↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光の闇司祭③ 白夜の教皇  作者: parupuntist


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/10

最終章 いちばん短い夜

 一年でいちばん長い昼の、真ん中だった。


 大広場は、巡礼で埋まっていた。


 白い服の人々が、白い花を抱いて、石畳の端から端まで、肩を寄せあって立っている。白い幟が、真昼の風に、はためいていた。大階段の下の白い花の山は、九日前に見たときより、ずっと高くなっていた。


 どの顔も、穏やかに笑っていた。


 レオニスは、その人波の中ほどに立っていた。


 眠っていない頭が、白い光の中で、ぼんやりと重かった。


 大階段の上に立ってくれと、アルバンには言われた。言われた奴の隣にいる、と答えた。だから、ここにいる。


 隣には、ミレイアがいた。


 今朝、屋根から梯子を下りると、下に、ミレイアが立っていた。罪状帳を胸に抱えて、こちらの足もとを見た。


 何も、言わなかった。帳面も、開かなかった。


 ヘルミとシエルは、巡礼宿に残っている。白陽の聖女が広場にいると知れたら、人が集まる。ゴドフロワがそう言って、自分も宿に残った。


 前に立っていた巡礼の婆さんが、振り返って、白い花を一輪、レオニスの手に押しつけてきた。


「あなたも、どうぞ。今日は、猊下の祝福の日ですからね」


 穏やかな笑顔だった。


 レオニスは、花を受け取った。どこに置けばいいのか、わからなかった。


 ミレイアが、ぽつりと言った。


「……今朝は、まだ、書いていません」


 レオニスは、ミレイアの胸の帳面に、目をやった。


「……書くこと、ねえのか」


 ミレイアは、大階段の上を見たまま、答えた。


「あります」


 ミレイアは、帳面を、胸に引きよせた。


「書きたくないだけです」


 レオニスは、寝癖の頭を、掻いた。


 大階段のいちばん上に、白い衣の男が、小さく見えた。そのうしろに、灰色の頭も見えた。


 侍祭長だという。その男が、巻いた紙を広げて、よく通る声で、読みあげていく。


「――白陽は、沈まず」


 広場じゅうの巡礼が、声をそろえて、同じ言葉を繰り返した。巡礼たちの声が、ひとつになって、広場を渡っていった。どの声も、うれしそうだった。


 侍祭長が、次の一行を、読みあげた。


「――白陽のもとに、夜はなく、泣く者もなし」


 泣く者もなし。


 この広場で、昼間から泣いた奴を、ひとり、知っている。


 レオニスは、ちらりと、ミレイアを見た。ミレイアは、大階段のほうを向いたまま、帳面を胸に押さえていた。


 あの爺さんの、祝福だという。爺さん本人は、人前には出てこないのだそうだ。


 陽は、真上にあった。


 誰の影も、真下に縮んで、足もとに、小さく溜まっていた。


 レオニスの足もとには、何もなかった。


 今朝、屋根の上で消えたきり、戻ってこない。


 ――おいで。


 声がした。


 耳では、なかった。


 胸の中だった。


 ――おいで。


 指から、白い花が、落ちた。


 足が、一歩、前へ出た。


 大聖堂の、奥のほうへ。


 自分で出した足では、なかった。


 袖を、掴まれた。


 振り返ると、ミレイアが、外套の袖を握っていた。指に、力がこもっていた。


 レオニスは、自分の足もとを見下ろした。それから、ミレイアの顔を見た。


「……呼ばれてる。返事、してくる」


 ミレイアは、何も言わなかった。袖を握ったまま、こちらを見ていた。


 レオニスは、言い足した。


「真夜中まで、もたせる。ヘルミの唄が、届くまでな」


 大階段の上で、侍祭長の声が、やんだ。白い花の香りが、むせるほど濃い。


 ――おいで。


 胸の底で、また、声がした。


 ミレイアが、口を開いた。


「監視対象ですので」


 平らな声だった。


 袖を握っていた指が、ひとつずつ、ほどけていった。


「……真夜中に、迎えに行きます」


 ミレイアは、笑わなかった。唇を、固く結んでいた。


 レオニスは、少しだけ、笑った。


