさ」



 ページをめくる手が止まる。


 一ノ瀬は、しばらくその文章に目を落としていた。

 未羽には、どこを読んでいるのか分からない。


 ただ、さっきまでの軽い調子とは、ほんの少しだけ空気が違う気がした。



「……咲倉さんの気持ち、混ざってない?」



 不意に、顔が上がる。


 目が合った。


 問いかける声は、いつもと変わらない。

 からかうようでもあり、純粋に気になっただけのようでもある。


 どちらなのか、未羽には分からなかった。



「違います」



 即答だった。



「恋愛小説なので、そういうふうに書いてるだけです」



 少しだけ強く言い切る。


 一ノ瀬は未羽の顔を見たまま、何も言わなかった。


 ほんの短い沈黙。

 未羽は視線を逸らさなかった。


 やがて、一ノ瀬が小さく息を吐く。



「あ、そ」



 あっさりと、視線がノートに戻った。



「まあ、そういうことにしとく」


「……そういうことに、って」


「ん?」


「……いえ」



 何を言っても、まともに取り合ってもらえない気がした。


 一ノ瀬はそれ以上追及することなく、ノートを閉じた。



「まあいいや」



 軽く差し出され、未羽はそれを受け取る。



「続きかけたら、また見せてよ」



 何でもないことのように言う。

 未羽はノートを抱えながら、わずかに眉を寄せた。



(……なんなの、この人)



