最終章 いちばん短い夜
一年でいちばん長い昼の、真ん中だった。
大広場は、巡礼で埋まっていた。
白い服の人々が、白い花を抱いて、石畳の端から端まで、肩を寄せあって立っている。白い幟が、真昼の風に、はためいていた。大階段の下の白い花の山は、九日前に見たときより、ずっと高くなっていた。
どの顔も、穏やかに笑っていた。
レオニスは、その人波の中ほどに立っていた。
眠っていない頭が、白い光の中で、ぼんやりと重かった。
大階段の上に立ってくれと、アルバンには言われた。言われた奴の隣にいる、と答えた。だから、ここにいる。
隣には、ミレイアがいた。
今朝、屋根から梯子を下りると、下に、ミレイアが立っていた。罪状帳を胸に抱えて、こちらの足もとを見た。
何も、言わなかった。帳面も、開かなかった。
ヘルミとシエルは、巡礼宿に残っている。白陽の聖女が広場にいると知れたら、人が集まる。ゴドフロワがそう言って、自分も宿に残った。
前に立っていた巡礼の婆さんが、振り返って、白い花を一輪、レオニスの手に押しつけてきた。
「あなたも、どうぞ。今日は、猊下の祝福の日ですからね」
穏やかな笑顔だった。
レオニスは、花を受け取った。どこに置けばいいのか、わからなかった。
ミレイアが、ぽつりと言った。
「……今朝は、まだ、書いていません」
レオニスは、ミレイアの胸の帳面に、目をやった。
「……書くこと、ねえのか」
ミレイアは、大階段の上を見たまま、答えた。
「あります」
ミレイアは、帳面を、胸に引きよせた。
「書きたくないだけです」
レオニスは、寝癖の頭を、掻いた。
大階段のいちばん上に、白い衣の男が、小さく見えた。そのうしろに、灰色の頭も見えた。
侍祭長だという。その男が、巻いた紙を広げて、よく通る声で、読みあげていく。
「――白陽は、沈まず」
広場じゅうの巡礼が、声をそろえて、同じ言葉を繰り返した。巡礼たちの声が、ひとつになって、広場を渡っていった。どの声も、うれしそうだった。
侍祭長が、次の一行を、読みあげた。
「――白陽のもとに、夜はなく、泣く者もなし」
泣く者もなし。
この広場で、昼間から泣いた奴を、ひとり、知っている。
レオニスは、ちらりと、ミレイアを見た。ミレイアは、大階段のほうを向いたまま、帳面を胸に押さえていた。
あの爺さんの、祝福だという。爺さん本人は、人前には出てこないのだそうだ。
陽は、真上にあった。
誰の影も、真下に縮んで、足もとに、小さく溜まっていた。
レオニスの足もとには、何もなかった。
今朝、屋根の上で消えたきり、戻ってこない。
――おいで。
声がした。
耳では、なかった。
胸の中だった。
――おいで。
指から、白い花が、落ちた。
足が、一歩、前へ出た。
大聖堂の、奥のほうへ。
自分で出した足では、なかった。
袖を、掴まれた。
振り返ると、ミレイアが、外套の袖を握っていた。指に、力がこもっていた。
レオニスは、自分の足もとを見下ろした。それから、ミレイアの顔を見た。
「……呼ばれてる。返事、してくる」
ミレイアは、何も言わなかった。袖を握ったまま、こちらを見ていた。
レオニスは、言い足した。
「真夜中まで、もたせる。ヘルミの唄が、届くまでな」
大階段の上で、侍祭長の声が、やんだ。白い花の香りが、むせるほど濃い。
――おいで。
胸の底で、また、声がした。
ミレイアが、口を開いた。
「監視対象ですので」
平らな声だった。
袖を握っていた指が、ひとつずつ、ほどけていった。
「……真夜中に、迎えに行きます」
ミレイアは、笑わなかった。唇を、固く結んでいた。
レオニスは、少しだけ、笑った。
背を向けて、歩きだした。振り返らずに、片手だけ、上げた。
巡礼たちのあいだを、抜けていく。誰も、こちらを見なかった。皆、大階段の上を見上げて、笑っていた。
背中で、聞きなれた声が、広場に響いた。
「聞いてください」
大聖堂の脇に、白い扉があった。