 背を向けて、歩きだした。振り返らずに、片手だけ、上げた。


 巡礼たちのあいだを、抜けていく。誰も、こちらを見なかった。皆、大階段の上を見上げて、笑っていた。


 背中で、聞きなれた声が、広場に響いた。


「聞いてください」


 大聖堂の脇に、白い扉があった。


 侍祭がふたり、その前で、にこにこと笑って待っていた。


「お待ちしておりました、白い闇司祭さま」


 扉が、開いた。


 奥に、白い回廊が、どこまでも続いていた。


◆


 祝福が、終わった。


 侍祭長が、白い手袋の手で、紙を巻いた。笑顔のまま、一歩、うしろへ下がる。


 アルバンは、前へ出た。


 大階段のいちばん上から、大広場が、見渡せた。


 白い顔だった。何千、何万の白い顔が、こちらを見上げていた。誰も、泣いてはいなかった。


 この人たちは、知らない。三百年、拝んできた光のはじまりに、誰がいたのかを。


 白い人波の中に、銀色の頭が、ひとつ見えた。その隣に、黒い外套。


 ランタンを、掲げた。真昼の光の中で、白い火は、ほとんど見えない。かまわなかった。


 片手で、白い革の帳面を開いた。祠の碑文を写した頁だった。


 ――我らが友、白き


 その先に、名がある。


 今日、この名を、呼ぶと決めていた。


 息を、吸った。


「聞いてください」


 声は、広場の端まで、届いた。


「開祖さまは――」


 そのときだった。


 黒い外套が、動いていた。


 白い人波の中の、ひとつだけの黒が、巡礼たちのあいだを縫って、大聖堂の脇のほうへ、抜けていく。


 銀色の頭は、動かなかった。


 大聖堂の脇の扉が、開いていた。扉の脇に立つ侍祭たちの足もとには、真昼の小さな影が、溜まっていた。


 黒い外套の足もとには、何もなかった。


 その背中が、扉の奥へ、吸いこまれていった。


 ――すぐ戻る。ここにいろ。


 しわがれた声が、耳の奥でした。


 雪の路地裏だった。熱を出した年上の少年を担いで、パイプの老人が、遠ざかっていく。ふたりぶんの背中が、雪の向こうに、見えなくなっていく。


 喉の奥で、名が、止まっていた。


 広場が、ざわめいた。顔という顔が、続きを待っている。


 扉が、閉まった。


 アルバンは、ランタンを、下ろした。


 帳面を、閉じた。


 侍祭長が、にこにこと、こちらを覗きこんだ。


「アルバンさま?」


 アルバンは、その横を、すり抜けた。


 今度は、待たなかった。


 大階段を、駆け下りた。白い布を張りめぐらせた段を、一段とばしに。白い花の山の脇を。


 一度だけ、振り返った。


 大階段の上で、侍祭長が、こちらを見下ろしていた。


 にこにことした顔が、そのまま、固まっていた。


 見たことのない顔だった。


 人波を、かきわけた。足の下で、白い花が、いくつも潰れた。巡礼たちが、ふしぎそうに、道をあけていく。


 扉を、押し開けた。


 白い回廊を、駆けた。ひとつ抜けるごとに、壁も床も、白さを増していく。槍を立てた衛士たちのあいだを、抜けた。誰も、止めなかった。


 白陽の間の入り口で、アルバンは、足を止めた。


 祭壇の上で、白い光の球(たま)が、息をするように、膨らんでは、しぼんでいた。


 その前に、黒い外套が立っていた。


 祭壇のすぐ前では、小さな背中が、膝をついて祈っていた。


 その背中が、振り返らずに、言った。


「……来たか」


 黒い外套が、答えた。


「来るかどうかは、自分で決めろって、言ったよな」


 低い声だった。


「決めて、来た。……入るかどうかも、俺が決める」


 猊下は、何もお答えにならなかった。祈りつづけていらした。


 アルバンは、広間に入って、黒い外套の隣まで歩いた。


 白い闇司祭は、こちらを見なかった。光を見上げたまま、言った。


「……来たのかよ」


 アルバンは、息を整えた。


「見届けるのが、私の務めですので。……今日までは」


 白い闇司祭が、ちらりと、こちらを見た。


「……大階段は、どうした」


 アルバンは、答えなかった。


 大階段の上に、広場を、置いてきた。言いかけた名と、いっしょに。


 外では、午後が過ぎていくのだろう。日が傾き、沈んで、また、白い夜になるのだろう。


