第3講 露見
「それは、事実?それとも解釈?」
空気が止まる。
未羽は、わずかに眉を寄せた。
昨日と、同じ言葉。
同じはずなのに。
どこか違う。
切り捨てているわけじゃない気がする。
そう見える。
——なのに。
どうして、あんなふうに書いたのか。
講義は、そのまま何事もなかったかのように進む。
誰も余計なことは言わない。
静かに、時間だけが過ぎていく。
終わりの合図が出ても、すぐに立ち上がる者はいなかった。
未羽はパソコンを片づけ、資料を鞄にしまう。
「咲倉さん」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げた。
「はい」
「悪いんだけど、これ運ぶの手伝ってもらっていい?」
一ノ瀬先生の手には、講義で使った資料が何冊も重なっていた。
「あ、はい。大丈夫です」
「ありがと」
差し出された資料を受け取ろうとすると、一ノ瀬先生は一度こちらを見てから、持っていた束を少し引っ込めた。
「あ。やっぱこっち」
そう言って、別の束を渡してくる。
「こっちのが軽いから」
「……ありがとうございます」
短いやり取り。
それだけなのに、少しだけ距離が近い気がした。
並んで教室を出る。
廊下は、いつも通りの雑音で満ちているのに。
なぜか、意識がそこに向かない。
隣にいる人の存在だけが、やけに大きい。
⸻
研究室の前で足を止める。
一ノ瀬がドアを開けると、中は静かだった。
誰もいない。
「あれ、みんないないんだ」
独り言のように言う。
「……みたいですね」
未羽は小さく返した。
そのまま中に入り、資料を机に置く。
「ありがとう」
「いえ」
それだけで、やり取りは終わる。
未羽は、自分の席に戻った。
帰る支度をする。
鞄の中で、資料がかさばっている。
端が折れかけているのが見えて、未羽は小さく息をついた。
(……一旦、まとめとこ)
机の上に一度出して、軽く揃える。
ばらついていた数枚を整えて、ノートの間に挟み直す。
今度こそ崩れないように、少しだけ力を入れて押さえた。
——大丈夫。
そう思って、持ち上げた、その瞬間。
間に挟んでいた数枚の紙が、するりと抜けた。
「あ」
反応するより先に、落ちる。
ぱら、と軽い音。
床に、数枚の資料が散らばった。
その際、資料の間に挟まれていたノートも、一緒に滑り落ちる。
そのまま。
静かに、床をすべっていく。
未羽は気づかない。
そのまましゃがみ込む。
視線は、散らばった紙に向いたまま。
順番も何も考えず、とにかく拾い集める。
ノートは、そのまま一直線に進み。
一ノ瀬の足元で、軽く靴に当たって止まった。
一ノ瀬は、それに気づく。
一瞬だけ、動きが止まる。
未羽はまだ、気づいていない。
しゃがんだまま、資料を集めている。
足元のノートに、視線を落とす。
表紙には、簡単な文字。
——“研究メモ”
院生なら、珍しくもない。
何気なく手に取り、表紙を開く。
軽くページをめくる。
——その瞬間。
わずかに、視線が止まった。
数秒。
静かな沈黙。
そして。
ページを閉じる。
何もなかったかのように。
「これ、咲倉さんの?」
名前を呼ばれて、未羽は顔を上げた。
差し出されたノートを見た瞬間、思考が止まる。
——それは。
未羽が書いていた、小説だった。
「あ……」
声が、出ない。
研究室には、他に誰もいない。
静かすぎる。
逃げ場がない。
一ノ瀬は何も言わない。
ノートに視線を落としたまま、数秒。
沈黙。
やがて。
「……これさ」
少しだけ低い声。
未羽は反射的に顔を上げた。
「俺だよね?」
断定だった。
疑いは、一切ない。
「……っ、あの」
言葉が続かない。
一ノ瀬は、わずかに首を傾げる。
そして。
ほんの少しだけ、口角が上がった。
「バレないと思った?」
軽い。
なのに、逃げられない。
同じ人のはずなのに、まるで知らない誰かみたいだ。
「……別にいいけど」
あっさりと、続ける。
「面白いし」
ノートを軽く揺らす。
「講義のとこ、そのままだよね」
未羽の顔に、一気に熱が集まる。
——見られてる。
全部。
「いや、あの、それは、違くて……!」
思わず声が上ずる。
「違うって、何が?」
静かな問い。
なのに、逃げ場がない。
「モデルとかじゃなくて……」
「ふーん」
興味なさそうに相槌を打ちながら、視線は外れない。
「じゃあ何。たまたま?」
言い切る前に、わかっている声。
否定できない。
でも、認めるのも無理だ。
「……まあ、いいけど」
あっさりと手放すように言う。
その軽さが、逆に怖い。
「これ」
ひら、とノートを持ち上げる。
「他の人に見られたくないでしょ」
呼吸が止まる。
無理だ。
それだけは、絶対に。
「……っ」
声にならない。
「安心して」
すぐに続く。
「言わないよ、別に」
軽い言い方。
なのに、逃げられない。
「その代わり」
少しだけ、口角が上がる。
「少し付き合ってもらうけど」
「……え?」
思わず、声が漏れた。
(付き合う?)
(何に?)
まさか、小説のことを問い詰められるんだろうか。
それとも、もっと別の何かを要求されるのか。
考えたところで、答えなんて出るはずもない。
「……それって、どういう」
「ん?」
一ノ瀬が首を傾げる。
「何か問題ある?」
「い、いえ……」
ある。ものすごくある。
けれど、何があるのかと聞かれたら、うまく説明できない。
「じゃあ、よろしく」
あっさりと話を終わらせられた。
一ノ瀬は、何事もなかったかのように視線を戻す。
それで終わり。
——そのはずなのに。
未羽の中では、何も終わっていなかった。
むしろ、始まってしまった気がした。
⸻
さっきの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
あの口調。
あの距離。
——あんな人だっただろうか。
講義でも。
研究室でも。
一度も見たことがない。
未羽はノートを開いた。
書きかけの一文が、目に入る。
久瀬理人は、感情を持たない。
——とは、言い切れない。
ペンを持つ。
けれど、さっきまでよりもずっと書きにくい。
理由は、わかっている。
観察していたはずの相手に、逆に、見られてしまったからだ。
未羽は、小さく息を吐いた。
(最悪だ)
そう思いながら。
逃げられなくなったことだけは、はっきりと理解していた。




