↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/13

第4講 印象形成

「咲倉さん」



 講義後。


 呼び止められて、未羽は足を止めた。



「今日、残れるよね」



 確認じゃない。

 決定事項だった。



「……はい」



 未羽は小さく頷く。

 断れるはずがない。



⸻



 研究室に入ると、一ノ瀬は自分の机に資料を置いた。



「これ」



 差し出された紙束を、未羽は反射的に受け取る。



「まとめて」


「……はい?」



 思わず聞き返してしまった。


 一ノ瀬は不思議そうに首を傾げる。



「ん?」


「いえ……」



 資料に目を落とす。

 講義で使ったリアペの集計資料らしい。

 見覚えのある形式だし、仕事そのものはいつもと変わらない。



(じゃあ、あの話は……)



 “少し付き合ってもらう”


 そう言ったときの一ノ瀬の顔を思い出す。



「咲倉さん?」


「っ、はい」


「聞いてる?」


「聞いてます」


「そ。じゃ、よろしく」



 あっさりと話を切り上げ、一ノ瀬は自分の席に戻っていった。


 ……何もない、のだろうか。


 いや、そんなはずはない。

 何かあるに決まっている。


 未羽は資料を揃え直し、ひとまず作業に取りかかろうとした。



「あ。あと、これも」



 顔を上げると、今度は別の資料が差し出されていた。



「……これも、ですか?」


「うん。ゼミで使うやつ。発表順に並べといて」


「……分かりました」



 さらに、机の端からファイルがひとつ滑ってくる。



「それ終わったら、こっちもお願い」


「……一ノ瀬先生」


「ん?」


「……多くないですか」


「あー、そうかも」



 悪びれる様子もなく、一ノ瀬は答えた。



「助かるよ」



 そう言って、軽く笑う。



(付き合ってもらうって)


(……こういうことか)



 未羽は口をつぐみ、資料を抱え直した。



⸻



 どれくらい時間が経ったのか。


 資料を仕分け、部数を確認する作業を繰り返すうちに、少しずつ思考が鈍くなっていく。



「まだいける?」



 すぐ横から、声。


 気づいたときには、隣に立っていた。



「……はい」



 反射で答えてしまう。



「そっか」



 短く返される。


 そのまま、机の上の資料に目を落とした。



「これ」



 一ノ瀬が一枚、紙を抜き取る。



「こっちじゃなくて、こっちの束」


「……え?」


「次回分。日付、違うでしょ」



 指先が、資料の隅を示す。


 確認すると、確かに日付が違っていた。



「……すみません」


「いや、別に。間違えやすいし」



 そう言いながら、彼は資料を正しい束に戻した。



「ただ、最後にもう一回確認してね」


「……はい」



 未羽が資料に目を落として、作業に戻る。


 ……だが、一ノ瀬はそのまま隣に立ったままだった。



「……あの」



 思わず声が出る。



「なに」



 すぐ返ってくる。



「いえ……」



 一度は引きかけて、止まる。


 このまま何も言わないのも、違う気がした。



「……近いです」



 小さく、でもはっきり言う。


 一瞬。

 沈黙。


 やってしまった、と思い、恐る恐る顔を上げようとした。


 けれど。



「そう?」



 返ってきたのは、軽い声だった。



「集中できない?」



 少しだけ、楽しそうに続ける。



「……できます」



 反射的に言い返す。


 言った瞬間、少しだけ後悔する。



「へえ」



 短く落ちる声。


 次の瞬間。

 ほんのわずかに、距離が縮まる。



「じゃあ、このままでいいよね」



 逃げ場がない。


 未羽は、資料から目を逸らせない。

 視線を上げたら、何かが変わる気がして。



「……はい」



 小さく答えるしかなかった。



「素直だね」



 ぽつりと落ちる一言。


 それが、からかいなのかどうかもわからない。


 ただ。

 完全に、主導権は握られている。



「今日中に終わる?」



 振り返りもせずに聞かれる。



「……終わらせます」


「うん」



 満足そうな、短い返事。



「じゃあ、終わるまで付き合って」



⸻



 気づけば、外は暗くなっていた。


 画面の端に表示された時間を見て、未羽は小さく息を吐く。



「……終わりました」



 声に出すと、思ったよりも掠れていた。



「ん」



 一ノ瀬は軽く顔を上げる。



「見せて」



 椅子を引いて、隣に座る。


 また、近い。

 けれど、さっきほど動揺はしなかった。


 少しだけ、慣れてしまっている。


 視線が画面をなぞる。

 無言の時間。


 評価を待つ感覚に、無意識に呼吸が浅くなる。



「……いいじゃん」



 ぽつりと落ちる。


 それだけ。

 それだけなのに。



「ちゃんと整理できてる」



 続けて、もう一言。


 胸の奥が、わずかに軽くなる。



「……ありがとうございます」


「うん」



 短く返して、視線を外す。



「助かった」



 その言い方は、少しだけ柔らかい。

 講義では絶対に聞けない声。


 未羽は軽く会釈をして、少し距離を取った。



「……そんなに警戒しなくても、何もしないよ」


「……警戒してません」


「そう?」


「……はい」


「そっか」



 そう言いながら、一ノ瀬は笑っていた。

 絶対に、信じていない。


 それで終わりかと思った。

 けれど。



「で」



 続く。



「自分のは進んでる?」


「……え?」


「研究。仮説、まだ詰めてる段階だっけ」



 覚えられていたことに、少し驚く。



「……はい。条件の整理がうまくいかなくて」


「ああ。ちょっと見せて」



 隣の椅子に腰を下ろし、差し出された資料に目を通す。



「これ、前提が二つ混ざってる」



 そう言って、一ノ瀬は資料を指差す。



「分けて考えればいいよ」


「……あ」



 言われてみれば、その通りだった。



「……ありがとうございます」


「いいよ」



 一ノ瀬は資料を返す。



「咲倉さんなら、もっといけるでしょ」



 何でもないことのように言われた。


 けれど。


 ——ちゃんと、見られている。


 そう思った瞬間、胸の奥がわずかに熱くなる。



「……帰っていいよ」



 不意に言われる。



「今日は付き合ってくれてありがと」



 その言葉は、思いのほか素直だった。


 未羽は目を瞬かせた。

 ……少し意外だった。


 未羽は立ち上がる。



「……お疲れ様でした」



 研究室を出る直前。



「あ」



 呼び止められる。



「明日も頼むね」



 振り返ると、少しだけ口角が上がっていた。


 断れるはずがない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。