侍祭がふたり、その前で、にこにこと笑って待っていた。
「お待ちしておりました、白い闇司祭さま」
扉が、開いた。
奥に、白い回廊が、どこまでも続いていた。
◆
祝福が、終わった。
侍祭長が、白い手袋の手で、紙を巻いた。笑顔のまま、一歩、うしろへ下がる。
アルバンは、前へ出た。
大階段のいちばん上から、大広場が、見渡せた。
白い顔だった。何千、何万の白い顔が、こちらを見上げていた。誰も、泣いてはいなかった。
この人たちは、知らない。三百年、拝んできた光のはじまりに、誰がいたのかを。
白い人波の中に、銀色の頭が、ひとつ見えた。その隣に、黒い外套。
ランタンを、掲げた。真昼の光の中で、白い火は、ほとんど見えない。かまわなかった。
片手で、白い革の帳面を開いた。祠の碑文を写した頁だった。
――我らが友、白き
その先に、名がある。
今日、この名を、呼ぶと決めていた。
息を、吸った。
「聞いてください」
声は、広場の端まで、届いた。
「開祖さまは――」
そのときだった。
黒い外套が、動いていた。
白い人波の中の、ひとつだけの黒が、巡礼たちのあいだを縫って、大聖堂の脇のほうへ、抜けていく。
銀色の頭は、動かなかった。
大聖堂の脇の扉が、開いていた。扉の脇に立つ侍祭たちの足もとには、真昼の小さな影が、溜まっていた。
黒い外套の足もとには、何もなかった。
その背中が、扉の奥へ、吸いこまれていった。
――すぐ戻る。ここにいろ。
しわがれた声が、耳の奥でした。
雪の路地裏だった。熱を出した年上の少年を担いで、パイプの老人が、遠ざかっていく。ふたりぶんの背中が、雪の向こうに、見えなくなっていく。
喉の奥で、名が、止まっていた。
広場が、ざわめいた。顔という顔が、続きを待っている。
扉が、閉まった。
アルバンは、ランタンを、下ろした。
帳面を、閉じた。
侍祭長が、にこにこと、こちらを覗きこんだ。
「アルバンさま?」
アルバンは、その横を、すり抜けた。
今度は、待たなかった。
大階段を、駆け下りた。白い布を張りめぐらせた段を、一段とばしに。白い花の山の脇を。
一度だけ、振り返った。
大階段の上で、侍祭長が、こちらを見下ろしていた。
にこにことした顔が、そのまま、固まっていた。
見たことのない顔だった。
人波を、かきわけた。足の下で、白い花が、いくつも潰れた。巡礼たちが、ふしぎそうに、道をあけていく。
扉を、押し開けた。
白い回廊を、駆けた。ひとつ抜けるごとに、壁も床も、白さを増していく。槍を立てた衛士たちのあいだを、抜けた。誰も、止めなかった。
白陽の間の入り口で、アルバンは、足を止めた。
祭壇の上で、白い光の球が、息をするように、膨らんでは、しぼんでいた。
その前に、黒い外套が立っていた。
祭壇のすぐ前では、小さな背中が、膝をついて祈っていた。
その背中が、振り返らずに、言った。
「……来たか」
黒い外套が、答えた。
「来るかどうかは、自分で決めろって、言ったよな」
低い声だった。
「決めて、来た。……入るかどうかも、俺が決める」
猊下は、何もお答えにならなかった。祈りつづけていらした。
アルバンは、広間に入って、黒い外套の隣まで歩いた。
白い闇司祭は、こちらを見なかった。光を見上げたまま、言った。
「……来たのかよ」
アルバンは、息を整えた。
「見届けるのが、私の務めですので。……今日までは」
白い闇司祭が、ちらりと、こちらを見た。
「……大階段は、どうした」
アルバンは、答えなかった。
大階段の上に、広場を、置いてきた。言いかけた名と、いっしょに。
外では、午後が過ぎていくのだろう。日が傾き、沈んで、また、白い夜になるのだろう。
ときどき、白い闇司祭の体が、光のほうへ傾いた。そのたびに、奥歯を噛む音がした。白い床を、足が、踏みしめなおす。
猊下は、一度も、振り返られなかった。
白い闇司祭が、前を向いたまま、ぽつりと言った。
「……お前、あの晩」
声が、かすれていた。
