第4講 印象形成
「咲倉さん」
講義後。
呼び止められて、未羽は足を止めた。
「今日、残れるよね」
確認じゃない。
決定事項だった。
「……はい」
未羽は小さく頷く。
断れるはずがない。
⸻
研究室に入ると、一ノ瀬は自分の机に資料を置いた。
「これ」
差し出された紙束を、未羽は反射的に受け取る。
「まとめて」
「……はい?」
思わず聞き返してしまった。
一ノ瀬は不思議そうに首を傾げる。
「ん?」
「いえ……」
資料に目を落とす。
講義で使ったリアペの集計資料らしい。
見覚えのある形式だし、仕事そのものはいつもと変わらない。
(じゃあ、あの話は……)
“少し付き合ってもらう”
そう言ったときの一ノ瀬の顔を思い出す。
「咲倉さん?」
「っ、はい」
「聞いてる?」
「聞いてます」
「そ。じゃ、よろしく」
あっさりと話を切り上げ、一ノ瀬は自分の席に戻っていった。
……何もない、のだろうか。
いや、そんなはずはない。
何かあるに決まっている。
未羽は資料を揃え直し、ひとまず作業に取りかかろうとした。
「あ。あと、これも」
顔を上げると、今度は別の資料が差し出されていた。
「……これも、ですか?」
「うん。ゼミで使うやつ。発表順に並べといて」
「……分かりました」
さらに、机の端からファイルがひとつ滑ってくる。
「それ終わったら、こっちもお願い」
「……一ノ瀬先生」
「ん?」
「……多くないですか」
「あー、そうかも」
悪びれる様子もなく、一ノ瀬は答えた。
「助かるよ」
そう言って、軽く笑う。
(付き合ってもらうって)
(……こういうことか)
未羽は口をつぐみ、資料を抱え直した。
⸻
どれくらい時間が経ったのか。
資料を仕分け、部数を確認する作業を繰り返すうちに、少しずつ思考が鈍くなっていく。
「まだいける?」
すぐ横から、声。
気づいたときには、隣に立っていた。
「……はい」
反射で答えてしまう。
「そっか」
短く返される。
そのまま、机の上の資料に目を落とした。
「これ」
一ノ瀬が一枚、紙を抜き取る。
「こっちじゃなくて、こっちの束」
「……え?」
「次回分。日付、違うでしょ」
指先が、資料の隅を示す。
確認すると、確かに日付が違っていた。
「……すみません」
「いや、別に。間違えやすいし」
そう言いながら、彼は資料を正しい束に戻した。
「ただ、最後にもう一回確認してね」
「……はい」
未羽が資料に目を落として、作業に戻る。
……だが、一ノ瀬はそのまま隣に立ったままだった。
「……あの」
思わず声が出る。
「なに」
すぐ返ってくる。
「いえ……」
一度は引きかけて、止まる。
このまま何も言わないのも、違う気がした。
「……近いです」
小さく、でもはっきり言う。
一瞬。
沈黙。
やってしまった、と思い、恐る恐る顔を上げようとした。
けれど。
「そう?」
返ってきたのは、軽い声だった。
「集中できない?」
少しだけ、楽しそうに続ける。
「……できます」
反射的に言い返す。
言った瞬間、少しだけ後悔する。
「へえ」
短く落ちる声。
次の瞬間。
ほんのわずかに、距離が縮まる。
「じゃあ、このままでいいよね」
逃げ場がない。
未羽は、資料から目を逸らせない。
視線を上げたら、何かが変わる気がして。
「……はい」
小さく答えるしかなかった。
「素直だね」
ぽつりと落ちる一言。
それが、からかいなのかどうかもわからない。
ただ。
完全に、主導権は握られている。
「今日中に終わる?」
振り返りもせずに聞かれる。
「……終わらせます」
「うん」
満足そうな、短い返事。
「じゃあ、終わるまで付き合って」
⸻
気づけば、外は暗くなっていた。
画面の端に表示された時間を見て、未羽は小さく息を吐く。
「……終わりました」
声に出すと、思ったよりも掠れていた。
「ん」
一ノ瀬は軽く顔を上げる。
「見せて」
椅子を引いて、隣に座る。
また、近い。
けれど、さっきほど動揺はしなかった。
少しだけ、慣れてしまっている。
視線が画面をなぞる。
無言の時間。
評価を待つ感覚に、無意識に呼吸が浅くなる。
「……いいじゃん」
ぽつりと落ちる。
それだけ。
それだけなのに。
「ちゃんと整理できてる」
続けて、もう一言。
胸の奥が、わずかに軽くなる。
「……ありがとうございます」
「うん」
短く返して、視線を外す。
「助かった」
その言い方は、少しだけ柔らかい。
講義では絶対に聞けない声。
未羽は軽く会釈をして、少し距離を取った。
「……そんなに警戒しなくても、何もしないよ」
「……警戒してません」
「そう?」
「……はい」
「そっか」
そう言いながら、一ノ瀬は笑っていた。
絶対に、信じていない。
それで終わりかと思った。
けれど。
「で」
続く。
「自分のは進んでる?」
「……え?」
「研究。仮説、まだ詰めてる段階だっけ」
覚えられていたことに、少し驚く。
「……はい。条件の整理がうまくいかなくて」
「ああ。ちょっと見せて」
隣の椅子に腰を下ろし、差し出された資料に目を通す。
「これ、前提が二つ混ざってる」
そう言って、一ノ瀬は資料を指差す。
「分けて考えればいいよ」
「……あ」
言われてみれば、その通りだった。
「……ありがとうございます」
「いいよ」
一ノ瀬は資料を返す。
「咲倉さんなら、もっといけるでしょ」
何でもないことのように言われた。
けれど。
——ちゃんと、見られている。
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに熱くなる。
「……帰っていいよ」
不意に言われる。
「今日は付き合ってくれてありがと」
その言葉は、思いのほか素直だった。
未羽は目を瞬かせた。
……少し意外だった。
未羽は立ち上がる。
「……お疲れ様でした」
研究室を出る直前。
「あ」
呼び止められる。
「明日も頼むね」
振り返ると、少しだけ口角が上がっていた。
断れるはずがない。