 ときどき、白い闇司祭の体が、光のほうへ傾いた。そのたびに、奥歯を噛む音がした。白い床を、足が、踏みしめなおす。


 猊下は、一度も、振り返られなかった。


 白い闇司祭が、前を向いたまま、ぽつりと言った。


「……お前、あの晩」


 声が、かすれていた。


「どれくらい、待った」


 アルバンは、すぐには答えなかった。


 ランタンの中で、白い火が、音もなく燃えていた。


「朝まで、です」


 自分の声が、ひどく静かに聞こえた。


「ここにいろと、言われましたので」


 白い闇司祭は、何も言わなかった。


 やがて、短く、息を吐いた。


「……そうか」


 ふたりとも、しばらく、黙っていた。


 アルバンは、口を開いた。


「……死にますよ」


 白い闇司祭は、光から目を離さずに、答えた。


「知ってる」


 アルバンは、ランタンの取っ手を、握りなおした。


「なぜ、逃げないのですか」


 白い闇司祭は、少し、黙った。


「ここで、唄が歌われる」


 琥珀色の目が、祭壇の上の光を、睨んでいた。


「泣けねえ子のための唄だ」


 ひと息、間があいた。


「……暗くねえと、歌えねえ」


 アルバンは、その横顔を見た。


「……泣けない子とは、誰のことですか」


 白い闇司祭の目が、光から、下りた。


 祭壇の前の、小さな背中を、見ていた。


 しばらくして、言った。


「……さあな」


 アルバンも、その背中を見た。


 背中は、祈りつづけていた。


◆


 灰色の頭が、人波を割って、あの扉の奥へ消えていくのを、ミレイアは、見ていた。


 広場は、しばらく、ざわめいていた。やがて、巡礼たちは、また、白い花を置きはじめた。


 扉の前には、侍祭がふたり、笑顔で立っていた。ミレイアは、扉を叩かなかった。真夜中に、と言ったのだ。


 扉は、それきり、開かなかった。


 巡礼宿へ戻ると、食堂の卓で、ヘルミが待っていた。


 ミレイアの顔を見て、立ち上がった。シエルが、その袖を握っていた。


 ミレイアは、ヘルミの前に立った。


「……呼ばれて、行きました。真夜中まで、もたせる、と」


 ヘルミは、唇を結んだ。


 また、椅子に座った。膝の上で、両手を組んだ。


「では、真夜中に」


 卓の端で、ゴドフロワが、膝の上の大きな手を、握った。


 シエルは、窓の外を見ていた。白い屋根の向こうで、丸い屋根の光が、昼に見たときより、大きく見えた。


「……レオにいちゃん、ひとりで、いっちゃったの?」


 窓のほうを向いたまま、シエルが訊いた。


 ミレイアは、ひと息、黙った。


「……はい」


 シエルは、それきり、何も言わなかった。窓枠を、両手で、握っていた。


 日が沈んでも、空は、乳色に白んだままだった。


 侍祭たちが、巡礼宿へ迎えに来たのは、真夜中の少し前だった。


「お迎えにあがりました、ソレーヌさま」


 ヘルミは、何も言わずに、立ち上がった。


 シエルが、その手を握った。ゴドフロワとミレイアは、そのうしろについていった。侍祭たちは、笑ったまま、黙っていた。


 大聖堂の奥へ、白い回廊を、いくつもくぐった。


 前を行くヘルミの背中は、まっすぐだった。シエルとつないだ手だけが、ときどき、小さく震えていた。


 足もとの影が、ひとつくぐるごとに、淡くなっていく。胸の聖印が、少しずつ、ぬるくなっていく。


 あの日、ミレイアが足を止めた回廊の入り口に、今も、白い外套の衛士たちが並んでいた。


 その前に、白い手袋の男が、立っていた。にこにこと、笑っていた。


「ようこそ、お越しくださいました。ソレーヌさま」


 正午の大階段から、広場に響いていた声だった。侍祭長だ。


 ヘルミの足が、止まった。


「私は、ヘルミです」


 かすかな声では、なかった。


 侍祭長は、笑顔のまま、白い手袋の手を、胸の前で組んだ。


「唄を、お歌いになるおつもりと、伺っております」


 ミレイアは、息を止めた。


 食堂の戸口で、いつも笑っていた白い衣を、思い出した。


 侍祭長の声が、続いた。


「儀の妨げは、なりません」


 衛士たちの槍が、ヘルミの前で、交差した。


 侍祭長は、組んだ手を、ほどかなかった。