「どれくらい、待った」
アルバンは、すぐには答えなかった。
ランタンの中で、白い火が、音もなく燃えていた。
「朝まで、です」
自分の声が、ひどく静かに聞こえた。
「ここにいろと、言われましたので」
白い闇司祭は、何も言わなかった。
やがて、短く、息を吐いた。
「……そうか」
ふたりとも、しばらく、黙っていた。
アルバンは、口を開いた。
「……死にますよ」
白い闇司祭は、光から目を離さずに、答えた。
「知ってる」
アルバンは、ランタンの取っ手を、握りなおした。
「なぜ、逃げないのですか」
白い闇司祭は、少し、黙った。
「ここで、唄が歌われる」
琥珀色の目が、祭壇の上の光を、睨んでいた。
「泣けねえ子のための唄だ」
ひと息、間があいた。
「……暗くねえと、歌えねえ」
アルバンは、その横顔を見た。
「……泣けない子とは、誰のことですか」
白い闇司祭の目が、光から、下りた。
祭壇の前の、小さな背中を、見ていた。
しばらくして、言った。
「……さあな」
アルバンも、その背中を見た。
背中は、祈りつづけていた。
◆
灰色の頭が、人波を割って、あの扉の奥へ消えていくのを、ミレイアは、見ていた。
広場は、しばらく、ざわめいていた。やがて、巡礼たちは、また、白い花を置きはじめた。
扉の前には、侍祭がふたり、笑顔で立っていた。ミレイアは、扉を叩かなかった。真夜中に、と言ったのだ。
扉は、それきり、開かなかった。
巡礼宿へ戻ると、食堂の卓で、ヘルミが待っていた。
ミレイアの顔を見て、立ち上がった。シエルが、その袖を握っていた。
ミレイアは、ヘルミの前に立った。
「……呼ばれて、行きました。真夜中まで、もたせる、と」
ヘルミは、唇を結んだ。
また、椅子に座った。膝の上で、両手を組んだ。
「では、真夜中に」
卓の端で、ゴドフロワが、膝の上の大きな手を、握った。
シエルは、窓の外を見ていた。白い屋根の向こうで、丸い屋根の光が、昼に見たときより、大きく見えた。
「……レオにいちゃん、ひとりで、いっちゃったの?」
窓のほうを向いたまま、シエルが訊いた。
ミレイアは、ひと息、黙った。
「……はい」
シエルは、それきり、何も言わなかった。窓枠を、両手で、握っていた。
日が沈んでも、空は、乳色に白んだままだった。
侍祭たちが、巡礼宿へ迎えに来たのは、真夜中の少し前だった。
「お迎えにあがりました、ソレーヌさま」
ヘルミは、何も言わずに、立ち上がった。
シエルが、その手を握った。ゴドフロワとミレイアは、そのうしろについていった。侍祭たちは、笑ったまま、黙っていた。
大聖堂の奥へ、白い回廊を、いくつもくぐった。
前を行くヘルミの背中は、まっすぐだった。シエルとつないだ手だけが、ときどき、小さく震えていた。
足もとの影が、ひとつくぐるごとに、淡くなっていく。胸の聖印が、少しずつ、ぬるくなっていく。
あの日、ミレイアが足を止めた回廊の入り口に、今も、白い外套の衛士たちが並んでいた。
その前に、白い手袋の男が、立っていた。にこにこと、笑っていた。
「ようこそ、お越しくださいました。ソレーヌさま」
正午の大階段から、広場に響いていた声だった。侍祭長だ。
ヘルミの足が、止まった。
「私は、ヘルミです」
かすかな声では、なかった。
侍祭長は、笑顔のまま、白い手袋の手を、胸の前で組んだ。
「唄を、お歌いになるおつもりと、伺っております」
ミレイアは、息を止めた。
食堂の戸口で、いつも笑っていた白い衣を、思い出した。
侍祭長の声が、続いた。
「儀の妨げは、なりません」
衛士たちの槍が、ヘルミの前で、交差した。
侍祭長は、組んだ手を、ほどかなかった。
「聖女さまには、儀が済みますまで、こちらで、お休みいただきます」
衛士がふたり、進み出た。白い外套の腕が、ヘルミの腕へ、伸びる。
シエルが、ヘルミの手に、しがみついた。
その前に、大きな背中が、割りこんだ。
ゴドフロワだった。
