エピローグ 窓掛けの星
目を開けても、ミレイアは、まだ、そこにいた。
巡礼宿の、白い部屋だった。寝台の脇の椅子に腰かけて、膝の上に、罪状帳をのせている。帳面は、閉じたままだった。
窓の外が、乳色に白んでいた。白い夜が、戻ってきたらしい。
それでも、どこか、ほんの少しだけ、暗い気がした。
まぶたが、重かった。目のまわりが、ひりひりする。
泣いたあとの目は、こうなるのか、と思った。
「……どれくらい、寝てた」
声が、ひどく、かすれていた。
「一昼夜です」
ミレイアは、平らな声で答えた。
「途中で、二度、腹の虫が鳴きました」
返事をするように、腹の虫が、鳴いた。
「……三度目です」
「……起こせよ」
「朝寝の時間だと、申しましたので」
レオニスは、何も言い返せなかった。
白陽の間で眠りこんでから、どうやってここまで来たのか、覚えていない。
「……誰が、運んだ」
「団長です」
ミレイアの目の下に、うっすらと、くまができていた。
「……お前は、ずっと、いたのか」
「監視役ですので」
ヘルミたちは、今朝、峠の修道院へ発つのだという。こちらも、同じ朝に、王都へ発つことになっていた。寝ているあいだに、誰かが決めたらしい。
巡礼宿の前の通りは、白いままだった。白い石畳に、白い壁。窓辺には、白い花の鉢。
それでも、泣き腫らした目の人と、何人も、すれ違った。
通りの向こうの窓辺から、小さな手が振られていた。
白い服の、五つくらいの男の子だった。頭のてっぺんで、髪が、ひと房、はねている。
自分のほかで、この都で初めて見る寝癖だった。
男の子は、その頭を、得意そうに指さした。
「ねぐせ!」
それから、胸を張った。
「よるに、ねたの!」
うしろで、母親が、その髪を撫でつけようとして――手を、止めた。それから、男の子の肩に、その手を置いた。
レオニスは、片手を上げた。
「……おう。似合ってるぞ」
城門の前で、古びた箱馬車が、待っていた。
御者台で、白い髭の大きな男が、手綱を握っていた。額に、乾いた傷が、ひと筋、走っていた。
レオニスは、御者台を見上げた。
「また、あんたが担いだんだってな」
ゴドフロワは、前を向いたまま、答えた。
「……前より、軽かった」
レオニスは、腹をさすった。
「食って、戻す」
馬車の脇に、灰色の髪の少年が、立っていた。こちらに気づいて、一礼する。
ミレイアが、少年の前で、足を止めた。
「一昼夜でした」
アルバンは、懐から、白い革の帳面を出した。頁を開いて、こちらへ向ける。
几帳面な字が、一行だけ、並んでいた。
――朝寝、一昼夜と四半刻。
レオニスは、顔をしかめた。
「……細けえな」
アルバンは、こともなげに答えた。
「記録ですので」
「どこで、数えてたんだよ」
「戸口の、外で」
隣で、ミレイアが、黙って、罪状帳を胸に抱えなおした。
レオニスは、アルバンの手もとを見た。
ランタンを、提げていなかった。
「……あれは、どうした」
アルバンは、何も提げていない自分の手を、見下ろした。
「書庫の、卓の上に。三百年前の書の、横に」
アルバンは、静かに言い足した。
「書庫番さまが、書を、閉じずにおかれるそうです。読みたい方が、読めばよいのです、と」
開いたままの書の横で、ただの火の色が、灯っているのだろう。
アルバンは、こちらを、まっすぐに見た。
「私は、残ります。……猊下を、見届けます」
レオニスは、眉を寄せた。
「務めは、終わったんじゃねえのか」
アルバンは、頷いた。
「はい」
少しだけ、間をおいた。
「務めでは、ありません」
アルバンは、城門の上の空に、目をやった。
「ゆうべ、空のいちばん高いところに、星がひとつ、見えたそうです。侍祭たちが、首をかしげておりました」
レオニスも、空を見上げた。
白い空の、どこにも、星は見えなかった。
アルバンが、帳面の頁を、めくった。祠で写した、碑文の頁だった。
