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第5講 自己投影

 研究室の扉の前で、心春は一度だけ立ち止まる。


 ノックをして、中に入る。



「失礼します」


「どうぞ」



 短い返答。

 講義と同じ、温度のない声。


 中に入ると、数人の院生がいた。



「あ、そのデータもう出てる?」


「さっき確認しました」


「ありがと」



 簡潔なやり取り。

 無駄がない。


 けれど、心春はわずかに足を止めた。



(……今の、敬語じゃなかった)



 講義中の久瀬は、学生に対しても丁寧な言葉遣いを崩さない。

 淡々とした口調で正確に言葉を選び、相手の曖昧な発言を容赦なく指摘する。


 それなのに、ここではまるで別人のように自然な口調で話している。


 講義中の張り詰めた空気とは明らかに違っていた。



「で」



 久瀬が視線を向ける。



「……また君か」


「はい」


「座って」



 それだけ言う。

 指示に近い。

 でも、拒絶ではない。


 心春は席に座る。



「それで、今日は何を聞きに来たの?」


「あ……はい。さっきの授業で気になったことがあって」


「うん。何?」


「印象についての話があったと思うんですが、最初に持った印象と、そのあとに得た情報が食い違った場合って……人は、どちらを優先するんでしょうか」


「場合によるね」



 久瀬はあっさり答えた。



「最初の印象を修正することもあるし、最初の印象に合うように、あとから得た情報を解釈することもある」


「……人はそれをどう分けるんですか?」


「何を見て判断したか、じゃない?」



 久瀬は心春の資料に目を落とした。



「例えば、最初に冷たい人だと思った相手が、誰かに親切にしていたとする」


「はい」


「その行動を見て、印象を変えたのか。それとも、たまたまだと解釈したのか。それは一度の行動だけじゃ、判断できないよ」



 久瀬は淡々と続けた。



「その後も同じような行動を取るのか。相手や状況が変わっても同じなのか。そういう情報を集めていく」


「それで、印象を修正したのかがわかるんですか?」


「少なくとも、判断する材料にはなるでしょ」



 久瀬は心春を見た。



「一つの行動だけで、その人が変わったのか、最初からそういう人だったのかなんて、決められないからね」



 表情は変わらない。


 でも。

 わずかに声が柔らかくなった気がした。



「ありがとうございます」


「うん」



 短い返事。


 それだけ。

 それなのに。


 ——講義のときとは、違う。


 もちろん、口調が違うからだろう。

 けれど、それだけではない気がした。


 こちらの問いに、きちんと答えてくれる。

 答えを押しつけるのではなく、自分で考える余地を残してくれる。


 講義では、正しさだけを突きつけてくる人だと思っていた。


 けれど、そうではないのかもしれない。


 心春は、もう一度、久瀬を見た。


 表情は変わらない。

 何も読めない。


 それなのに。



(……もう少し、この人を知りたい)



 そんな考えが、ふと頭をよぎった。



⸻



 ——と、書いて、未羽はペンを止めた。


 小さく息を吐く。


 心春の感じた違和感。

 それが、そのまま自分の中にも残っている。



(……違う)


(これは、小説だ)



 心春が久瀬に興味を持つのは、物語として自然な流れだから。

 冷たいと思っていた相手の、意外な一面を知る。

 そのギャップに惹かれる。


 そういう展開は、別に珍しくない。


 これはただの創作だ。

 現実とは関係ない。


 ——一ノ瀬とは、何の関係もない。



(……違う)



