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光の闇司祭③ 白夜の教皇  作者: parupuntist


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9/10

エピローグ 窓掛けの星

 目を開けても、ミレイアは、まだ、そこにいた。


 巡礼宿の、白い部屋だった。寝台の脇の椅子に腰かけて、膝の上に、罪状帳をのせている。帳面は、閉じたままだった。


 窓の外が、乳色に白んでいた。白い夜が、戻ってきたらしい。


 それでも、どこか、ほんの少しだけ、暗い気がした。


 まぶたが、重かった。目のまわりが、ひりひりする。


 泣いたあとの目は、こうなるのか、と思った。


「……どれくらい、寝てた」


 声が、ひどく、かすれていた。


「一昼夜です」


 ミレイアは、平らな声で答えた。


「途中で、二度、腹の虫が鳴きました」


 返事をするように、腹の虫が、鳴いた。


「……三度目です」


「……起こせよ」


「朝寝の時間だと、申しましたので」


 レオニスは、何も言い返せなかった。


 白陽の間で眠りこんでから、どうやってここまで来たのか、覚えていない。


「……誰が、運んだ」


「団長です」


 ミレイアの目の下に、うっすらと、くまができていた。


「……お前は、ずっと、いたのか」


「監視役ですので」


 ヘルミたちは、今朝、峠の修道院へ発つのだという。こちらも、同じ朝に、王都へ発つことになっていた。寝ているあいだに、誰かが決めたらしい。


 巡礼宿の前の通りは、白いままだった。白い石畳に、白い壁。窓辺には、白い花の鉢。


 それでも、泣き腫らした目の人と、何人も、すれ違った。


 通りの向こうの窓辺から、小さな手が振られていた。


 白い服の、五つくらいの男の子だった。頭のてっぺんで、髪が、ひと房、はねている。


 自分のほかで、この都で初めて見る寝癖だった。


 男の子は、その頭を、得意そうに指さした。


「ねぐせ!」


 それから、胸を張った。


「よるに、ねたの!」


 うしろで、母親が、その髪を撫でつけようとして――手を、止めた。それから、男の子の肩に、その手を置いた。


 レオニスは、片手を上げた。


「……おう。似合ってるぞ」


 城門の前で、古びた箱馬車が、待っていた。


 御者台で、白い髭の大きな男が、手綱を握っていた。額に、乾いた傷が、ひと筋、走っていた。


 レオニスは、御者台を見上げた。


「また、あんたが担いだんだってな」


 ゴドフロワは、前を向いたまま、答えた。


「……前より、軽かった」


 レオニスは、腹をさすった。


「食って、戻す」


 馬車の脇に、灰色の髪の少年が、立っていた。こちらに気づいて、一礼する。


 ミレイアが、少年の前で、足を止めた。


「一昼夜でした」


 アルバンは、懐から、白い革の帳面を出した。頁を開いて、こちらへ向ける。


 几帳面な字が、一行だけ、並んでいた。


 ――朝寝、一昼夜と四半刻(しはんとき)。


 レオニスは、顔をしかめた。


「……細けえな」


 アルバンは、こともなげに答えた。


「記録ですので」


「どこで、数えてたんだよ」


「戸口の、外で」


 隣で、ミレイアが、黙って、罪状帳を胸に抱えなおした。


 レオニスは、アルバンの手もとを見た。


 ランタンを、提げていなかった。


「……あれは、どうした」


 アルバンは、何も提げていない自分の手を、見下ろした。


「書庫の、卓の上に。三百年前の書の、横に」


 アルバンは、静かに言い足した。


「書庫番さまが、書を、閉じずにおかれるそうです。読みたい方が、読めばよいのです、と」


 開いたままの書の横で、ただの火の色が、灯っているのだろう。


 アルバンは、こちらを、まっすぐに見た。


「私は、残ります。……猊下を、見届けます」


 レオニスは、眉を寄せた。


「務めは、終わったんじゃねえのか」


 アルバンは、頷いた。


「はい」


 少しだけ、間をおいた。