「……レオニスさん」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
「お伝えしましょうか。開祖さまの、お名前を」
几帳面な指が、写した一行の上で、止まっていた。
レオニスは、その指を見た。
「……今は、いい」
アルバンが、目を上げた。
「なぜです」
レオニスは、首のうしろを、掻いた。
「名前ってのは、呼ばれる奴のもんだろ」
城門の向こうに、白い屋根が、幾重にも重なっていた。いちばん奥で、丸い屋根が、光っている。
「……最初に呼ぶのは、俺じゃねえ」
アルバンが、丸い屋根のほうを、振り返った。
その背中は、長いこと、動かなかった。
やがて、帳面を、閉じた。
「……では、そのときまで、私が、お預かりします」
アルバンは、続けて、布の包みを出した。
ほどくと、丸パンが、出てきた。
真っ黒だった。
「焦げてんぞ」
「焦がしました」
アルバンは、平然と答えた。巡礼宿の竈を、借りたのだという。
黒い丸パンを、まんなかから、ふたつに割った。
片方を、こちらへ差し出した。
「……はんぶんこ、です」
レオニスは、それを受け取った。
その場で、かじった。
苦かった。
「……うまい」
アルバンが、笑った。
硬くも、整ってもいない、笑い方だった。その目のふちが、赤くなっていた。
レオニスは、外套の内側に、手を入れた。
青い糸で小鳥を刺した手巾を、アルバンの手に、押しつけた。
「貸すだけだ」
アルバンは、手巾を、両手で受け取った。小鳥の刺繍を、じっと見ていた。
「……お返しに、伺います」
「おう」
レオニスは、少し、黙った。
「……また来る」
アルバンが、顔を上げた。
レオニスは、その目を、見返した。
「俺が、そう決めた」
アルバンは、手巾を胸に押しあてて、頭を下げた。
馬車の扉が、開いた。
ヘルミが、降りてきた。シエルが、その手を、握っていた。
ヘルミは、レオニスの前まで来て、足を止めた。
「次は、私が、シチューを作ります」
レオニスは、口の端を上げた。
「焦がせよ。炭の、手前までな」
ヘルミは、真面目な顔で、頷いた。
シエルが、ヘルミの手を、ぎゅっと握った。
それから、そっと、離した。
こちらへ、歩いてきた。レオニスとミレイアのあいだに立って、ヘルミのほうへ、向きなおる。
「おねえちゃんは、もう、ひとりで、なけるから」
ヘルミの目に、涙が、浮かんだ。
「……はい」
泣きながら、笑っていた。
ミレイアが、御者台に向かって、深く、頭を下げた。
ゴドフロワは、手綱を置いた。
御者台の上で、同じだけ、深く、頭を下げた。
門の外で、道は、ふた手に分かれていた。白の高原を渡って峠へ向かう道と、王都へ続く街道と。
箱馬車が、白い野の中へ、遠ざかっていった。
王都への街道を、しばらく歩いてから、シエルが、うしろを振り返った。両手を、大きく振った。
「アル、またね」
レオニスも、振り返った。
十年前は、熱に浮かされたまま、担がれていった。明け方に戻ったときには、もう、いなかった。
今度は、置いていくのでは、なかった。
城門の前に、小さな人影が、まだ、立っていた。
ここにいろとは、言わなかった。
◆
最後の釘は、ガルドが打った。
聖都を発って、ひと月あまりが過ぎていた。王都は、盛夏だった。
坂の途中の、新しい陽だまりの家。白い壁は、どこにもない。削りたての木の壁に、大きな窓が、いくつも並んでいる。二階の窓の下に、短い庇が張り出していた。その端の板に、大きな手が、釘を一本、打ちこんだ。
金槌の音が、夏の坂に、高く響いた。
ミレイアは、坂の下から、その家を見上げていた。
この坂で、燃え落ちる家を見た夜があった。
ガルドは、梯子を下りて、少し離れたところから、家を眺めた。
しばらく、黙っていた。
「……建て終えた」
ぽつりと、そう言った。