「聖女さまには、儀が済みますまで、こちらで、お休みいただきます」


 衛士がふたり、進み出た。白い外套の腕が、ヘルミの腕へ、伸びる。


 シエルが、ヘルミの手に、しがみついた。


 その前に、大きな背中が、割りこんだ。


 ゴドフロワだった。


 剣帯のない腰。何も持たない、大きな手。


 伸びてきた衛士の腕を、胸で受けとめた。それから、交差した二本の槍の柄(え)を、両手で、まとめて掴んだ。


 押し上げた。


 穂先が、天井を向いた。槍の下に、道が、ひらいた。


 ミレイアは、言った。


「行ってください」


 ヘルミが、こちらを見た。淡い金色の目が、一度だけ、揺れた。


 それから、シエルの手を引いて、槍の下をくぐった。


 白い回廊の奥へ、ふたつの足音が、駆けていった。


 衛士たちが、あとを追おうとした。


 ゴドフロワが、槍を放して、回廊の真ん中に立った。


 両手を、ゆるく開いたまま。


「……通さぬ」


 低い声だった。


 衛士たちの足が、止まった。


 いちばん前の衛士が、ゴドフロワの顔を見て、目を見開いた。


「……騎士団長、どの」


 ゴドフロワは、答えなかった。


 うしろの衛士たちが、顔を見合わせた。半歩、退いた者もいた。


 衛士たちのうしろで、侍祭長が、言った。


「聖女さまを、お連れ戻しください」


 衛士たちが、動いた。


 槍の柄が、ゴドフロワの肩を打った。鈍い音がした。


 ゴドフロワは、倒れなかった。


 二本目が、脇腹を打った。三本目が、額をかすめた。


 ミレイアの指が、剣にかかった。


 四本目は、穂先だった。まっすぐに、胸へ。


 ゴドフロワの大きな手が、その柄を、素手で掴んで、止めた。衛士が引いても、押しても、槍は、少しも動かなかった。


 白い髭が、揺れた。それでも、膝は、折れなかった。


 ミレイアは、その隣に、立った。


 剣を、抜いた。


 衛士たちの穂先が、いっせいに、こちらを向いた。


「斬りません」


 ミレイアは、言った。


「止めます」


 別の柄が、ゴドフロワへ振り下ろされた。


 剣の腹で、払った。柄が、白い壁を打って、乾いた音を立てた。


 突き出された穂先を、逸らした。踏みこんできた衛士の手首を、剣の腹で打った。槍が、白い床に転がった。


 ミレイアは、一歩も、下がらなかった。


 背中の向こうに、回廊が続いていた。その奥の、そのまた奥に、あの人がいる。


 隣には、いられない。


 ここを、自分で、選んだのだ。


 回廊の向こうから、新しい足音が、駆けてきた。白い外套が、またいくつも、衛士たちのうしろに並んだ。


 衛士たちが、列を組みなおした。穂先が、そろって、こちらを向いた。


 打ちかかっては、こなかった。


 回廊に、荒い息だけが、残った。


 侍祭長は、衛士たちのうしろで、にこにこと笑っていた。胸の前で組んだ白い手袋の手は、少しも、動かなかった。


 ゴドフロワの額から、血が、ひと筋、白い髭へ伝っていた。


 ミレイアは、横目で、その顔を見た。


「団長。額が」


 ゴドフロワは、それを拭いもせずに答えた。


「……大事ない」


 白い髭の顔が、回廊の奥へ、向いた。


 ふたつの足音は、もう、聞こえなかった。


 ゴドフロワが、低く言った。


「……泣ける場所、か」


 冬至の夜明けに、この人は、ミレイアに訊いたのだ。お前の剣は、何のためにある、と。


「はい」


 ミレイアは、剣を構えたまま、答えた。


 胸の聖印が、熱くなった。


 ぬるいのでは、なかった。焼けるように、熱い。


 回廊の奥で、何かが、膨らんでいく気がした。息をするたびに、大きく。


 ミレイアは、剣を、握りなおした。


◆


 どれほど、そうして立っていたのか、わからなかった。


 真夜中が、近い。


 それだけは、わかった。胸の底の白が、知っていた。


 祭壇の上で、白い光が、膨らんだ。


 これまでのどの息よりも、大きく。広間の白さが、もうひとつ、白くなった。


 光の奥に、顔のない白いものが見えた。口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく、微笑んでいた。