「務めでは、ありません」


 アルバンは、城門の上の空に、目をやった。


「ゆうべ、空のいちばん高いところに、星がひとつ、見えたそうです。侍祭たちが、首をかしげておりました」


 レオニスも、空を見上げた。


 白い空の、どこにも、星は見えなかった。


 アルバンが、帳面の頁を、めくった。祠で写した、碑文の頁だった。


「……レオニスさん」


 名前で呼ばれたのは、初めてだった。


「お伝えしましょうか。開祖さまの、お名前を」


 几帳面な指が、写した一行の上で、止まっていた。


 レオニスは、その指を見た。


「……今は、いい」


 アルバンが、目を上げた。


「なぜです」


 レオニスは、首のうしろを、掻いた。


「名前ってのは、呼ばれる奴のもんだろ」


 城門の向こうに、白い屋根が、幾重にも重なっていた。いちばん奥で、丸い屋根が、光っている。


「……最初に呼ぶのは、俺じゃねえ」


 アルバンが、丸い屋根のほうを、振り返った。


 その背中は、長いこと、動かなかった。


 やがて、帳面を、閉じた。


「……では、そのときまで、私が、お預かりします」


 アルバンは、続けて、布の包みを出した。


 ほどくと、丸パンが、出てきた。


 真っ黒だった。


「焦げてんぞ」


「焦がしました」


 アルバンは、平然と答えた。巡礼宿の竈(かまど)を、借りたのだという。


 黒い丸パンを、まんなかから、ふたつに割った。


 片方を、こちらへ差し出した。


「……はんぶんこ、です」


 レオニスは、それを受け取った。


 その場で、かじった。


 苦かった。


「……うまい」


 アルバンが、笑った。


 硬くも、整ってもいない、笑い方だった。その目のふちが、赤くなっていた。


 レオニスは、外套の内側に、手を入れた。


 青い糸で小鳥を刺した手巾を、アルバンの手に、押しつけた。


「貸すだけだ」


 アルバンは、手巾を、両手で受け取った。小鳥の刺繍を、じっと見ていた。


「……お返しに、伺います」


「おう」


 レオニスは、少し、黙った。


「……また来る」


 アルバンが、顔を上げた。


 レオニスは、その目を、見返した。


「俺が、そう決めた」


 アルバンは、手巾を胸に押しあてて、頭を下げた。


 馬車の扉が、開いた。


 ヘルミが、降りてきた。シエルが、その手を、握っていた。


 ヘルミは、レオニスの前まで来て、足を止めた。


「次は、私が、シチューを作ります」


 レオニスは、口の端を上げた。


「焦がせよ。炭の、手前までな」


 ヘルミは、真面目な顔で、頷いた。


 シエルが、ヘルミの手を、ぎゅっと握った。


 それから、そっと、離した。


 こちらへ、歩いてきた。レオニスとミレイアのあいだに立って、ヘルミのほうへ、向きなおる。


「おねえちゃんは、もう、ひとりで、なけるから」


 ヘルミの目に、涙が、浮かんだ。


「……はい」


 泣きながら、笑っていた。


 ミレイアが、御者台に向かって、深く、頭を下げた。


 ゴドフロワは、手綱を置いた。


 御者台の上で、同じだけ、深く、頭を下げた。


 門の外で、道は、ふた手に分かれていた。白の高原を渡って峠へ向かう道と、王都へ続く街道と。


 箱馬車が、白い野の中へ、遠ざかっていった。


 王都への街道を、しばらく歩いてから、シエルが、うしろを振り返った。両手を、大きく振った。


「アル、またね」


 レオニスも、振り返った。


 十年前は、熱に浮かされたまま、担がれていった。明け方に戻ったときには、もう、いなかった。


 今度は、置いていくのでは、なかった。


 城門の前に、小さな人影が、まだ、立っていた。


 ここにいろとは、言わなかった。


◆


 最後の釘は、ガルドが打った。


 聖都を発って、ひと月あまりが過ぎていた。王都は、盛夏だった。


 坂の途中の、新しい陽だまりの家。白い壁は、どこにもない。削りたての木の壁に、大きな窓が、いくつも並んでいる。二階の窓の下に、短い庇(ひさし)が張り出していた。その端の板に、大きな手が、釘を一本、打ちこんだ。