 そう思いながらも、口には出さない。


 一ノ瀬は未羽の顔を見ていた。

 ふっと目を細める。


 けれど、それも一瞬のことだった。



「で」



 一ノ瀬が視線を上げる。



「相談だっけ」



 空気が、切り替わる。



⸻



 未羽は資料を広げて、今の状況を説明する。


 研究テーマは、特定の行動が人物の性格判断に与える影響。


 発言の少ない人物を題材に、観察された行動から、どこまで性格を推測できるのかを調べようとしていた。


 仮説は立てた。

 けれど、条件を整理していくうちに、どこかが噛み合わなくなった。



「……というところで、止まっていて」



 一通り話し終えると、一ノ瀬は資料に目を落とした。


 しばらくして、口を開く。



「それ、多分前提ズレてる」


「……前提?」


「うん。発言が少ない人を、消極的な性格だって判断するかどうかを調べたいんだよね」


「はい」


「でも、発言が少ないことと、消極的な性格であることは別でしょ」



 資料を指で軽く叩く。



「周りがそう判断したとしても、実際にそういう性格だとは限らないよね」


「……確かに」


「じゃあ、何を明らかにしたいのか。そこを整理しないと」



 一ノ瀬は資料から顔を上げた。



「周りがどう判断するかじゃなくて、その判断がどこまで実際の性格と一致するのか。そこを調べたいんでしょ」


「……はい」



 未羽は、もう一度資料を見直した。


 確かに、今の計画では、参加者がその人物をどう評価したかを調べることしか考えていなかった。


 それなのに、仮説では、その人物の性格そのものについても結論を出そうとしていた。



「……私、混同してたんですね」


「うん。調べられることと、そこから言えることは別だから」



 どこかで聞いた言葉が、重なる。


 事実と解釈。

 観察できたことと、そこから導き出した結論。



「……あ」



 思わず声が漏れた。


 自分が何を明らかにしたかったのか、ようやく見えてきた気がした。



「じゃあ、仮説も立て直したほうがいいですね」


「そうだね」



 一ノ瀬は軽く頷いた。



「今のままだと、成立しそうなところに寄せてる」


「……」


「仮説に合う結果が出ることと、ちゃんと検証できてることは別だから」



 淡々とした声だった。


 未羽は、返す言葉がなかった。


 仮説が成立しなかった場合のことを、十分に考えていなかった。



「……前提を整理して、仮説を立て直します」


「うん。そのほうがいい」



 一ノ瀬は資料を未羽のほうへ戻した。



「まずは、何を調べるのか。そこをはっきりさせてから、条件を考えればいいよ」


「……ありがとうございます」



 思わず、声が柔らかくなる。


 問題がなくなったわけではない。

 それでも、どこから考え直せばいいのかは見えてきた。


 一ノ瀬は特に気にした様子もなく。



「あとさ」



 軽く続けた。



「そのうち、実験やるなら人いるでしょ」


「……はい」


「必要になったら言って。紹介できるから」



 さらりと言われて、未羽は一瞬、言葉の意味を考えた。


 研究計画の相談だけではない。

 本当に実験を進める段階でも、手を貸してくれるつもりらしい。



「……ほんとにちゃんと研究手伝ってくれるんですね」



 思わず、口に出ていた。


 一ノ瀬は一瞬だけきょとんとしてから、



「あたりまえだろ」



 軽く言う。



「約束したからな」



 その言い方は、いつもと変わらないはずなのに。

 その言葉だけ、妙に真っ直ぐに聞こえた。


 未羽は少しだけ目を瞬かせて。



「……ありがとうございます」



 もう一度、小さく言った。



⸻



 その日の帰り。

 未羽は大学の図書館に寄っていた。


 静かな空間。


 人の気配はあるのに、音はほとんどない。


 席に座り、ノートを開く。

 少しだけ迷ってから、ペンを持った。


 今は、不思議と言葉が出てくる。



⸻



 久瀬理人は、変わらない。

 少なくとも、そう見える。


 講義の空気は、今日も変わらない。



「それは、事実でしょうか?それとも解釈?」



 一言で、すべてが止まる。


 発言は減り、やがて誰も何も言わなくなる。

 間違いは、その瞬間に価値を失う。


 修正も、補足もない。

 ただ、正しさだけが残る。


 その冷たさに、誰も近づこうとはしない。


 ——昨日の研究室とは、まるで別の場所みたいだった。


 同じ人のはずなのに。

 言葉も、態度も、何も変わっていないはずなのに。


 決定的に違う。


 講義が終わっても、誰もすぐには動かない。


 その空気の中で、心春は立ち上がった。


 少しだけ迷って。

 それでも、足を前に出す。


 教室を出て、そのまま研究室へ向かう。


 扉の前で、一度だけ立ち止まる。


 ノックをする。



「どうぞ」



 中から、声がする。

 昨日と同じ、温度。


 ドアを開ける。


 視線が、合う。


 一瞬だけ、間があった。



「……何?」



 短い問い。

 拒絶ではない。

 でも、受け入れているわけでもない。


 心春は、そのまま口を開いた。



「どうして」



 少しだけ、間を置いて。



「講義のときと、違うんですか」



 その問いが落ちた瞬間。

 空気が、わずかに揺れた。


 久瀬は、すぐには答えなかった。


 数秒。


 視線だけが、心春に向けられる。

 測るような、間。



「……君には関係ない」



 短く、切る。

 講義のときと同じ温度。


 それだけで終わるはずだった。


 けれど。



「逆に」



 わずかに間を置いて、続ける。



「どうしてそんなこと聞くの」



 問い返される。


 逃げ場のない、視線。

 心春は一瞬だけ言葉に詰まって。


 それでも、目を逸らさずに——



⸻



 ペンが、止まる。

 未羽はそのまま、ページを見つめていた。


 続けるはずの言葉が、出てこない。

 胸の奥に、引っかかる。


 ——どうしてそんなこと聞くの、か。


 さっき書いたばかりの台詞が、頭の中で反響する。


 その問いに対する答えを、考えようとして。


 ふと。

 別の声が重なる。



『咲倉さんの気持ち、混ざってない?』



 思い出した瞬間、わずかに眉を寄せる。



(……違う)



 これは、小説だ。

 恋愛小説だから、そういう流れになるだけで。


 自分の気持ちなんて、関係ない。


 ——そのはずなのに。


 さっきの問いが、頭から離れない。


 その理由を、考えようとした瞬間。

 胸の奥が、わずかにざわつく。



(……いや)



 すぐに否定する。

 ただの観察だ。

 研究対象として見てるだけ。


 そうやって整理してるだけで——


 ペン先が、止まったまま動かない。

 続きが、書けない。


 代わりに浮かぶ。


 講義のときのあの冷たい声と。

 研究室での、少し砕けた声。



『面白いね、咲倉さん』



 未羽は小さく息を吐いた。



(……ほんと、意味わかんない)



 ノートを閉じようとして、手が止まる。

 視線が、もう一度ページに落ちる。


 書きかけの問い。


 ——どうしてそんなこと聞くの。


 その続きを、埋めないままにしておくのが、妙に落ち着かない。


 未羽は、ゆっくりとペンを動かす。

 考えるより先に、言葉が落ちる。



⸻


「……気になったからです」


⸻



 書いた瞬間、手が止まる。


 数秒。

 そのまま固まる。



(……違う)



 すぐに、消す。

 強めに線を引いて、なかったことにする。


 呼吸が、少しだけ乱れる。

 胸の奥に残る感覚を、押し込めるように息を吐く。



(……ありえない)



 小さく、言い聞かせる。


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 今度は、迷わなかった。

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