第1講 観察対象
「それは、事実?それとも解釈?」
少し低い声が響く。
それだけで、教室の空気が止まった。
声を荒げたわけではない。
ただ、修正の余地がない響きだった。
指名された学生が言葉に詰まる。
「……解釈、です」
「うん。じゃあ、事実として言えることは?」
沈黙が落ちる。
一ノ瀬 直は何も言わない。助けもしない。
心理学の教授。
まだ二十代で、海外の大学から飛び級でここまで来たらしい。
詳しい経歴を知っているわけじゃない。
でも、そういう“例外”であることだけは、誰でも知っている。
背が高く、無駄のない立ち姿。
視線は静かで、感情の揺れが見えない。
それだけで、空気が整えられる。
ただ、答えを待っている。
その時間が、やけに長く感じられた。
誰も視線を上げない。
ノートに目を落としたまま、ページだけがめくられていく。
——間違っている、という事実だけが、その場に残る。
「主観だね」
ようやく落ちた言葉は、それだけだった。
否定というより、分類。
だからこそ、反論の余地がない。
その一言で、すべてが終わる。
怒っているわけではない。
声も、表情も、変わらない。
それなのに。
——間違えることが、許されていない。
息をするタイミングすら、慎重に選ばなければいけないような空気。
視線を上げることもできずに、未羽はただパソコンの画面を見つめた。
TAとしての作業を進めなければならない。そう思って文字を追うものの、内容はひとつも頭に入ってこない。
ただひとつだけ、はっきりしていることがあった。
——怖い。
そう思った瞬間、理由はわからないのに、少しだけ納得してしまった。
この人は。
きっと、揺らがない。
⸻
講義が終わっても、教室の空気はすぐには戻らなかった。
小さく息を吐く音や、椅子を引く音が、ようやく現実を取り戻していく。
未羽はPCを閉じて、ゆっくりと立ち上がった。
まだTAの業務が残っている
足は自然と、研究室へ向かっていた。
⸻
扉をノックすると、すぐに中から声がした。
「どうぞ」
さっきと同じ声のはずなのに、響きが違う。
ドアを開けると、数人の院生がすでに集まっていた。
「あ、そのデータもうまとめた?」
「さっき終わりました。共有フォルダに入れてます」
「お、早いね。ありがと。あとで見る」
短いやり取り。
講義のときとは、明らかに違う。
さっきまで、あれほど張り詰めた空気を作っていた人とは思えない。
「ここ、こういう解釈ができると思うんですけど」
別の院生が資料を指しながら言う。
「あー、なるほど。そっちもありだね」
一ノ瀬は資料を覗き込み、軽く頷いた。
「ただ、これって相手の行動そのものを評価してるのか、それとも行動から推測した性格を評価してるのか、分けたほうがいいかも。そこが混ざると、何を測ってるのか分からなくなるから」
「……確かに。項目を分けてみます」
「うん。そのほうが結果も解釈しやすいと思う」
否定ではなく、補足。
言葉が、ちゃんと“続いている”。
——さっきの講義では、一度もなかったやり取りだった。
同じ人のはずなのに。
ここでは、間違いが“切り捨てられない”
修正されて、繋がっていく。
その違いに、未羽は小さく息を詰めた。
「咲倉さん」
名前を呼ばれて、未羽は顔を上げた。
「さっきの講義のリアペ、データでまとめてもらえる?」
「……はい」
「助かる」
それだけ言って、一ノ瀬は視線を外す。
未羽は、一ノ瀬が担当する学部生向けの講義『認知心理学』で、TAを務めていた。
授業の補助や、リアペ(リアクションペーパー)の整理が主な仕事だ。
会話は、それで終わる。
同じ声。
同じ言葉。
それなのに。
(……まるで、別の人間みたいだ)
どっちが、本当なのか。
切り捨てるように正しさだけを残すあの人か。
それとも、こうして言葉を繋いでいく、この人か。
(……同じ人間には、見えない)
そう思ったとき、未羽は気づく。
目が、離せない。
理解したいわけじゃない。
ただ、確かめたい。
(……そうだ)
⸻
帰宅後。
未羽は本棚から真新しいノートを取り出す。
開いた最初のページに、文章を書き出す。
——久瀬理人は、感情を持たない。
(……本当に、そうだろうか)
ペンを持つ。
少しだけ迷ってから、ゆっくりと書き足した。
——とは、言い切れない。
その一文だけが、静かに残った。




