第3話「……そんなわけないだろ」
「全然違うよ」
音響監督のイライラした声がマスタールームに小さく、しかし確かな質量を持って響く。
「アヤメは表面上は元気っ子だけど、ただ明るく送り出すんじゃない。その奥に、確かな『お姉ちゃんへの信頼』がある。そこを出して。もっと湿度を高めて」
それを追いかけるように、ペン先がトントントントンと台本を連打する音。
『は、はい……!』
ブースの中、緊張と焦りで浅くなる呼吸が、スピーカーを通してこちらにも聞こえてきた。
『す、すみません……! もう一度お願いします……!』
山田穂波がこちらを振り返り、窓の向こうから深々と頭を下げる。
これでもう13回目のリテイクだ。
音響監督はマイクをオフにして、一度大きな溜息をつくと。
「……じゃあ、最後にもう1回だけね」
と、穂波に伝えた。
「はい……ありがとうございます……!」
穂波は無邪気だし天真爛漫だ。しかし、能天気でも鈍感でもない。
この『最後にもう1回』は本当に最後なのだと、きっと彼女には分かっていた。
……それがよくなかったのだろう。
『負けないで、お姉ちゃん。お姉ちゃんは天才なんだから!』
噛んだわけではない。
声がひっくり返ったわけでもない。
声が枯れてるわけでもない。
ただただ、音響監督の考えるキャラクターに穂波の芝居はマッチしなかった。
声優に求められるスキルは、作り込んできた演技を披露することだけではない。
むしろ、その場のディレクションに合わせて柔軟に役への解釈を変え、それを表現することにこそ、その資質が問われるという。
穂波は理解しようとして、解釈しようとして、その土台を固めすぎた。
もう、誰かの言葉で簡単に動かせないくらいに。
「……もういいよ。山田さんにはまだ早かったね」
『……!』
音響監督は、落ち着いた声で、穂波にそう言うと、マスタールーム、俺の隣に座っているプロデューサーに振り返り、
「別の子でいきましょう。この間の候補から誰か手配をお願いします」
と通告した。
「そんな……!」
がた、と立ち上がりかけた俺をプロデューサーは手で制する。
「分かりました、すぐに代役を手配します」
「でも……!」
『ごめんなさい。ありがとう、ございました……! 失礼いたします』
ブースの向こうでは、穂波が深々と頭を下げていた。
「……少し落ち着きました」
自販機で買ってやったホットのほうじ茶をすすって、穂波は微笑みを浮かべてみせる。
スタジオをあとにした俺たちは、例の暗がりの公園のベンチに座っていた。
あのカップルだらけのベンチの一つに仮にも男女で座っていて、しかも女性が泣いているというこの状況は周りから見るとどうなんだ? という思いもよぎらないではなかったが、かといって穂波はとても放っておけるような状況ではなかった。
「ご迷惑をおかけしてしまってごめんなさい」
「いや、大丈夫」
どうにか堪えていたらしい穂波の涙腺は、スタジオの初見殺しの外階段を降りた瞬間に決壊した。
うずくまり泣き出した穂波を抱えるように支えて歩きながら、こうなってしまうのも無理はないと思っていた。
穂波はこれ以上ないほど努力をしていた。これまでだって、きっとそうだったんだろう。
頑張りすぎて喉を壊したとかなら、まだいい。
万全の体調で、出来ることを全部やって、まだ夢の第一歩にも届かない。
その事実があまりにも冷酷だった。
努力の方向が間違ってるということもあるだろう。
だけど、それも含めて……。
「わたし、もっと頑張らないとですね。まだまだ努力が足りなかったみたいです」
「そうじゃない」
その自嘲的な笑みをどうにかしたくて、穂波の口からこぼれた言葉を、俺は反射的に否定した。
「そうじゃないんだ、穂波。努力が足りないんじゃなくて……」
しかし。
——その先に続く言葉はもっと残酷なものだ、と気がついて口をつぐむ。
「分かってますよ?」
そんな俺の愚にも付かない配慮の先を、
「分かってます。努力が足りないんじゃなくて……」
穂波は顔を悔しさで歪めながら、口にしてしまう。
「わたしに足りないのは、才能ですよね」
「穂波……!」
下唇を強く噛む。
俺は何がしたかったんだ。くそ。
「颯太さん、才能が……」
穂波が言おうとした言葉のその先が分かるような気がした。
『才能が欲しい』
俺があの時期に何回も思ったこと。
いや、あの時期だけじゃなくて、きっと今も、ずっと抱き続けている、苦くて飲み込みきれない感情。
——しかし。
穂波が続けた言葉は、そうじゃなかった。
「——才能がない人には、夢を見る資格がないんでしょうか?」
その言葉に、目が醒めるような感覚が走った。
その質問は、才能がなくて夢を諦めざるを得なかった俺の心を抉った。
才能がない俺には、そもそも夢を見る資格すらなかったのだろうか?