 金槌(かなづち)の音が、夏の坂に、高く響いた。


 ミレイアは、坂の下から、その家を見上げていた。


 この坂で、燃え落ちる家を見た夜があった。


 ガルドは、梯子を下りて、少し離れたところから、家を眺めた。


 しばらく、黙っていた。


「……建て終えた」


 ぽつりと、そう言った。


 その梯子を、寝癖の頭が、上っていった。打ったばかりの庇の上に、刃のない鉄剣を枕にして、仰向けに寝転がる。


 ガルドが、眉を寄せた。


「おう、欲張り。そこは――」


 言いかけて、口をつぐんだ。


 少し考えてから、言いなおした。


「……ガキどもの、屋根だ」


「ガキは、庇じゃ寝ねえだろ」


 庇の上から、のんきな声が返ってきた。


 坂の上の石段で居眠りをしていた牢番が、鍵束を鳴らしながら、のそのそと下りてきた。


「房を空けとくのも、今日までだな」


 ガルドの足もとに、しゃがみこんだ。足首の錠に、鍵を差しこむ。


 鎖が、外れた。


 牢番は、外した鎖を、肩に担いだ。


「まあ、てめえなら、いつだって外せたんだろうがな」


 欠伸(あくび)まじりにそう言って、坂を下りていった。


 ガルドは、軽くなった足首を、見下ろしていた。


 坂の下から、子供の声が上がった。


「おじさま!」


 エルナの子供たちだった。男の子と女の子が、坂を駆け上がってくる。ガルドは、膝をついて、ふたりをまとめて受けとめた。


 子供たちを追って、エルナが、ルカーシュと並んでやってきた。束ねた黒髪に、色褪(あ)せた茜(あかね)色のリボン。兄の手首に巻いてあるのと、同じ色だった。


 エルナは、兄の前で、足を止めた。


「……おかえりなさい、兄さん」


 ガルドは、少しのあいだ、妹の顔を見ていた。


「……おう」


 それから、ぶっきらぼうに、言い足した。


「ただいま」


 大聖堂の宿舎から、陽だまりの家の子供たちも、上がってきていた。いちばん小さな女の子が、二階の大きな窓を、見上げていた。


「……おおきい」


 ガルドが、鼻を鳴らした。


「でかくしといたからな」


 家の後ろ盾には、グラウベル伯爵家がついた。教会が何と言ってくるかは、まだ、わからない。当面の切り盛りには、エルナと、近所のおかみさんたちが、代わるがわる手を貸す。そのなかに、広場の端の、塩屋のおかみの顔もあった。