剣帯のない腰。何も持たない、大きな手。
伸びてきた衛士の腕を、胸で受けとめた。それから、交差した二本の槍の柄を、両手で、まとめて掴んだ。
押し上げた。
穂先が、天井を向いた。槍の下に、道が、ひらいた。
ミレイアは、言った。
「行ってください」
ヘルミが、こちらを見た。淡い金色の目が、一度だけ、揺れた。
それから、シエルの手を引いて、槍の下をくぐった。
白い回廊の奥へ、ふたつの足音が、駆けていった。
衛士たちが、あとを追おうとした。
ゴドフロワが、槍を放して、回廊の真ん中に立った。
両手を、ゆるく開いたまま。
「……通さぬ」
低い声だった。
衛士たちの足が、止まった。
いちばん前の衛士が、ゴドフロワの顔を見て、目を見開いた。
「……騎士団長、どの」
ゴドフロワは、答えなかった。
うしろの衛士たちが、顔を見合わせた。半歩、退いた者もいた。
衛士たちのうしろで、侍祭長が、言った。
「聖女さまを、お連れ戻しください」
衛士たちが、動いた。
槍の柄が、ゴドフロワの肩を打った。鈍い音がした。
ゴドフロワは、倒れなかった。
二本目が、脇腹を打った。三本目が、額をかすめた。
ミレイアの指が、剣にかかった。
四本目は、穂先だった。まっすぐに、胸へ。
ゴドフロワの大きな手が、その柄を、素手で掴んで、止めた。衛士が引いても、押しても、槍は、少しも動かなかった。
白い髭が、揺れた。それでも、膝は、折れなかった。
ミレイアは、その隣に、立った。
剣を、抜いた。
衛士たちの穂先が、いっせいに、こちらを向いた。
「斬りません」
ミレイアは、言った。
「止めます」
別の柄が、ゴドフロワへ振り下ろされた。
剣の腹で、払った。柄が、白い壁を打って、乾いた音を立てた。
突き出された穂先を、逸らした。踏みこんできた衛士の手首を、剣の腹で打った。槍が、白い床に転がった。
ミレイアは、一歩も、下がらなかった。
背中の向こうに、回廊が続いていた。その奥の、そのまた奥に、あの人がいる。
隣には、いられない。
ここを、自分で、選んだのだ。
回廊の向こうから、新しい足音が、駆けてきた。白い外套が、またいくつも、衛士たちのうしろに並んだ。
衛士たちが、列を組みなおした。穂先が、そろって、こちらを向いた。
打ちかかっては、こなかった。
回廊に、荒い息だけが、残った。
侍祭長は、衛士たちのうしろで、にこにこと笑っていた。胸の前で組んだ白い手袋の手は、少しも、動かなかった。
ゴドフロワの額から、血が、ひと筋、白い髭へ伝っていた。
ミレイアは、横目で、その顔を見た。
「団長。額が」
ゴドフロワは、それを拭いもせずに答えた。
「……大事ない」
白い髭の顔が、回廊の奥へ、向いた。
ふたつの足音は、もう、聞こえなかった。
ゴドフロワが、低く言った。
「……泣ける場所、か」
冬至の夜明けに、この人は、ミレイアに訊いたのだ。お前の剣は、何のためにある、と。
「はい」
ミレイアは、剣を構えたまま、答えた。
胸の聖印が、熱くなった。
ぬるいのでは、なかった。焼けるように、熱い。
回廊の奥で、何かが、膨らんでいく気がした。息をするたびに、大きく。
ミレイアは、剣を、握りなおした。
◆
どれほど、そうして立っていたのか、わからなかった。
真夜中が、近い。
それだけは、わかった。胸の底の白が、知っていた。
祭壇の上で、白い光が、膨らんだ。
これまでのどの息よりも、大きく。広間の白さが、もうひとつ、白くなった。
光の奥に、顔のない白いものが見えた。口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく、微笑んでいた。
――おいで。
胸の中で、声がした。
胸の底の何かが、応えた。
――ああ。
足が、前へ出かけた。
踏みとどまった。
指の先が、ちりちりと、あたたかかった。見下ろすと、指先が、透けていた。爪のあいだから、白い光が、漏れている。
冬至の夜、地の底の祭壇で、ヘルミの手が、こうなった。
