第13話「そうだよね、うん。もう。うん、そうだ」
「あたし、この夏で仕事を辞めるかどうか決めようと思ってます」
仕事を、辞める?
「あの、これを打ち明けるのは飯田さんが初めてなんですけど……。あたし、実は、その……売れない声優なんです」
「声優さん……? え、そうなんですか!? え、なんていう……」
「本名でやってますよ。もう、告白する相手のこと、ネット検索くらいしておいた方がいいですよ。怪しい人だったらどうするんですか」
橘さんはくすくすと笑う。
「ああ、すみません……」
「いえ、そんなに信じていただけたのは嬉しいですけど。それで、今、とある作品のオーディションを受けていて。そのオーディションがもしかしたら上手く行くかもしれなくて」
「すごいことじゃないですか」
「ありがとうございます。いや、まだ受かってるわけじゃないんですけど」
それはきっと、アイプロの最終選考の話だろう。
「あたし、その作品がずっと大好きで、その作品の舞台に立ちたくて、声優になったんです。だから、それが受かったら、夢が叶ったら、まだ声優を続けていたい。きっと忙しくなるから……忙しくしたいから、こんな中途半端な状態ではお付き合い出来ません」
橘さんが頭を下げる気配がする。男性は、ややあって、
「それは、この夏いっぱい待っててもいい、ってことですか?」
「飯田さん、ダメですよ」
橘さんは、もう一度笑う。
「あたしのズルいセリフに、まんまと引っかかってます」
「それでも構わないから、こう言ってるんです」
「……結果が出たら、ご連絡します」
そこまで話すと、2人は、
「大事な話を最初に切り出してしまったので、これ以上話すことなくなっちゃいましたね」
「そうですよ」
と照れたように笑い、それから少しだけ差し障りのない話をして店を出ていく。
「……行ったな」
「そうですね……」
凪もさすがに聞きすぎたと思ったのか、少し戸惑ったような目をしている。
「……受かるのと落ちるのと、どっちが橘さんの幸せなんでしょうか」
その言葉は俺の心の底の方に、錘みたいに沈み込んでいった。
そして、その翌日。
『もしもし、神山さん。今大丈夫ですか?』
「はい」
電話の主は、『アイプロ』のプロデューサー。
『橘さんに受けてもらっていたオーディションのことなんですが——』
アイプロのオーディションの結果が届いた2日後、俺は橘さんを会社に呼び出した。
——結果が届いてから2日も、俺は橘さんに何を言うべきか決められずにいた。
「やっほーそうくん。……あ」
「橘さん、『アイプロ』新作のオーディションの結果なんですけど」
「あははー、いいよ、言わなくて」
橘さんは、苦笑いを浮かべる。
「……ダメ、だったんでしょ? そうくん、顔に出過ぎ」
「……すみません」
「なんで謝るのー? あたしの実力不足だよー。分かってたし、期待してないって言ったじゃん」
そう言いながら彼女は少し上を向く。その声が潤み、その瞳が濡れていく。
「あはは、季節外れの花粉症……ってのはさすがに無理があるか。ごめんね、そうくん」
「橘さん……」
橘さんは、自分を納得させるみたいに、何度も頷く。
「そうだよね、うん。もう。うん、そうだ」
何度も、何度も、自分に言い聞かせるように。
その様を見ながら、同時に、俺は自分自身がこれから切り出すことへの決意を固める。
カフェであの話を聞いてから俺はずっと考えていた。
今回のオーディションが彼女にとって転機なのは間違いない。彼女は、きっと、オーディションに落ちたら、声優を辞めるつもりだ。
オーディションに受かればそれでいい。
でも、そうならなかった場合、引退を止めることが彼女の為になるのだろうか。
声優を続けていれば幸せになれる保証があるわけでもない。
このタイミングで引退して、穏やかな生活の中で、いつか輝かしい青春時代として、「あたし、声優目指してたなあ」と思い出す方が幸せなのかもしれない。
俺に人を見る目があるかは分からないが、あの飯田さんという男性は誠実そうな人だったし、どっちが幸せかなんて分からない。
それどころか、ここで俺が彼女を引き止めるのは、声優としての橘亜香里じゃなく、彼女の人生そのものに踏み込む行為になる。
自分で自分の夢に見切りを付ける勇気を、踏みにじることになりやしないだろうか。
おせっかい、自己陶酔、偽善、無責任……そんな言葉が次から次へと浮かんで、俺はその分、彼女にかけるべき言葉を失っていく。
だけど、それでも。
やっとここまで来れたんじゃないか。
最後の2人に選ばれるところまで、たどり着いたんじゃないか。
あと一歩のところで、自分から諦めるなんて。
……そんなの、後悔しないって言い切れないだろ。
何より、俺は。
「——俺は、声優・橘亜香里のマネージャーなんだ」
何度もうなずいていた橘さんはやがて口を開く。しかし、
「そうくん、あたしね、この仕事を」
と言い掛けた彼女の言葉を遮った。
「橘さん。穂波とユニットを組んでもらいます」
「へ?」