 未羽は、ペンを握り直した。


 あれは、ただの観察だ。

 小説を書くために、相手の言動を見ているだけ。


 そう自分に言い聞かせて、未羽は視線をノートに戻した。


 でも。


 ——もう少し、この人を知りたい。


 その言葉は、消さなかった。



⸻



 院生向けの授業は、学部の講義とは異なる。


 少人数の教室。

 円形に近い配置。

 学生同士のディスカッションが中心になる。


 一ノ瀬は、基本的に口を挟まない。

 ただ、聞いている。

 ただ、場の流れを把握している。


 それでも。


 ——見られている。


 そう思わせる圧がある。


 議論が一通り終わると、一ノ瀬が口を開いた。



「じゃあまとめるね」



 声は落ち着いている。



「今の議論、方向性は悪くない」



 まず、肯定。



「ただ、前提の整理が甘い」



 すぐに切り込む。



「とくにここ。第一印象が評価に影響することと、その影響がどの程度残るかは、分けて考えたほうがいい」



 資料を指で示す。



「今の議論だと、評価が変わらなかった理由を、全部第一印象の影響で説明しようとしてる」



 淡々と指摘する。

 感情は乗らない。


 でも、逃げ場はない。



「ほかの可能性も考えないと、結論を先に決めてるのと変わらないよ」



 核心を突く。


 教室が静まる。

 学部の講義ほどではない。


 けれど。


 ——やっぱり、この人だ。


 未羽はそう思った。



⸻



 授業が終わる。


 片付けをしながら、早く帰ろうとしたとき。



「咲倉さん」



 呼ばれる。


 反射的に足が止まる。



(……またか)



「少し残れる?」



 やわらかい言い方。


 でも、断れない。



「……はい」



⸻



「さっきのディスカッション」


「よかったよ」



 一瞬、言葉の意味が入ってこない。



「前提、ちゃんと見えてた」



 淡々とした評価。


 でも。

 ちゃんと見ていたことがわかる。



「……ありがとうございます」



 少し遅れて返す。


 いつものように、何か頼まれるのかと思っていた。

 資料の整理か、それとも別の雑用か。


 けれど、一ノ瀬はそれ以上何も言わなかった。



(……本当に、褒めただけ?)



 そう思うと、張っていた気が少しだけ緩む。


 なんだ。

 今日はこれで終わりらしい。


 そう、思ったのに。



「——あ、あと」



 続く。



「これ運ぶの手伝って」



 やっぱり、そうなる。



⸻



 研究室。


 資料を机に置いて、ようやく一息つく。



「そこ置いといて」


「はい」



 それで終わり。


 ——のはずなのに。



「そういえばさ」



 声が落ちる。



「例のアレ、進んでる?」



 心臓が跳ねる。


 顔を上げると。

 一ノ瀬が、明らかに楽しんでいる顔をしていた。


 ——わかってて聞いてる。


 さっきまで書いていた内容が、頭をよぎる。


 心春の、あの違和感。

 久瀬に対して、少しだけ惹かれていく感覚。



(……違う)



 これは、ただの小説。

 現実とは関係ない。



「……先生とは関係ありません」



 少しだけ強く、言い切る。


 一瞬、沈黙。

 そのあと。



「何が?」


「……っ」


「何のこと聞いたと思ったの?」



 くす、と笑う。



「で、小説はどこまで進んだの?」


「……答える必要、ありますか?」


「ないよ」



 あっさり返されて、拍子抜けする。



「ただ、気になるだけ」


「何がですか」


「俺がどう書かれてるのか」



 さらりと言われて、言葉に詰まった。


 一ノ瀬は、そんな未羽の反応を見て、わずかに目を細める。



「講義のときの俺とか、研究室での俺とか」


「……」


「書き分けてる?」


「……それは」


「へえ。書いてるんだ」


「そういう意味じゃ……!」


「じゃあ、どういう意味?」



 楽しそうに首を傾げる。


 答えられない。

 何を言っても、余計なことまで認めてしまいそうだった。



「……ただの創作です」


「うん。そうなんだろうね」



 一ノ瀬はあっさり頷いた。


 その素直な反応に、かえって戸惑う。



「でもさ」



 彼は、机に置かれた資料に目を落としたまま続けた。



「俺の口調とか、言い回しとか。結構細かいところまで拾ってるじゃん」



 心臓が跳ねた。



「……っ」



 顔を上げると、一ノ瀬はまた、あの楽しそうな顔をしていた。



「よく見てるんだなって思って」


「……観察しているだけです」


「うん。だから、それが面白いんだって」



 悪びれもせずに言う。



「俺、どう見えてるのかなって」



 少しだけ、声が柔らかくなった。



「……別に、変なことは書いてません」


「それは読んでみないとわからないな」


「見せません」


「頼んでないけど」


「……っ」



 一ノ瀬が笑う。


 完全に、遊ばれている。


 未羽は何も言えなかった。

 ただ、視線を逸らせないまま立ち尽くす。



「じゃあ今度、続き見せてよ」



 断る隙を与えないような、軽い口調だった。

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