隣で、アルバンが、息を詰めた。
レオニスは、両手を、器のように丸めた。
「我、欲す」
声が、かすれた。
「――手のひらひとつぶんの、夜を」
手のひらの底に、暗さが、溜まりかけた。
溜まらなかった。
白い光に削られて、溜まるそばから、さらさらと、崩れていく。
もう一度、すくった。
崩れた。
もう一度。
崩れた。
外套の内側で、紙が、かさりと鳴った。
小さく、固く、畳んだ紙だった。
――泣きてえときに読め。
泣きてえ、と思った。
初めて、そう思った。
白陽の間は、眩しいほど明るかった。汚い字が、ひと文字ずつ、くっきりと読めた。
透けかけた指を、畳み目にかけた。
開いた。
――寝坊助。開けたんなら、泣きてえんだろ。泣け。
――てめえを拾ったのは、誰の代わりでもねえ。
息が、止まった。
迎えに行って、追い返されて、その帰りに拾ったのだと、思っていた。行き場のなくなった鍋の、ついでに。
――あの晩の鍋は、てめえと、あのちびが、からにした。俺のシチューは、ちゃんと、食われた。
――それで、十分だ。
紙の端が、震えていた。
「……十分なわけ、ねえだろ」
声に、出ていた。
胸の底から、何かが、こみあげてきた。
雪の路地裏の、湯気。ひび割れた唇の痛み。隣のちびの前に置いた、あの晩の椀。
焚き火の向こうの、丸い背中。パイプの煙。
――起きろ、寝坊助。
朝ごとに、そう言って、師匠に蹴飛ばされた。
最後の朝だけ、蹴飛ばされなかった。
熱いものが、喉の奥まで、せりあがってきた。
――もう、泣かなくていい。
光の奥で、あの知らない男の声が、言った。
白い光が、こみあげてきたものの上に、ふわりと、降り積もった。雪のように。あたたかく。
湯気が、遠くなる。煙が、遠くなる。声が、遠くなっていく。
こみあげるほど、白が、満ちていく。
泣けなかった。
透けたところが、指先から、手の甲へ、広がっていった。
紙を、外套の内側に押しこんだ。もう一度、両手を、丸めた。
祭壇の前で、静かな声がした。
「……泣かずともよい。白陽の中では、誰も、泣かずともよいのだ」
レオニスは、その背中を見た。
「……あんたは」
喉が、ひりついた。
「泣きたかったこと、ねえのか」
背中は、しばらく、動かなかった。
「……覚えておらぬ」
――おいで。
あの声が、呼んだ。
足が、一歩、出た。
白い光のほうへ。
――帰ってきてください。
ゆうべ、屋根の上で、聞いた。
おう、と答えた。答えたのだ。
足は、止まらなかった。
腕を、掴まれた。
「――また、置いていくのですか!」
アルバンだった。
聞いたことのない声だった。
見開かれた目が、こちらを見ていた。硬く、整った微笑みは、どこにもなかった。
レオニスは、その顔を見た。
「……悪い」
声が、震えた。
「……泣けねえんだ」
アルバンの指が、腕に、食いこんでいた。
もう片方の手に、ランタンを提げていた。
その冷たい光が、レオニスの手の中を、照らしていた。すくいかけた夜のふちが、白陽の光に削られ、ランタンの光にも、削られていく。
アルバンの目が、それを見た。
自分の手の、ランタンを見た。
腕を掴んでいた手が、離れた。
その手が、真鍮の覆いに、かかった。
かちり、と、音がした。
覆いが、閉じた。
あのランタンの覆いが閉じるのを、レオニスは、初めて見た。
冷たい光が、消えた。
それでも、手の中の夜は、崩れていった。白陽の光が、まだ、ふちを削っていた。
透けたところが、手首を越えていた。
足音がした。
軽い足音と、もうひとつ。広間の入り口から、駆けこんでくる。
レオニスは、肩ごしに、振り返った。
シエルだった。ヘルミの手を、握っていた。
ヘルミが、足を止めた。淡い金色の目が、レオニスの手を見ていた。透けた指と、そこからこぼれていく、砂のような暗さを。
ヘルミは、つないでいた手を、そっと、ほどいた。シエルの背中に、手を添えて、押した。