その梯子を、寝癖の頭が、上っていった。打ったばかりの庇の上に、刃のない鉄剣を枕にして、仰向けに寝転がる。
ガルドが、眉を寄せた。
「おう、欲張り。そこは――」
言いかけて、口をつぐんだ。
少し考えてから、言いなおした。
「……ガキどもの、屋根だ」
「ガキは、庇じゃ寝ねえだろ」
庇の上から、のんきな声が返ってきた。
坂の上の石段で居眠りをしていた牢番が、鍵束を鳴らしながら、のそのそと下りてきた。
「房を空けとくのも、今日までだな」
ガルドの足もとに、しゃがみこんだ。足首の錠に、鍵を差しこむ。
鎖が、外れた。
牢番は、外した鎖を、肩に担いだ。
「まあ、てめえなら、いつだって外せたんだろうがな」
欠伸まじりにそう言って、坂を下りていった。
ガルドは、軽くなった足首を、見下ろしていた。
坂の下から、子供の声が上がった。
「おじさま!」
エルナの子供たちだった。男の子と女の子が、坂を駆け上がってくる。ガルドは、膝をついて、ふたりをまとめて受けとめた。
子供たちを追って、エルナが、ルカーシュと並んでやってきた。束ねた黒髪に、色褪せた茜色のリボン。兄の手首に巻いてあるのと、同じ色だった。
エルナは、兄の前で、足を止めた。
「……おかえりなさい、兄さん」
ガルドは、少しのあいだ、妹の顔を見ていた。
「……おう」
それから、ぶっきらぼうに、言い足した。
「ただいま」
大聖堂の宿舎から、陽だまりの家の子供たちも、上がってきていた。いちばん小さな女の子が、二階の大きな窓を、見上げていた。
「……おおきい」
ガルドが、鼻を鳴らした。
「でかくしといたからな」
家の後ろ盾には、グラウベル伯爵家がついた。教会が何と言ってくるかは、まだ、わからない。当面の切り盛りには、エルナと、近所のおかみさんたちが、代わるがわる手を貸す。そのなかに、広場の端の、塩屋のおかみの顔もあった。
窓の金具は、息子を亡くした鍛冶屋が打った。その鍛冶屋が、さっきから、二階の窓の留め金を、ひとつずつ開けては閉めて、確かめていた。子供の指でも、開くように。
庇の上の寝癖は、いつのまにか、ぴくりとも動かなくなっていた。
聖都では、目を閉じても、眠れなかった人だった。
昼を過ぎたころ、坂の下に、粉まみれの若者があらわれた。肩に、ミルテの粉袋を担いでいる。焦げた袖を、継ぎあてた上着だった。
若者は、ガルドの顔を見るなり、坂の途中で、足を止めた。
「か、頭……!」
ドルフだった。
ガルドが、振り返った。
「……おう」
ドルフは、動けなかった。粉袋を担いだまま、口を、ぱくぱくさせている。
ガルドは、ひと呼吸、おいた。
「よくやった」
粉袋が、肩から落ちた。
口のほどけた袋から、粉が、ぱっと舞い上がった。その粉の山の中に、ドルフは、へたりこんだ。
エルナの女の子が、目をまるくした。
「……ないてる」
「な、泣いてねえ!」
ドルフが、粉だらけの顔を上げて、怒鳴った。
「粉が、目に入ったんだ!」
ガルドが、粉の山の前に、腰を落とした。大きな手が、粉だらけの頭を、乱暴に撫でた。粉が、また、舞い上がった。
庇の上で、寝ていたはずのレオニスが、声を殺して笑っていた。
栗色のおさげが坂を駆け上がってきたのは、そのすぐあとだった。
「できたよ!」
リラだった。両腕に、濃い紺の布を、山のように抱えている。
リラが布を広げると、子供たちが、わあ、と声を上げた。
紺の地に、白い糸で、星が、いくつも刺してあった。大きいのも、小さいのも。窓掛けだった。紐は、子供の手が届く高さに、つけてあった。
「閉めても、星があるでしょう」
得意そうにそう言って、リラは、陽だまりの家の子供たちの前に、しゃがみこんだ。
「あなたたちが、私の、ふたりめのお客さん」
ルカーシュのほうを向いて、ぺこりと、頭を下げる。
「お代は、伯爵さまから、ちゃんと、いただきました」
ルカーシュが、少し、笑った。
いちばん小さな女の子が、刺繍の星に、そっと指でふれていた。