 ――おいで。


 胸の中で、声がした。


 胸の底の何かが、応えた。


 ――ああ。


 足が、前へ出かけた。


 踏みとどまった。


 指の先が、ちりちりと、あたたかかった。見下ろすと、指先が、透けていた。爪のあいだから、白い光が、漏れている。


 冬至の夜、地の底の祭壇で、ヘルミの手が、こうなった。


 隣で、アルバンが、息を詰めた。


 レオニスは、両手を、器のように丸めた。


「我、欲す」


 声が、かすれた。


「――手のひらひとつぶんの、夜を」


 手のひらの底に、暗さが、溜まりかけた。


 溜まらなかった。


 白い光に削られて、溜まるそばから、さらさらと、崩れていく。


 もう一度、すくった。


 崩れた。


 もう一度。


 崩れた。


 外套の内側で、紙が、かさりと鳴った。


 小さく、固く、畳んだ紙だった。


 ――泣きてえときに読め。


 泣きてえ、と思った。


 初めて、そう思った。


 白陽の間は、眩しいほど明るかった。汚い字が、ひと文字ずつ、くっきりと読めた。


 透けかけた指を、畳み目にかけた。


 開いた。


 ――寝坊助。開けたんなら、泣きてえんだろ。泣け。


 ――てめえを拾ったのは、誰の代わりでもねえ。


 息が、止まった。


 迎えに行って、追い返されて、その帰りに拾ったのだと、思っていた。行き場のなくなった鍋の、ついでに。


 ――あの晩の鍋は、てめえと、あのちびが、からにした。俺のシチューは、ちゃんと、食われた。


 ――それで、十分だ。


 紙の端が、震えていた。


「……十分なわけ、ねえだろ」


 声に、出ていた。


 胸の底から、何かが、こみあげてきた。


 雪の路地裏の、湯気。ひび割れた唇の痛み。隣のちびの前に置いた、あの晩の椀(わん)。


 焚き火の向こうの、丸い背中。パイプの煙。


 ――起きろ、寝坊助。


 朝ごとに、そう言って、師匠に蹴飛ばされた。


 最後の朝だけ、蹴飛ばされなかった。


 熱いものが、喉の奥まで、せりあがってきた。


 ――もう、泣かなくていい。


 光の奥で、あの知らない男の声が、言った。


 白い光が、こみあげてきたものの上に、ふわりと、降り積もった。雪のように。あたたかく。


 湯気が、遠くなる。煙が、遠くなる。声が、遠くなっていく。


 こみあげるほど、白が、満ちていく。


 泣けなかった。


 透けたところが、指先から、手の甲へ、広がっていった。


 紙を、外套の内側に押しこんだ。もう一度、両手を、丸めた。


 祭壇の前で、静かな声がした。


「……泣かずともよい。白陽の中では、誰も、泣かずともよいのだ」


 レオニスは、その背中を見た。


「……あんたは」


 喉が、ひりついた。


「泣きたかったこと、ねえのか」


 背中は、しばらく、動かなかった。


「……覚えておらぬ」


 ――おいで。


 あの声が、呼んだ。


 足が、一歩、出た。


 白い光のほうへ。


 ――帰ってきてください。


 ゆうべ、屋根の上で、聞いた。


 おう、と答えた。答えたのだ。


 足は、止まらなかった。


 腕を、掴まれた。


「――また、置いていくのですか!」


 アルバンだった。


 聞いたことのない声だった。


 見開かれた目が、こちらを見ていた。硬く、整った微笑みは、どこにもなかった。


 レオニスは、その顔を見た。


「……悪い」


 声が、震えた。


「……泣けねえんだ」


 アルバンの指が、腕に、食いこんでいた。


 もう片方の手に、ランタンを提げていた。


 その冷たい光が、レオニスの手の中を、照らしていた。すくいかけた夜のふちが、白陽の光に削られ、ランタンの光にも、削られていく。


 アルバンの目が、それを見た。


 自分の手の、ランタンを見た。


 腕を掴んでいた手が、離れた。


 その手が、真鍮(しんちゅう)の覆いに、かかった。


 かちり、と、音がした。


 覆いが、閉じた。