シエルが、駆けてきた。
まっすぐに、レオニスの前まで。
崩れていく手のひらの下に、小さな両手を、差し入れた。
下から、重ねた。
「……はんぶんこ」
シエルが、こちらを見上げた。
「レオにいちゃんが、おしえてくれたんだよ」
そばで、ランタンの取っ手が、かすかに鳴った。
ふたりの手のあいだに、暗さが、溜まった。
崩れなかった。
こぼれかけた暗さを、下の手が、受けとめていた。
シエルの手のほうが、少しだけ、暗かった。
小さな、夜だった。
レオニスは、その夜の上に、顔を伏せた。
暗かった。
何も、見えなかった。誰にも、見えなかった。
喉の奥で、何かが、ほどけた。
「……師匠」
四年ぶんの、声だった。
四年前の、楡の木の下。目を開けたら、剣と、紙切れだけが、枕もとにあった。
「……起こしてけよ」
涙が、こぼれた。
ひと粒こぼれたら、もう、止まらなかった。重ねた手の上に、落ちた。下の手は、それでも、離れなかった。
指先から、白が、落ちていった。冷たい水になって、ぽたり、ぽたりと。白い床の上で、雨のような音がした。
透けていた手に、色が戻ってくる。
レオニスは、泣いた。
しゃくりあげて、泣いた。みっともない声だった。止めようとは、思わなかった。
足もとに、何かが、落ちていた。
薄い、薄い、影だった。
影の落ちないはずの、この広間で。
胸の底で、あの声は、もう、呼んでいなかった。
すぐ横で、息を呑む音がした。
レオニスは、濡れた顔を、上げた。
アルバンが、重なった手を、見ていた。
閉じたランタンを提げたまま、身じろぎもせずに。小さな手が、大きな手を、下から支えているのを。
唇が、声にならずに、動いた。はんぶんこ、と、なぞったように見えた。
その目が、ゆっくりと、こちらへ上がった。
「……あの窓辺の、はんぶんこも」
かすれた声だった。
「……あなた、だったのですか」
アルバンの顔が、くしゃりと、歪んだ。
泣きだす前の、子供の顔だった。
それから、アルバンは、泣いた。
閉じた覆いの隙間から、火が、漏れていた。
白い火では、なかった。ゆらりと揺れて、ただの火の色に、なっていた。
シエルが、片手を、そっと抜いた。
アルバンの、ランタンを提げていないほうの手を、つかまえた。
「……アルも」
引きよせて、重ねた。
三人の手の中に、夜があった。
レオニスは、泣きながら、祭壇を見た。
すぐ目の前だった。
重ねた手を、そのまま、祭壇の上に、下ろした。
「我、欲す」
声は、涙で、ぐしゃぐしゃだった。
「――誰も、ひとりで泣かなくていい夜を」
――もう誰も、夜にひとりで泣かなくていい、終わらない昼を。
冬至の夜、地の底の祭壇で、ヘルミが祈った言葉だった。
うしろで、ヘルミの、しゃくりあげる声がした。
夜が、あふれた。
重ねた手のあいだから。祭壇の上へ。白い床へ。音もなく広がって、白陽の間を、満たしていく。
手のひらから、夜の行く先が、伝わってきた。白い回廊を、いくつも、いくつも、駆け抜けていく。回廊の衛士たちの上へ。白い花で埋まった大広場の上へ。窓掛けのない窓の上へ。
空へ。
祭壇の上の白い光が、縮んでいった。
しぼんで、しぼんで――ランタンの火ほどの大きさで、止まった。
消えは、しなかった。
白陽の間が、暗くなった。
祭壇の上の、ひと粒の白。覆いの隙間から漏れる、ランタンの火。暗い広間に灯っているのは、それだけだった。
膝から、力が抜けた。
レオニスは、白い床に、座りこんだ。重ねた手は、ほどけなかった。シエルも、アルバンも、いっしょに、床に膝をついていた。
暗がりの中で、ヘルミが、息を吸った。
「ねんね ねんね ひが しずむ」
声が、震えていた。それでも、途切れなかった。
「よるの かあさま ひを だいて」
祭壇の上で、ひと粒の白が、かすかに揺れた。
「ないても いいよ よるの なか」
三行目で、ヘルミの声が、揺れた。
それから――
「おいで おいで なけない こ」
