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第6講 正当化

「じゃあ今度、続き見せてよ」



 声が落ちる。

 軽い調子。


 でも、逃がす気はない響きだった。


 足が止まる。

 振り返るべきか、一瞬だけ迷う。


 それでも、ゆっくりと振り返った。


 視線が合う。

 ほんの少しだけ、口角が上がっている。


 ——楽しんでる。


 未羽は小さく息を吸った。



「……ほんとに読みたいんですか」



 一ノ瀬の目が、わずかに細くなる。



「それとも」



 視線を逸らさずに続ける。



「ただ、からかってるだけですか」



 一瞬、空気が止まる。


 ほんのわずかな沈黙。



「……へえ」



 低く、笑う。


 一歩、近づく。

 距離が詰まる。



「どっちだと思う?」



 問いのまま返される。


 逃げ道は、ない。


 未羽は一瞬だけ迷って、口を開く。



「……わかりません。だから聞いてます」



 目は逸らさない。

 ちゃんと向ける。


 一ノ瀬は、そのまま少しだけ未羽を見てから。



「じゃあ答えるけど」



 あっさり言った。



「普通に興味あるよ」



 間を置かずに続ける。



「あれ書けるなら、思ってるよりちゃんと見てるし」



 さらっと評価を混ぜる。



「デフォルメしてる部分もあるだろうけど」



 軽く付け足す。



「それ含めて面白い」



 言葉が、落ちる。


 未羽は一瞬、何も言えなかった。



「で?」



 一ノ瀬が、軽く首を傾ける。



「見せてくれないの?」



 選択を渡すようでいて、逃がさない。


 未羽は一度だけ視線を落とす。



「……見せないと、どうなりますか」


「どうもしないよ」



 一ノ瀬は、あっさり答えた。



「ただ、見せてくれたら、ひとつ提案がある」


「……何ですか」


「研究計画の発表、そろそろ準備しないといけないよね」



 思わず顔を上げた。



「仮説も分析方法も、まだ詰めるところがあるでしょ」


「……はい」


「発表までに、一度ちゃんと見直そうか。資料も、質疑応答の練習も付き合うよ」


「……」


「その後、実験を進める段階になっても、必要なことは相談に乗るよ」



 息を呑んだ。


 今の未羽にとって、これ以上ない提案だった。



「……でも、そんな時間取れないですよね?」


「そうだね」


「……じゃあ、」


「連絡先、教えるよ」


「……え?」


「研究のことで聞きたいことがあったら、いつでも何でも聞いていいから」



 未羽は、思わず言葉を失った。


 校内システムやメールで連絡することはできる。

 けれど、それとは別に、個人の連絡先を教えてもらうなんて。



「……そこまでしてくれるんですか?」


「研究、ちゃんと進めたいんでしょ?」



 一ノ瀬は、当然のことのように言った。



「9月の学会も目指すなら、今のうちに詰めておいたほうがいいしね」



 それは、未羽にとって願ってもない提案だった。


 研究のことで迷ったとき、すぐに相談できる。

 発表に向けて、今まで以上に研究を進められるかもしれない。



「……先生、ずるくないですか」



 一ノ瀬は、楽しそうに目を細めた。



「そう?」



 そして、さらりと続ける。



「まぁでもその代わり、小説見せてね」



 ——結局、そこなのだ。


 未羽は、小さく息を吐いた。



「……分かりました。お願いします」



 沈黙。

 ほんの一瞬だけ。


 空気が変わる。



「いいよ、交渉成立ね」



 少しだけ、口角が上がる。


 もう一歩、距離が近づく。



「……やっぱり面白いね、咲倉さん」



 その言い方は、完全に“評価”だった。


 未羽の胸の奥が、わずかにざわつく。

 それが何なのか、まだわからないまま。



⸻



 家に着いてすぐ、未羽はバッグを机の上に置いた。


 ふと、スマホに目を向ける。

 連絡先に追加された、一ノ瀬の名前。



「……なんで、乗っちゃったんだろ」



 研究の相談ができるのは、ありがたい。


 ……ありがたい、けれど。


 未羽はスマホを伏せた。


 疲れているはずなのに、頭の中では今日の出来事が何度も繰り返されていた。



『じゃあ今度、続き見せてよ』



 軽い調子で告げた声。

 こちらの反応を楽しむような、あの表情。


 そして。



『……やっぱり面白いね、咲倉さん』



「……っ」



 未羽は、小さく息を吐いた。



「……なんなの、ほんと」



 雑用を押し付けてきたかと思えば、平然と距離を詰めてくる。


 こっちが困っているのをわかっていて、わざと反応を窺っているように見える。


 そのうえ、小説を読ませてほしいなんて言い出す。



(……ただ、からかわれてるだけ)



 自分に言い聞かせる。


 あの人にとっては、ちょっとした暇つぶしだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 ——なのに。


 思い出すたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。



「……違う」



 未羽は机の上のバッグに手を伸ばした。

 中からノートを取り出し、何気なく開く。


 気づけば、続きを書き始めていた。



⸻



 研究室を出たあとも、心春はしばらく歩き出せなかった。


 講義で聞く、丁寧で隙のない敬語。

 それとはまるで違う、研究室での気安い話し方。



(……同じ人、なんだよね)



 思い返すのは、院生たちに向けられた自然な笑顔。

 いつもより少し低く、気の抜けたような声。


 あんなふうに話す人だったなんて。



(……いや、そもそも)



 どうして、自分はこんなに気にしているんだろう。


 久瀬は、心春の問いに淡々と答えていた。


 けれど、心春の中に残っているのは、話の内容だけではなかった。


 自分の問いを遮らず、考えを押しつけることもなく、必要なことだけを返してくれたこと。


 あの声も。

 あの話し方も。



(……なんで、こんなに覚えてるんだろう)



 考えても、答えは出ない。


 ただ、ひとつだけ。



(……もっと、この人を知りたい)



 その気持ちだけが、いつまでも頭から離れなかった。



⸻



 ——と、書いて、未羽はペンを止めた。


 小さく息を吐く。


 心春が、久瀬を気にする理由。

 もっと、この人を知りたいと思った理由。



「……違う」



 はっきりと言い聞かせる。


 これは小説だ。

 心春の感情であって、自分のものじゃない。


 そもそも。

 一ノ瀬のことなんて、気にしていない。


 ——もっとこの人を知りたい、なんて。



「……ありえない」



 言い切ったはずなのに、胸の奥のざわつきは消えなかった。


 未羽はノートを閉じ、バッグにしまう。


 それでも。



『面白いね、咲倉さん』



 あの声が、また頭の中によみがえった。


 未羽は小さく眉を寄せた。

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