リラが、庇の上に、声を張りあげた。
「ねえ、レオニスさん。あの手巾は?」
庇の上で、レオニスが、片目を開けた。
「……貸してる」
「また貸したの!?」
坂じゅうに、リラの声が響いた。
坂の下から、焼きたての匂いが、上がってきた。
ユナだった。丸パンの籠を、両腕で抱えている。店を空けられない親父の代わりに、自分で焼いてきたのだという。
ユナは、籠の中から、いちばん形のいいのを選んで、黙って、ガルドに突き出した。
ガルドは、それを受け取って、しげしげと眺めた。
「今日も、焦げてねえな」
「焦げてないよ」
ユナは、そっぽを向いた。
その前掛けのポケットに、リラが、畳んだ布を、そっと押しこんだ。茶色の糸で刺した、すずめが、のぞいていた。
新しい家の戸口の石段では、シエルが、子供たちの髪を梳いていた。
膝のあいだに座らせて、ひとりずつ、櫛を通していく。冬の中庭で見たのと、同じ手つきだった。
ミレイアは、胸もとの罪状帳を、服の上から、押さえた。
――夏至の夜:
その先は、ひと月あまり、空いたままだった。
◆
北から、手紙が届いた。
夕方、新しい家の戸口の石段で、シエルが、それを読んだ。ひと文字ずつ、指でたどりながら、声に出して。
レオニスは、その隣に座っていた。ミレイアは、戸口の柱にもたれていた。陽だまりの家の子供たちも、石段のまわりに集まってきて、聞いていた。
――レオニスさま。ミレイアさん。シエル。
――谷のお墓に、夏の花が咲きました。父の石板の前にも、咲いています。
――ゴドフロワの額の傷は、ふさがりました。毎朝、お墓に、水をやっています。
――鉱山がお休みの日に、ボルグさんが、シチューを教えてくださいました。もっと焦がせ、と、何度も叱られました。
――修道院の厨房の、いちばん高い棚に、オズワルドさまの壺が、置いてありました。
シエルの指が、止まった。
「……ちゅう、ぼう?」
レオニスは、横から、教えてやった。
「台所だ」
峠の修道院を発つ朝に、黙って置いてきた壺だった。
シエルが、続きを読んだ。
――蜂蜜は、ひと匙。……ふた匙目は、自分で入れました。
――上手に、泣けるようになりました。
シエルは、その一行を、二度、読んだ。
戸口の柱のそばで、ミレイアが、小さく、息をついた。
シエルの指が、次の行へ進んだ。
――シエル。ちゃんと、ごはんを、食べていますか。
「たべてる」
シエルが、手紙に向かって、答えた。子供たちが、くすくすと笑った。
――ヘルミ。
その下に、もう一行、あった。
大きさのばらばらな、ぎこちない字だった。シエルが、眉を寄せた。
「……よめない」
レオニスは、手紙を受け取った。
炭の字だった。片方しかない手で、一字ずつ、紙に押しつけるように書いたのだろう。
声に出して、読んでやった。
――兄ちゃん。礼は、言えた。
丘の上の墓地を、思い出した。名のない墓標の前で、ひとことずつ、確かめるような声がした。雲雀が、鳴いていた。
知ってるよ、と思った。あのとき、空を見ながら、聞いてた。
それでも、字にして、寄越したのだ。
シエルが、首をかしげた。
「れいって、なあに?」
レオニスは、手紙を、シエルに返した。
「……ありがとう、ってことだ」
シエルは、手紙を、両手で胸に抱えた。
「……ボルグさん、いえたんだね」
「……ああ」
レオニスは、それだけ答えた。
ミレイアは、柱にもたれたまま、何も言わなかった。
夏の空が、ちゃんと、暮れはじめていた。
◆
二階の子供たちの部屋では、どの寝台の真上の梁にも、白墨の名前があった。シエルが、ひとりずつ、名前を読んでやりながら、寝台に入れていった。
いちばん小さな女の子の寝台は、窓のそばだった。
ミレイアは、階段を下りた。
台所の卓で、蝋燭が一本、燃えていた。レオニスが、ユナの丸パンの残りを、かじっていた。