――兄貴は、いつか届けると言っていた。
師匠の汚い字が、まぶたの裏に、浮かんだ。
祭壇の前で、衣擦れの音がした。
小さな背中が、ゆっくりと、立ち上がった。
◆
聖都に、夜が降りた。
都ができてから、初めての夜だった。
乳を溶かしたような白が、空から、引いていった。空が、深くなっていく。青く。それから、もっと深く。
星が、灯った。
ひとつ。またひとつ。白い屋根の海の上に、数えきれないほど。
通りに面した窓辺で、男の子が、窓枠につかまって、空を見ていた。いつか、巡礼宿の前で、寝癖を指さした子だった。
「……これが、よる?」
うしろから、母親が、男の子を抱きしめていた。
母親は、空を見上げたまま、泣いていた。
大広場では、白い花を抱えた巡礼たちが、ひとり、またひとりと、石畳に座りこんでいた。
泣く者がいた。笑う者がいた。目を閉じて、そのまま眠ってしまう者もいた。
星を見ずに、白い花に、顔をうずめる者もいた。
広場の端の石段では、ひとりの女が、荷の底から、靴を取り出していた。片方だけの、小さな靴だった。
女は、それを、膝の上に置いた。白の高原の焚き火のそばで、そうしていたように。
それから、声を上げて泣いた。
いつか、白い棺を担いで、笑いながら通りを横切っていった男が、家の戸口で、膝を抱えていた。肩が、震えていた。
大聖堂の前では、白い衣の侍祭たちが、空を仰いでいた。にこにこと笑ったまま、首をかしげている者が多かった。ひとりだけ、笑うのをやめて、両手で顔を覆った者がいた。
大聖堂の地下の書庫では、灯りのない書架のあいだが、まっくらになっていた。天井近くの高い窓だけが、ほのかに青い。
いちばん奥の小部屋から、痩せた男が、手さぐりで出てきた。窓の下に、書架の梯子が立てかけてある。男は、それを、一段ずつ、上った。
窓に、額を、押しつけた。
窓の外に、星があった。
男は、動かなかった。頬が、濡れていた。手巾は、握ったままだった。
やがて、梯子を下りて、小部屋へ戻った。王都から持ってきた、短い蝋燭を一本、懐から出して、灯した。
ただの火の色だった。
男は、その蝋燭を、開いたままの三百年前の書の横に、置いた。
白い回廊では、衛士たちの槍が、下がっていた。
回廊の窓から、星の光が、さしこんでいた。ゴドフロワは、壁にもたれて、座りこんでいた。額の血は、乾きかけていた。灰色の目が、窓の星に向いていた。
ミレイアは、剣を、収めた。
胸の聖印は、冷たかった。
回廊の奥から、足音が近づいてきた。
ぺたり、ぺたりと、裸足の足音だった。
骨の浮いた、小柄な老人だった。白い衣の裾を引きずって、回廊を歩いてくる。
衛士たちが、槍を取り落として、膝をついた。
衛士たちのうしろで、侍祭長が、声を上げた。
「猊下――」
その声から、笑みが、抜けていた。
老人は、答えなかった。
ゴドフロワの前を過ぎ、ミレイアの前を過ぎた。誰のほうも、見なかった。
回廊を抜け、大聖堂を抜けて、大階段のいちばん上に、出た。侍祭長と、衛士たちを束ねる男が、そのあとを追った。
老人は、夜空を、見上げた。
長いこと、そうしていた。
広場の巡礼たちは、誰も、大階段の上の老人を見なかった。皆、空を見ていた。
老人の唇が、動いた。
「……これが、星か」
衛士たちを束ねる男が、膝をついた。
「猊下。闇司祭どもを――」
老人は、振り返らなかった。
「……追わずともよい」
もう一度だけ、星を見た。
それから、裸足のまま、白陽の間へ、戻っていった。
大階段の上には、侍祭長が、ひとり残っていた。白い手袋の手を、胸の前で組んだまま、星を見上げていた。笑っては、いなかった。
遠い王都の、地の底で。
女神の胸の守り火が、ぱちりと、爆ぜた。
◆
真夜中に、迎えに行くと言った。
裸足の老人が、また、回廊を戻っていった。その足音が奥へ消えるまで、誰も、動かなかった。
ミレイアは、歩きだした。
ゴドフロワが、壁にもたれたまま、小さく顎を引いた。