 あのランタンの覆いが閉じるのを、レオニスは、初めて見た。


 冷たい光が、消えた。


 それでも、手の中の夜は、崩れていった。白陽の光が、まだ、ふちを削っていた。


 透けたところが、手首を越えていた。


 足音がした。


 軽い足音と、もうひとつ。広間の入り口から、駆けこんでくる。


 レオニスは、肩ごしに、振り返った。


 シエルだった。ヘルミの手を、握っていた。


 ヘルミが、足を止めた。淡い金色の目が、レオニスの手を見ていた。透けた指と、そこからこぼれていく、砂のような暗さを。


 ヘルミは、つないでいた手を、そっと、ほどいた。シエルの背中に、手を添えて、押した。


 シエルが、駆けてきた。


 まっすぐに、レオニスの前まで。


 崩れていく手のひらの下に、小さな両手を、差し入れた。


 下から、重ねた。


「……はんぶんこ」


 シエルが、こちらを見上げた。


「レオにいちゃんが、おしえてくれたんだよ」


 そばで、ランタンの取っ手が、かすかに鳴った。


 ふたりの手のあいだに、暗さが、溜まった。


 崩れなかった。


 こぼれかけた暗さを、下の手が、受けとめていた。


 シエルの手のほうが、少しだけ、暗かった。


 小さな、夜だった。


 レオニスは、その夜の上に、顔を伏せた。


 暗かった。


 何も、見えなかった。誰にも、見えなかった。


 喉の奥で、何かが、ほどけた。


「……師匠」


 四年ぶんの、声だった。


 四年前の、楡(にれ)の木の下。目を開けたら、剣と、紙切れだけが、枕もとにあった。


「……起こしてけよ」


 涙が、こぼれた。


 ひと粒こぼれたら、もう、止まらなかった。重ねた手の上に、落ちた。下の手は、それでも、離れなかった。


 指先から、白が、落ちていった。冷たい水になって、ぽたり、ぽたりと。白い床の上で、雨のような音がした。


 透けていた手に、色が戻ってくる。


 レオニスは、泣いた。


 しゃくりあげて、泣いた。みっともない声だった。止めようとは、思わなかった。


 足もとに、何かが、落ちていた。


 薄い、薄い、影だった。


 影の落ちないはずの、この広間で。


 胸の底で、あの声は、もう、呼んでいなかった。


 すぐ横で、息を呑む音がした。


 レオニスは、濡れた顔を、上げた。


 アルバンが、重なった手を、見ていた。


 閉じたランタンを提げたまま、身じろぎもせずに。小さな手が、大きな手を、下から支えているのを。


 唇が、声にならずに、動いた。はんぶんこ、と、なぞったように見えた。


 その目が、ゆっくりと、こちらへ上がった。


「……あの窓辺の、はんぶんこも」


 かすれた声だった。


「……あなた、だったのですか」


 アルバンの顔が、くしゃりと、歪んだ。


 泣きだす前の、子供の顔だった。


 それから、アルバンは、泣いた。


 閉じた覆いの隙間から、火が、漏れていた。


 白い火では、なかった。ゆらりと揺れて、ただの火の色に、なっていた。


 シエルが、片手を、そっと抜いた。


 アルバンの、ランタンを提げていないほうの手を、つかまえた。


「……アルも」


 引きよせて、重ねた。


 三人の手の中に、夜があった。


 レオニスは、泣きながら、祭壇を見た。


 すぐ目の前だった。


 重ねた手を、そのまま、祭壇の上に、下ろした。


「我、欲す」


 声は、涙で、ぐしゃぐしゃだった。


「――誰も、ひとりで泣かなくていい夜を」


 ――もう誰も、夜にひとりで泣かなくていい、終わらない昼を。


 冬至の夜、地の底の祭壇で、ヘルミが祈った言葉だった。


 うしろで、ヘルミの、しゃくりあげる声がした。


 夜が、あふれた。


 重ねた手のあいだから。祭壇の上へ。白い床へ。音もなく広がって、白陽の間を、満たしていく。


 手のひらから、夜の行く先が、伝わってきた。白い回廊を、いくつも、いくつも、駆け抜けていく。回廊の衛士たちの上へ。白い花で埋まった大広場の上へ。窓掛けのない窓の上へ。


