断章 黒い眠り
白陽の間の光が、ひと回り、小さくなった。
祭壇の上の、白い光の球だった。三百年、一度も沈んだことがない。大人が両腕を広げても、抱えきれなかった。
今は、どうにか、抱えられそうに見える。
息をするように、膨らんでは、しぼむ。
その息が、前より、浅い。
広間の白さも、前ほどではなかった。丸い天井の、いちばん高いところと、柱の根もとに、うっすらと、灰色が溜まっている。
祭壇に背を向けて、小柄な老人が、座っていた。
白い衣の袖から、枯れ枝のような手首がのぞいている。裾の先には、裸足の指。
教皇は、祈っては、いなかった。
白い床を、見ていた。
そこに、見たことのないものが、落ちていた。
薄い、暗がりだった。
膝を折って座る、老人の形をしている。骨の浮いた肩も、細い首も、床に写しとったように。
教皇が指を曲げると、暗がりの指も、曲がった。
――影。
そういうものがあることは、知っていた。
自分の足もとに落ちているのを見るのは、初めてだった。
両手を、持ち上げてみた。暗がりも、両手を持ち上げた。
口もとが、ほころんだ。
教皇は、自分の影を、長いこと眺めていた。
めずらしい鳥でも、眺めるように。
あの夜、この広間は、暗くなった。
誰かが、泣いていた。泣き声は、ひとつではなかった。それから、誰かが、歌った。
気がつくと、立ち上がっていた。
裸足で、回廊を歩いた。大階段の上へ出ると、足の裏の石が、冷たかった。夜の風が、白い衣の裾を、揺らした。
黒い空に、小さな灯りが、いくつも、いくつも、瞬いていた。
星、というのだと、知っていた。
見るのは、初めてだった。
首が痛くなるまで、見上げていた。
それから、この広間へ、戻った。
ほかに、行くところを、知らなかった。
泣くとは、どのようなものか。
前に、聖女に、訊いたことがある。
答えは、よく、わからなかった。
入り口のほうで、かすかな衣擦れの音がした。
教皇は、影から、目を上げた。
このところ、あそこに、灰色の頭が、膝をついている。入ってはこない。何も言わない。
まぶたが、重く垂れてくる。
頭の芯が、ぼうっとしている。手足の先から、力が、少しずつ、ほどけていく。
眠ったことは、ない。覚えているかぎりは。
「……眠い、とは」
声に、出ていた。
「このようなものか」
教皇は、白い床に、身を横たえた。
自分の影の、上に。
膝が、ひとりでに、胸のほうへ寄った。
横になると、影は、見えなくなった。
白い床は、春の真昼のように温かい。
影のところだけが、少し、ひんやりとしていた。
目を閉じた。
閉じたほうが、光の奥は、よく見える。いつも、そうだった。
白い光の奥に、顔のない何かが、いた。
いつから、そこにいるのかは、知らない。ずっと、そこにいた。口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく、微笑んでいた。
光が、遠くなっていった。まぶたの裏の白が、薄く、薄く、なっていく。
暗かった。白い光は、ずっと遠くに、小さく、残っているだけだった。
怖くは、なかった。
暗がりの中で、誰かが、歌っていた。
知らない声だった。
知っている、気がした。
――ねんね ねんね ひが しずむ
背中を、ゆっくりと、叩かれていた。とん、とん、と。
――よるの かあさま ひを だいて
――ないても いいよ よるの なか
声が、少し、揺れた。
それから――
――おいで おいで なけない こ
あの夜は、この一行で、立ち上がった。
今度は、立ち上がらなかった。
目のふちが、冷たかった。
背中を叩く手は、あたたかかった。
白い光の奥で、顔のない何かが――はじめて、微笑むのを、やめた。