衛士たちは、もう、止めなかった。
暗い回廊を、いくつも、くぐった。くぐっても、もう、白さは増さなかった。窓の星明かりだけが、足もとを照らしていた。
回廊の壁ぎわで、衛士がふたり、槍を抱えたまま、肩を寄せあって眠りこんでいた。
回廊は、長かった。
最後の回廊の高い窓が、うっすらと、白みはじめていた。
白陽の間に、入った。
祭壇の上に、白い光が、ぽつりと灯っていた。少しずつ、明るさを取り戻していくところだった。
床に、レオニスが、寝転がっていた。
頭を、シエルの膝にのせていた。シエルは、亜麻色の髪を揺らして、こくり、こくりと、舟をこいでいた。
シエルのそばで、ヘルミが、膝を抱えて座っていた。泣き腫らした目で、ミレイアを見て、小さく笑った。
「……歌えました」
レオニスの反対側に、アルバンが座っていた。
膝の横に、ランタンが置いてあった。閉じた覆いの隙間から、火が漏れていた。
アルバンは、眠っていなかった。目のふちを赤くして、眠りかけた顔を、見ていた。
眠りかけているのは、年上のほうだった。
祭壇の前には、小さな背中があった。裸足の、あの老人だった。こちらに背を向けて、座っていた。
レオニスの腹の虫が、盛大に鳴いた。
シエルが、目を開けた。
「……おなか」
それだけ言って、また、舟をこぎはじめた。ヘルミが、口もとを押さえて、肩を震わせていた。
アルバンの手が、懐の白い革の帳面へ伸びかけて、引っこんだ。
ミレイアは、レオニスのそばに、膝をついた。
顔を、覗きこんだ。
頬に、いくすじも、涙の跡があった。目のふちが、赤い。まぶたが、半分、落ちかけていた。
まつげが、まだ、濡れていた。
「……泣いているんですか」
琥珀色の目が、ミレイアを見た。
「……ああ」
かすれた声だった。
「泣いてる」
ミレイアは、少しだけ、黙った。
「……そうですか」
隣に、腰を下ろした。
間を、あけずに。
アルバンが、口を開いた。
「……あの手紙を、読ませていただけますか」
レオニスが、目だけを動かして、アルバンを見た。
じっと、見ていた。
外套の内側に、手を入れた。角のすっかり丸くなった封を、アルバンのほうへ、差し出した。開いたままの小さな紙を、その上に重ねた。
「……これもだ」
アルバンは、両手で、それを受け取った。
ランタンの覆いを、細く開けた。ただの火の色の光が、汚い字を、照らした。
几帳面な指が、一行ずつ、字をなぞっていく。峠の上で、祠の碑文を読みあげたときと、同じ指だった。
その指が、止まった。
唇が、動いた。
「――俺が、朝まで待たせた」
記録を読む、あの平らな声だった。
声が、途切れた。
「……あのちびに、すまねえ」
平らでは、なかった。
アルバンは、もう一枚の、小さな紙を見た。
指が、一行の上で、止まった。
そのまま、動かなかった。
アルバンは、目を閉じた。閉じたまぶたの端から、ひと筋、伝った。
レオニスのまぶたが、落ちかけていた。
ミレイアは、言った。
「……朝寝の、時間です」
レオニスの口の端が、かすかに、上がった。
まぶたが、閉じた。
寝息が、聞こえた。
深い、ゆっくりとした寝息だった。
扉ごしに、一睡もせず、と書いた晩から、白い夜を十九、数えてきた。
アルバンが、目を開けた。
二枚の紙を、そっと畳んで、レオニスの胸の上に置いた。
白い革の帳面を出して、まっさらな頁を開いた。
几帳面な字が、一行だけ、並んだ。
――朝寝、
アルバンは、そこで、ペンを置いた。長さは、起きてから書くのだろう。
ミレイアは、その一行を、横目で見た。
懐から、罪状帳を出した。
頁のいちばん上に、ふたつの名前を書いた。最初の一字で、ペンは、止まらなかった。
その下に、書いた。
――夏至の夜:
そこで、ペンが止まった。
書くことは、いくらでもあった。何から書けばいいのか、それだけが、わからなかった。
隣で、寝息が、続いていた。
いちばん短い夜が、明けた。