 空へ。


 祭壇の上の白い光が、縮んでいった。


 しぼんで、しぼんで――ランタンの火ほどの大きさで、止まった。


 消えは、しなかった。


 白陽の間が、暗くなった。


 祭壇の上の、ひと粒の白。覆いの隙間から漏れる、ランタンの火。暗い広間に灯っているのは、それだけだった。


 膝から、力が抜けた。


 レオニスは、白い床に、座りこんだ。重ねた手は、ほどけなかった。シエルも、アルバンも、いっしょに、床に膝をついていた。


 暗がりの中で、ヘルミが、息を吸った。


「ねんね ねんね ひが しずむ」


 声が、震えていた。それでも、途切れなかった。


「よるの かあさま ひを だいて」


 祭壇の上で、ひと粒の白が、かすかに揺れた。


「ないても いいよ よるの なか」


 三行目で、ヘルミの声が、揺れた。


 それから――


「おいで おいで なけない こ」


 ――兄貴は、いつか届けると言っていた。


 師匠の汚い字が、まぶたの裏に、浮かんだ。


 祭壇の前で、衣擦れの音がした。


 小さな背中が、ゆっくりと、立ち上がった。


◆


 聖都に、夜が降りた。


 都ができてから、初めての夜だった。


 乳を溶かしたような白が、空から、引いていった。空が、深くなっていく。青く。それから、もっと深く。


 星が、灯った。


 ひとつ。またひとつ。白い屋根の海の上に、数えきれないほど。


 通りに面した窓辺で、男の子が、窓枠につかまって、空を見ていた。いつか、巡礼宿の前で、寝癖を指さした子だった。


「……これが、よる?」


 うしろから、母親が、男の子を抱きしめていた。


 母親は、空を見上げたまま、泣いていた。


 大広場では、白い花を抱えた巡礼たちが、ひとり、またひとりと、石畳に座りこんでいた。


 泣く者がいた。笑う者がいた。目を閉じて、そのまま眠ってしまう者もいた。


 星を見ずに、白い花に、顔をうずめる者もいた。


 広場の端の石段では、ひとりの女が、荷の底から、靴を取り出していた。片方だけの、小さな靴だった。


 女は、それを、膝の上に置いた。白の高原の焚き火のそばで、そうしていたように。


 それから、声を上げて泣いた。


 いつか、白い棺を担いで、笑いながら通りを横切っていった男が、家の戸口で、膝を抱えていた。肩が、震えていた。


 大聖堂の前では、白い衣の侍祭たちが、空を仰いでいた。にこにこと笑ったまま、首をかしげている者が多かった。ひとりだけ、笑うのをやめて、両手で顔を覆った者がいた。


 大聖堂の地下の書庫では、灯りのない書架のあいだが、まっくらになっていた。天井近くの高い窓だけが、ほのかに青い。


 いちばん奥の小部屋から、痩せた男が、手さぐりで出てきた。窓の下に、書架の梯子が立てかけてある。男は、それを、一段ずつ、上った。


 窓に、額を、押しつけた。


 窓の外に、星があった。


 男は、動かなかった。頬が、濡れていた。手巾は、握ったままだった。


 やがて、梯子を下りて、小部屋へ戻った。王都から持ってきた、短い蝋燭を一本、懐から出して、灯した。


 ただの火の色だった。


 男は、その蝋燭を、開いたままの三百年前の書の横に、置いた。


 白い回廊では、衛士たちの槍が、下がっていた。


 回廊の窓から、星の光が、さしこんでいた。ゴドフロワは、壁にもたれて、座りこんでいた。額の血は、乾きかけていた。灰色の目が、窓の星に向いていた。


 ミレイアは、剣を、収めた。


 胸の聖印は、冷たかった。


 回廊の奥から、足音が近づいてきた。


 ぺたり、ぺたりと、裸足の足音だった。


 骨の浮いた、小柄な老人だった。白い衣の裾を引きずって、回廊を歩いてくる。


 衛士たちが、槍を取り落として、膝をついた。


 衛士たちのうしろで、侍祭長が、声を上げた。


「猊下――」


 その声から、笑みが、抜けていた。


 老人は、答えなかった。


 ゴドフロワの前を過ぎ、ミレイアの前を過ぎた。誰のほうも、見なかった。


 回廊を抜け、大聖堂を抜けて、大階段のいちばん上に、出た。侍祭長と、衛士たちを束ねる男が、そのあとを追った。


 老人は、夜空を、見上げた。


 長いこと、そうしていた。


 広場の巡礼たちは、誰も、大階段の上の老人を見なかった。皆、空を見ていた。


 老人の唇が、動いた。


「……これが、星か」


 衛士たちを束ねる男が、膝をついた。


「猊下。闇司祭どもを――」


 老人は、振り返らなかった。


「……追わずともよい」


 もう一度だけ、星を見た。


 それから、裸足のまま、白陽の間へ、戻っていった。


 大階段の上には、侍祭長が、ひとり残っていた。白い手袋の手を、胸の前で組んだまま、星を見上げていた。笑っては、いなかった。