あの血の滲む努力も何もかも、本当に無駄だったのだろうか?
努力なんか、すべきではなかったのだろうか?
「……そんなわけないだろ」
俺は無意識の内に、そう答えていた。
自分の声を聞きながら、本当に思っていたことを今更理解していた。
ずっと、『才能が欲しい』と思っていた。才能さえあれば夢を叶えられるのに、と。
「颯太さん……?」
でも、俺は、本当は才能が欲しかったんじゃなかったんだ。
急行に乗って鈍行列車を追い抜くみたいな、そんな権利が欲しかったわけじゃない。
『ウサギとカメ』のウサギになりたかったわけじゃない。
大した努力もせずに何かを成就したかったわけじゃない。
そうじゃなくて、俺は。
——ただ、努力が報われて欲しかっただけだったんだ。
才能がある奴よりも努力しないといけないなら、その分努力することなんてまったく厭わない。
鈍行列車でもいい、カメでもいい。
それでも、努力した分だけは、どんなに遅くても、夢に近づいて欲しかっただけだったんだ。
努力を、結果にして返して欲しかっただけなんだ。
だってそうだろ。
どうして、あんなに頑張っている穂波が報われない?
どうして、あんな言葉を、穂波が口にしなければいけない?
『——才能がない人には、夢を見る資格がないんでしょうか?』
そんなこと、穂波に訊かせる世界は、間違ってる。
……いや、待てよ。
……間違ってるのは、世界か?
——俺なんじゃないか?
彼女が報われる場所まで、ガイドする人間がいたらどうだ?
才能の有無なんて、夢を見る資格には関係ないんだと伝えて。
そして、伝えるだけじゃなくて、それを結果で証明する。
——そのためにいるのが、『マネージャー』なんじゃないか?
「穂波」
「は、はいっ」
俺の呼びかけに彼女はなぜか姿勢を正す。
「『才能がない』なんて理由でやめられるくらいのことなら、すぐにやめた方がいい。時間も労力も無駄だ」
「……!」
穂波はハッとしたように目を見開き、下唇を噛む。
「でも、才能がなくても諦められないことを、夢っていうんだろ?」
「はい……そうですよね」
「それが夢なら、努力をやめるな。歩みを止めるな。才能があったってなくたって、決して諦めない声優になる。——それが穂波の仕事だ」
「でも、わたしはそんなことしたって……」
「そしたら俺は——」
弱気になった穂波を遮る。
「——穂波を、その努力が報われる場所まで連れていく」
今、決まった。
「それが俺のマネジメント方針だ」
きっとそれこそが、俺がマネージャーになった意味なんだ。
「颯太さん……!」
顔を上げた穂波が目を見開く。
その瞳には、多分、さっきまでとは違う意味の涙。
「『とにかくレッツゴー』、なんだろ?」
「……はい!!」
そして、涙を振り切るように、ニコッと穂波は咲くように笑った。
「えへへ、わたし、颯太さんってクールな人なんだと思ってました」
「そうなのか?」
「はい、山田、嬉しいです!」
「ああー……えっと……」
いや、言われてみれば雰囲気に飲まれてかなり青臭いことを言ったな。思い出して恥ずかしくて死にたくなるやつだこれ……。
でも。
「……まあ、こんなもんだよ、俺は」
黒歴史だろうがなんだろうが、ぼんやりと諦めて『才能』だなんて言い訳みたいな概念に打ちのめされて生きていく世界線よりはいくらかマシだ。
「じゃあ、颯太さん、これ!」
「ん?」
穂波は鞄から台本を取り出した。
「読み合わせしましょう! 今から!」
「……ここで?」
「はい! 山田は誰よりも努力する声優なので、いつでもどこでも頑張りますよ!」
蛍光灯のスポットライトに照らされたその笑顔は、まさしく物語の主人公のようだと、俺の頭はこりもせず青臭いことを思っていた。