ミレイアは、その向かいに座って、罪状帳を開いた。
頁のいちばん上に、ふたつの名前があった。いちばん短い夜が明けたとき、白陽の間で書いたものだった。
指で、なぞった。
母の声も、父の笑い声も、遠くならなかった。
その下に、一行。
――夏至の夜:
ペン先を、下ろした。
今度は、止まらなかった。
――夏至の夜:レオニス、泣く。
ミレイアは、その一行を、しばらく見ていた。
少し考えて、まっすぐな線を、一本、引いた。
その下に、もう一行、書き足した。
――世界を救った件(三度目)については、保留とする。
レオニスが、首をのばして、帳面を覗きこんでいた。
「……泣いたほうを、消すのかよ」
「罪状では、ありません」
ミレイアは、ペンを置いた。
レオニスは、むっとした顔で、帳面を、顎でしゃくった。
「……お前のは」
ミレイアは、頁を、めくり戻した。
一枚めくるごとに、いちばん上の、ふたつの名前が、目に入った。その下は、どの頁も、空いていた。
満陽祭の、九日前の頁で、指が止まった。ふたつの名前の下に、一行。
――満陽祭まで九日:昼間から、泣く。
ミレイアは、その一行に、指を置いた。
線は、引かなかった。
「これは、残しておきます」
「なんでだよ」
ミレイアは、帳面を閉じた。
「……忘れないように」
レオニスは、パンの残りを、口に放りこんだ。
「……俺のは、忘れていいのかよ」
ミレイアは、閉じた帳面に、目を落としたまま、答えた。
「あなたのは、書かなくても、覚えています」
レオニスは、口を開けて――閉じた。
寝癖の頭を掻いて、立ち上がった。刃のない鉄剣を、肩に担ぐ。
「……庇で、寝る」
勝手口の戸が、閉まった。
二階から、子供の笑い声が、ひとつだけ聞こえて、すぐに、静かになった。
◆
昼の陽を吸った庇の板が、まだ、ほんのりと温かかった。陽だまりの匂いがした。
レオニスは、鉄剣を枕に、仰向けに寝転がっていた。
夏の夜だった。坂の下で、川の音がしている。どこかの軒下で、虫が鳴いていた。
王都の空に、星が、いくつも灯っていた。
庇の下の地面に、台所の灯りが、まだ、四角く落ちていた。
頭の上の窓から、子供たちのひそひそ声が、こぼれてくる。
窓掛けの閉まる音が、ひとつ、またひとつ、した。
閉めて回る足音は、しなかった。
ひそひそ声が、やがて、寝息に変わっていった。
レオニスは、目を閉じかけた。
「師匠。ちょっとだけ、寝る」
返事は、なかった。
頭の上で、かすかな音がした。
紐を引く音だった。
窓掛けが、動いた。
手のひらひとつぶんだけ、開いた。
十二年前、自分が開けたのと、同じ幅だった。
その隙間に、小さな顔が、のぞいた。
いちばん小さな女の子だった。星明かりの中で、まるい目が、空を見上げていた。
「……ほし」
ささやくような声だった。
刺繍の星の隣に、本物の星が、見えているのだろう。
寝台のきしむ音がした。隙間の向こうで、亜麻色の髪が、揺れた。
シエルが、女の子の隣に、腰を下ろしたらしい。
隙間の向こうは、しばらく、静かだった。
やがて、女の子が、訊いた。
「よるって、こわいの?」
シエルは、すぐには、答えなかった。
レオニスは、星を見上げたまま、言った。
「……さあな。隣に誰かいりゃ、そうでもねえよ」
隙間の小さな顔が、こちらを見下ろした。その上に、亜麻色の頭が、もうひとつ、のぞいた。
女の子は、ぽかんと口を開けて、庇の上の寝癖を見ていた。
頭の上から、シエルの声が、降ってきた。
「レオにいちゃんは、ひとりだよ」
「……うるせえ」
シエルが、くすりと、笑った。
女の子は、また、窓の外の空に、目を戻した。シエルの手が、その髪に、そっと置かれた。
庇の下の地面には、台所の灯りが、まだ、落ちていた。
窓掛けは、手のひらひとつぶん、開いたままだった。
レオニスは、目を閉じた。
それが、新しい陽だまりの家の、最初の夜だった。