 遠い王都の、地の底で。


 女神の胸の守り火が、ぱちりと、爆ぜた。


◆


 真夜中に、迎えに行くと言った。


 裸足の老人が、また、回廊を戻っていった。その足音が奥へ消えるまで、誰も、動かなかった。


 ミレイアは、歩きだした。


 ゴドフロワが、壁にもたれたまま、小さく顎を引いた。


 衛士たちは、もう、止めなかった。


 暗い回廊を、いくつも、くぐった。くぐっても、もう、白さは増さなかった。窓の星明かりだけが、足もとを照らしていた。


 回廊の壁ぎわで、衛士がふたり、槍を抱えたまま、肩を寄せあって眠りこんでいた。


 回廊は、長かった。


 最後の回廊の高い窓が、うっすらと、白みはじめていた。


 白陽の間に、入った。


 祭壇の上に、白い光が、ぽつりと灯っていた。少しずつ、明るさを取り戻していくところだった。


 床に、レオニスが、寝転がっていた。


 頭を、シエルの膝にのせていた。シエルは、亜麻色の髪を揺らして、こくり、こくりと、舟をこいでいた。


 シエルのそばで、ヘルミが、膝を抱えて座っていた。泣き腫らした目で、ミレイアを見て、小さく笑った。


「……歌えました」


 レオニスの反対側に、アルバンが座っていた。


 膝の横に、ランタンが置いてあった。閉じた覆いの隙間から、火が漏れていた。


 アルバンは、眠っていなかった。目のふちを赤くして、眠りかけた顔を、見ていた。


 眠りかけているのは、年上のほうだった。


 祭壇の前には、小さな背中があった。裸足の、あの老人だった。こちらに背を向けて、座っていた。


 レオニスの腹の虫が、盛大に鳴いた。


 シエルが、目を開けた。


「……おなか」


 それだけ言って、また、舟をこぎはじめた。ヘルミが、口もとを押さえて、肩を震わせていた。


 アルバンの手が、懐の白い革の帳面へ伸びかけて、引っこんだ。


 ミレイアは、レオニスのそばに、膝をついた。


 顔を、覗きこんだ。


 頬に、いくすじも、涙の跡があった。目のふちが、赤い。まぶたが、半分、落ちかけていた。


 まつげが、まだ、濡れていた。


「……泣いているんですか」


 琥珀色の目が、ミレイアを見た。


「……ああ」


 かすれた声だった。


「泣いてる」


 ミレイアは、少しだけ、黙った。


「……そうですか」


 隣に、腰を下ろした。


 間を、あけずに。


 アルバンが、口を開いた。


「……あの手紙を、読ませていただけますか」


 レオニスが、目だけを動かして、アルバンを見た。


 じっと、見ていた。


 外套の内側に、手を入れた。角のすっかり丸くなった封を、アルバンのほうへ、差し出した。開いたままの小さな紙を、その上に重ねた。


「……これもだ」


 アルバンは、両手で、それを受け取った。


 ランタンの覆いを、細く開けた。ただの火の色の光が、汚い字を、照らした。


 几帳面な指が、一行ずつ、字をなぞっていく。峠の上で、祠の碑文を読みあげたときと、同じ指だった。


 その指が、止まった。


 唇が、動いた。


「――俺が、朝まで待たせた」


 記録を読む、あの平らな声だった。


 声が、途切れた。


「……あのちびに、すまねえ」


 平らでは、なかった。


 アルバンは、もう一枚の、小さな紙を見た。


 指が、一行の上で、止まった。


 そのまま、動かなかった。


 アルバンは、目を閉じた。閉じたまぶたの端から、ひと筋、伝った。


 レオニスのまぶたが、落ちかけていた。


 ミレイアは、言った。


「……朝寝の、時間です」


 レオニスの口の端が、かすかに、上がった。


 まぶたが、閉じた。


 寝息が、聞こえた。


 深い、ゆっくりとした寝息だった。


 扉ごしに、一睡もせず、と書いた晩から、白い夜を十九、数えてきた。


 アルバンが、目を開けた。


 二枚の紙を、そっと畳んで、レオニスの胸の上に置いた。


 白い革の帳面を出して、まっさらな頁を開いた。


 几帳面な字が、一行だけ、並んだ。


 ――朝寝、


 アルバンは、そこで、ペンを置いた。長さは、起きてから書くのだろう。


 ミレイアは、その一行を、横目で見た。


 懐から、罪状帳を出した。


 頁のいちばん上に、ふたつの名前を書いた。最初の一字で、ペンは、止まらなかった。


 その下に、書いた。


 ――夏至の夜:


 そこで、ペンが止まった。


 書くことは、いくらでもあった。何から書けばいいのか、それだけが、わからなかった。


 隣で、寝息が、続いていた。


 いちばん短い夜が、明けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。