第2講 解釈
「それは、事実でしょうか?それとも解釈?」
指名された学生が言葉に詰まる。
「……解釈、です」
「はい。では、事実として言えることは?」
沈黙。
そこで、会話は終わる。
訂正ではない。
議論でもない。
ただ、結論だけが残る。
そこに至るまでの過程も、そこから先に続くはずだった言葉も、すべて必要ないものとして切り捨てられる。
久瀬理人は、そういう人間だった。
誰かの意見を否定したいわけではない。
ただ、事実と解釈を混同したまま、結論を出すことを許さない。
根拠のない判断は、判断として成立しない。
それだけのことだ。
だから彼は、結論だけを告げる。
どこが違うのか、どう考え直せばいいのか。
そこまで説明する必要はないと、考えている。
ただ、正しさだけを残して、それ以外を排除する。
その判断に、感情が入り込む余地はない。
——少なくとも、そう見える。
教室の空気は、常に静まり返っていた。
発言は減り、やがて誰も何も言わなくなる。
言葉は、間違えた瞬間に価値を失うからだ。
それでも構わないと、彼は思っている。
正しさだけが残れば、それでいい。
人の反応は、考慮に値しない。
——そういう前提で、この場は成り立っている。
⸻
講義が終わる。
誰も、すぐには立ち上がらない。
ノートを閉じる音だけが、控えめに重なる。
発言することも、間違うことも、すべてが無駄になる場所で、積極的に動こうとする者はいない。
その中で、ひとりだけ。
席を立つ音がした。
朝比奈 心春だった。
迷いのない足取りで、前に出る。
久瀬の机の前まで来て、足を止める。
「先生」
呼びかけは、軽い。
場違いなほどに。
「さっきの」
久瀬は顔を上げる。
「何が違うんですか?」
問いは、単純だった。
訂正を求めるでもなく、理解を装うでもない。
ただ、そのまま。
久瀬は、数秒だけ沈黙する。
その間にも、教室の空気は張り詰めたままだ。
誰もが、息を潜めている。
——この場で、その質問をするのか。
そう思っているのが、伝わってくる。
けれど。
彼女は気にしていない。
ただ、答えを待っている。
久瀬は、ゆっくりと口を開いた。
「前提が違います」
それだけ言う。
「何の前提ですか?」
間を置かずに、問いが重なる。
普通なら、ここで終わるはずのやり取りが、続いている。
久瀬は、わずかに視線を落とした。
——訂正する価値があると、判断したのか。
「あの解釈は、結論から逆算しています」
短く説明する。
「だから成立しません」
それだけ。
けれど。
彼女は、少しだけ考えてから、
「……ああ、そっか」
納得したように頷いた。
その反応を見て、久瀬はそれ以上言葉を足さない。
十分だと判断したように、視線を外す。
それで、やり取りは終わる。
——はずだった。
「ありがとうございます」
軽くそう言って、彼女は踵を返す。
その背中を、久瀬は追わない。
ただ一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、視線が残ったようにも見えた。
⸻
——そこまで書いて、未羽はペンを止めた。
このまま書き続けるのは、少しだけ怖いと思った。
(現実よりも、冷たくなっている気がする)
未羽は、ペンを置いた。
考えがまとまらないまま、ノートを閉じる。
そのまま、研究室へ向かった。
⸻
ドアを開けると、数人の院生がすでに集まっていた。
「そのデータ、昨日のやつ?」
「はい、修正しておきました」
「ありがとう、あとで確認する」
短いやり取り。
けれど、やはり講義のときとは空気が違う。
言葉は簡潔なのに、途切れない。
未羽は自分の席に向かい、資料を広げた。
先日から進めている分析だった。
結果の傾向は見えている。けれど、そこから導ける解釈が、どうにも定まらない。
数値だけを見れば、ひとつの結論にたどり着く。
けれど、それが本当に自分の考えていることを示しているのか。
何度読み返しても、確信が持てなかった。
未羽は資料に目を落としたまま、しばらく考え込む。
(……自分だけで考えていても、埒が明かない)
ふと、顔を上げた。
一ノ瀬は少し離れた席で、別の院生の資料を確認している。
未羽は手元の資料をまとめ、立ち上がった。
「……先生」
声をかけると、一ノ瀬は視線だけを向けた。
「ちょっと、いいですか」
「うん」
短い返事。
未羽は机の前まで歩いた。
「この部分なんですけど」
資料を差し出しながら、未羽は説明する。
「結果としては、こっちの解釈になると思うんです。でも、それだけだと、別の要因を拾ってる可能性もある気がして」
一ノ瀬は資料に視線を落とした。
「うん。今のデータだけだと、そこは区別できないね」
「やっぱり、そうですよね……」
「何を明らかにしたいのか、もう一回整理してみたら? その仮説を支持する結果と、別の要因でも説明できる結果を、分けて考えた方がいいかも」
未羽は資料に目を落とした。
「……ああ、なるほど」
自分がどこで行き詰まっていたのか、ようやく見えてきた気がした。
結論を急ぐあまり、それを別の可能性と比較する視点が抜けていたのだ。
「ありがとうございます。もう一度、整理してみます」
「うん。やってみて」
一ノ瀬はそれ以上、何も言わなかった。
それでも、未羽には十分だった。
——けれど。
未羽は、ほんのわずかに眉を寄せた。
今のやり取り。
どこかで、見た気がする。
同じ言葉。
同じ流れ。
それなのに。
さっき書いていたものとは、まるで違う。
あっちは、切り捨てるだけだった。
でも、今は。
必要な分だけ、残している。
——さっきの“終わり”とは、全然違う。
未羽は席に戻りながら、ぼんやりと考える。
(……この人は)
(何も言わないんじゃない)
(必要なことしか、言わないだけだ)
そして。
必要だと判断すれば、ちゃんと残す。
——それは、本当に。
感情がない人間のやり方なんだろうか。