 窓の金具は、息子を亡くした鍛冶屋が打った。その鍛冶屋が、さっきから、二階の窓の留め金を、ひとつずつ開けては閉めて、確かめていた。子供の指でも、開くように。


 庇の上の寝癖は、いつのまにか、ぴくりとも動かなくなっていた。


 聖都では、目を閉じても、眠れなかった人だった。


 昼を過ぎたころ、坂の下に、粉まみれの若者があらわれた。肩に、ミルテの粉袋を担いでいる。焦げた袖を、継ぎあてた上着だった。


 若者は、ガルドの顔を見るなり、坂の途中で、足を止めた。


「か、頭(かしら)……!」


 ドルフだった。


 ガルドが、振り返った。


「……おう」


 ドルフは、動けなかった。粉袋を担いだまま、口を、ぱくぱくさせている。


 ガルドは、ひと呼吸、おいた。


「よくやった」


 粉袋が、肩から落ちた。


 口のほどけた袋から、粉が、ぱっと舞い上がった。その粉の山の中に、ドルフは、へたりこんだ。


 エルナの女の子が、目をまるくした。


「……ないてる」


「な、泣いてねえ!」


 ドルフが、粉だらけの顔を上げて、怒鳴った。


「粉が、目に入ったんだ!」


 ガルドが、粉の山の前に、腰を落とした。大きな手が、粉だらけの頭を、乱暴に撫でた。粉が、また、舞い上がった。


 庇の上で、寝ていたはずのレオニスが、声を殺して笑っていた。


 栗色のおさげが坂を駆け上がってきたのは、そのすぐあとだった。


「できたよ!」


 リラだった。両腕に、濃い紺の布を、山のように抱えている。


 リラが布を広げると、子供たちが、わあ、と声を上げた。


 紺の地に、白い糸で、星が、いくつも刺してあった。大きいのも、小さいのも。窓掛けだった。紐は、子供の手が届く高さに、つけてあった。


「閉めても、星があるでしょう」


 得意そうにそう言って、リラは、陽だまりの家の子供たちの前に、しゃがみこんだ。


「あなたたちが、私の、ふたりめのお客さん」


 ルカーシュのほうを向いて、ぺこりと、頭を下げる。


「お代は、伯爵さまから、ちゃんと、いただきました」


 ルカーシュが、少し、笑った。


 いちばん小さな女の子が、刺繍の星に、そっと指でふれていた。


 リラが、庇の上に、声を張りあげた。


「ねえ、レオニスさん。あの手巾は?」


 庇の上で、レオニスが、片目を開けた。


「……貸してる」


「また貸したの!?」


 坂じゅうに、リラの声が響いた。


 坂の下から、焼きたての匂いが、上がってきた。


 ユナだった。丸パンの籠を、両腕で抱えている。店を空けられない親父の代わりに、自分で焼いてきたのだという。


 ユナは、籠の中から、いちばん形のいいのを選んで、黙って、ガルドに突き出した。


 ガルドは、それを受け取って、しげしげと眺めた。


「今日も、焦げてねえな」


「焦げてないよ」


 ユナは、そっぽを向いた。


 その前掛けのポケットに、リラが、畳んだ布を、そっと押しこんだ。茶色の糸で刺した、すずめが、のぞいていた。


 新しい家の戸口の石段では、シエルが、子供たちの髪を梳(す)いていた。


 膝のあいだに座らせて、ひとりずつ、櫛(くし)を通していく。冬の中庭で見たのと、同じ手つきだった。


 ミレイアは、胸もとの罪状帳を、服の上から、押さえた。


 ――夏至の夜:


 その先は、ひと月あまり、空いたままだった。


◆


 北から、手紙が届いた。


 夕方、新しい家の戸口の石段で、シエルが、それを読んだ。ひと文字ずつ、指でたどりながら、声に出して。


 レオニスは、その隣に座っていた。ミレイアは、戸口の柱にもたれていた。陽だまりの家の子供たちも、石段のまわりに集まってきて、聞いていた。


 ――レオニスさま。ミレイアさん。シエル。


 ――谷のお墓に、夏の花が咲きました。父の石板の前にも、咲いています。


 ――ゴドフロワの額の傷は、ふさがりました。毎朝、お墓に、水をやっています。


 ――鉱山がお休みの日に、ボルグさんが、シチューを教えてくださいました。もっと焦がせ、と、何度も叱られました。


 ――修道院の厨房の、いちばん高い棚に、オズワルドさまの壺が、置いてありました。


 シエルの指が、止まった。


「……ちゅう、ぼう?」


 レオニスは、横から、教えてやった。


「台所だ」


 峠の修道院を発つ朝に、黙って置いてきた壺だった。


 シエルが、続きを読んだ。


 ――蜂蜜は、ひと匙(さじ)。……ふた匙目は、自分で入れました。


 ――上手に、泣けるようになりました。


 シエルは、その一行を、二度、読んだ。


 戸口の柱のそばで、ミレイアが、小さく、息をついた。


 シエルの指が、次の行へ進んだ。


 ――シエル。ちゃんと、ごはんを、食べていますか。


「たべてる」


 シエルが、手紙に向かって、答えた。子供たちが、くすくすと笑った。


 ――ヘルミ。


 その下に、もう一行、あった。


 大きさのばらばらな、ぎこちない字だった。シエルが、眉を寄せた。


「……よめない」


 レオニスは、手紙を受け取った。


 炭の字だった。片方しかない手で、一字ずつ、紙に押しつけるように書いたのだろう。


 声に出して、読んでやった。


 ――兄ちゃん。礼は、言えた。


 丘の上の墓地を、思い出した。名のない墓標の前で、ひとことずつ、確かめるような声がした。雲雀(ひばり)が、鳴いていた。


 知ってるよ、と思った。あのとき、空を見ながら、聞いてた。


 それでも、字にして、寄越したのだ。


 シエルが、首をかしげた。


「れいって、なあに?」


 レオニスは、手紙を、シエルに返した。


「……ありがとう、ってことだ」


 シエルは、手紙を、両手で胸に抱えた。


「……ボルグさん、いえたんだね」


「……ああ」


 レオニスは、それだけ答えた。


 ミレイアは、柱にもたれたまま、何も言わなかった。


 夏の空が、ちゃんと、暮れはじめていた。


◆


 二階の子供たちの部屋では、どの寝台の真上の梁(はり)にも、白墨の名前があった。シエルが、ひとりずつ、名前を読んでやりながら、寝台に入れていった。


 いちばん小さな女の子の寝台は、窓のそばだった。


 ミレイアは、階段を下りた。


 台所の卓で、蝋燭が一本、燃えていた。レオニスが、ユナの丸パンの残りを、かじっていた。


 ミレイアは、その向かいに座って、罪状帳を開いた。


 頁のいちばん上に、ふたつの名前があった。いちばん短い夜が明けたとき、白陽の間で書いたものだった。


 指で、なぞった。


 母の声も、父の笑い声も、遠くならなかった。


 その下に、一行。


 ――夏至の夜:


 ペン先を、下ろした。


 今度は、止まらなかった。


 ――夏至の夜:レオニス、泣く。


 ミレイアは、その一行を、しばらく見ていた。


 少し考えて、まっすぐな線を、一本、引いた。


 その下に、もう一行、書き足した。


 ――世界を救った件(三度目)については、保留とする。


 レオニスが、首をのばして、帳面を覗きこんでいた。


「……泣いたほうを、消すのかよ」


「罪状では、ありません」


 ミレイアは、ペンを置いた。


 レオニスは、むっとした顔で、帳面を、顎でしゃくった。


「……お前のは」


 ミレイアは、頁を、めくり戻した。


 一枚めくるごとに、いちばん上の、ふたつの名前が、目に入った。その下は、どの頁も、空いていた。


 満陽祭の、九日前の頁で、指が止まった。ふたつの名前の下に、一行。


 ――満陽祭まで九日:昼間から、泣く。


 ミレイアは、その一行に、指を置いた。


 線は、引かなかった。


「これは、残しておきます」


「なんでだよ」


 ミレイアは、帳面を閉じた。


「……忘れないように」


 レオニスは、パンの残りを、口に放りこんだ。


「……俺のは、忘れていいのかよ」


 ミレイアは、閉じた帳面に、目を落としたまま、答えた。


「あなたのは、書かなくても、覚えています」


 レオニスは、口を開けて――閉じた。


 寝癖の頭を掻いて、立ち上がった。刃のない鉄剣を、肩に担ぐ。


「……庇で、寝る」


 勝手口の戸が、閉まった。


 二階から、子供の笑い声が、ひとつだけ聞こえて、すぐに、静かになった。


◆


 昼の陽を吸った庇の板が、まだ、ほんのりと温かかった。陽だまりの匂いがした。


 レオニスは、鉄剣を枕に、仰向けに寝転がっていた。


 夏の夜だった。坂の下で、川の音がしている。どこかの軒下で、虫が鳴いていた。


 王都の空に、星が、いくつも灯っていた。


 庇の下の地面に、台所の灯りが、まだ、四角く落ちていた。


 頭の上の窓から、子供たちのひそひそ声が、こぼれてくる。


 窓掛けの閉まる音が、ひとつ、またひとつ、した。


 閉めて回る足音は、しなかった。


 ひそひそ声が、やがて、寝息に変わっていった。


 レオニスは、目を閉じかけた。


「師匠。ちょっとだけ、寝る」


 返事は、なかった。


 頭の上で、かすかな音がした。


 紐を引く音だった。


 窓掛けが、動いた。


 手のひらひとつぶんだけ、開いた。


 十二年前、自分が開けたのと、同じ幅だった。


 その隙間に、小さな顔が、のぞいた。


 いちばん小さな女の子だった。星明かりの中で、まるい目が、空を見上げていた。


「……ほし」


 ささやくような声だった。


 刺繍の星の隣に、本物の星が、見えているのだろう。


 寝台のきしむ音がした。隙間の向こうで、亜麻色の髪が、揺れた。


 シエルが、女の子の隣に、腰を下ろしたらしい。


 隙間の向こうは、しばらく、静かだった。


 やがて、女の子が、訊いた。


「よるって、こわいの?」


 シエルは、すぐには、答えなかった。


 レオニスは、星を見上げたまま、言った。


「……さあな。隣に誰かいりゃ、そうでもねえよ」


 隙間の小さな顔が、こちらを見下ろした。その上に、亜麻色の頭が、もうひとつ、のぞいた。


 女の子は、ぽかんと口を開けて、庇の上の寝癖を見ていた。


 頭の上から、シエルの声が、降ってきた。


「レオにいちゃんは、ひとりだよ」


「……うるせえ」


 シエルが、くすりと、笑った。


 女の子は、また、窓の外の空に、目を戻した。シエルの手が、その髪に、そっと置かれた。


 庇の下の地面には、台所の灯りが、まだ、落ちていた。


 窓掛けは、手のひらひとつぶん、開いたままだった。


 レオニスは、目を閉じた。


 それが、新しい陽だまりの家の、最初の夜だった。

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