第六章 三百年前の書
毎朝、頁のいちばん上に、ふたつの名前を書く。
父の名前と、母の名前だった。
聖都に着いた晩から、そうしている。
白い野を渡るあいだ、胸の底のどこかが、ほどけていくような気がしていた。着いた晩、巡礼宿の食堂の窓辺で、それを確かめようとして、母の顔を思い浮かべた。
輪郭が、淡かった。
水で薄めた墨のように。
だから、書く。書いているあいだだけ、少し、近くなる。母の声。父の笑い声。《麦穂亭》の、朝ごとに焼けるパンの匂い。
ペン先は、毎朝、最初の一字で、少しだけ止まった。
満陽祭まで十八日の朝も、ミレイアは、ふたつの名前を書いてから、隣の部屋の扉を叩いた。
約束どおり、確かめに来たのだ。
返事はなかった。扉を開けると、監視対象は、窓辺にいた。窓枠に手をかけて、白い屋根の向こうを見ていた。ゆうべ、扉の向こうでも、こうしていたのだろう。
寝癖は、ゆうべから、少しも増えていなかった。寝ていないのだから、増えようがない。
ミレイアは、帳面の頁を一枚戻して、ゆうべの一行の下に、書き足した。
――確かめました。
レオニスが、肩ごしに、帳面を覗きこんだ。目の下のくまが、ゆうべよりも、濃くなっていた。
「……律儀だな」
「朝に確かめると、申しましたので」
それからも、レオニスは、眠らなかった。
朝に確かめに行くと、いつも、窓辺にいた。昼は、巡礼宿の裏の日向で、壁に背中をあずけて、目を閉じていた。
寝息は、いつまでも、聞こえてこなかった。
材木の上でも、墓の隣でも、この人は、眠れた。暇さえあれば、眠っていた。その人が、日向で目を閉じたまま、指先ひとつ、ゆるめない。
ときどき、レオニスは、何かに呼ばれたように、都の真ん中のほうへ顔を向けた。丸い屋根が、白く光っているほうへ。それから、気がついたように、目を逸らした。
何が聞こえるのかと、ミレイアは訊かなかった。訊いても、この人は、腹が減ったとしか言わないだろう。
侍祭たちは、毎日のように、満陽祭の支度のことを伝えに、巡礼宿へやってきた。そのたびに、ヘルミを、ソレーヌさま、と呼んだ。ヘルミは、そのたびに、ヘルミです、と答えた。侍祭たちは、そのたびに、はい、ソレーヌさま、と笑った。
胸の聖印は、聖都に着いてから、一度も冷たくならなかった。
満陽祭まで十六日の昼、ミレイアは、ふたつの名前の下に、ペンを下ろした。
――満陽祭まで十六日:監視対象、昼寝をせず。
少し考えて、もう一行、書き足した。
――これは、罪状ではありません。異常です。
帳面を閉じて、立ち上がった。
「書庫へ、参ります」
日向の壁ぎわで、レオニスが、片目を開けた。
「……なんでだよ」
「異常の、わけを調べます」
「……眠くねえだけだ」
「四晩、一睡もしない人を、眠くないとは言いません」
ミレイアは、帳面を懐にしまった。
「あなたが来なくては、調べようがありません。ついてきてください」
大聖堂の書庫は、地下へ下りて、そこから奥へ、長く続いていた。
入り口で、白い衣の侍祭が、にこにこと頭を下げた。
「どうぞ。猊下より、白い闇司祭さまには、何をお見せしてもかまわぬ、と」
ミレイアは、レオニスを見た。レオニスは、寝癖の頭を掻いただけだった。
白い石の書架が、どこまでも並んでいた。
天井近くの高い窓から、白い光が、書架のあいだに落ちている。灯りは、どこにもなかった。この都では、日が沈んでも、本が読めるのだ。
書架のあいだを、どれほど歩いただろう。いちばん奥に、小さな部屋があった。
扉は、開いていた。
狭い卓に、分厚い書が一冊、開いてある。その前に、痩せた男が座っていた。
金糸のない、灰色の衣だった。頬がこけて、首の皮がたるんでいる。それなのに、額には、汗が浮いていた。
男が、顔を上げた。
目が、まるくなった。
「……あ、あなたがたは」
ミレイアは、その声を、知っていた。
冬至の夜明け、地の底の神殿で、溶けた雪に濡れた法衣のまま、開祖さまは、と白状した声だった。
王都の大聖堂の、司教だった。
レオニスが、戸口の柱にもたれて、男を眺めた。
「痩せたな、おっさん」
司教だった男は、手巾で額を拭った。
「……食事が、白いもので」
男は、ぽつりぽつりと話した。冬至のあと、聖都へ呼び戻されたのだという。
「猊下は、かまわぬ、と、仰せになりました。……ですが、侍祭長さまが」
男は、そこで、言葉を切った。
「侍祭長さまは、にこにことして、いらっしゃいました。にこにことしたまま、私の胸から、白銀の太陽を、お外しになりました」
それから、この書庫へ来た。毎日、同じ書を読んでいる。
「……読んでおりますと、汗が、少しだけ、引くのです」
「なぜですか」
ミレイアが訊くと、男は、手巾を握ったまま、少し考えた。
「……この書の前では、嘘を、つかずに、すみますので」
ミレイアは、自分の胸の聖印に、服の上から触れた。ぬるかった。
「その書を、見せていただけますか」
男は、少し笑った。困ったような笑い方だった。
「どうぞ。……かまわぬ、と、仰せですので」
それから、小さな声で、言い足した。
「おととい、審問官さまも、写しにいらっしゃいました」
レオニスが、目を細めた。
「……あいつ、本気だな」
◆
白い革の、分厚い書だった。
表紙の革は、ところどころ、黄ばんでいた。三百年のあいだに、何人の手が、この革に触れたのだろう。
司教だった男が、震える指で、頁をめくった。
「……こちらで、ございます」
古い字だった。男は、指でなぞりながら、読みあげた。
「――開祖、叙階の夜、鏡を白く燃やせり」
隣で、レオニスが、その一行から目を離さなかった。
男の声が、続いた。
「――開祖、王都の地の底の祭壇にて、白き光をもて祈りたまう。泣く者なき昼、国じゅうに満ちたり」
地の底の祭壇。冬至の夜、ヘルミが、両手をついて祈った、あの祭壇だった。
男は、次の一行を、なぞった。
「――夜の番人ら、悪しき火をともし、夜を呼び戻せり」
悪しき火。
王都の地の底の扉には、最後の欲をもて、と刻まれていた。
男の指が、次の行へ進んだ。
「――開祖、北の白き野へ退きたまい、白陽となりて、今に照らしたまう」
「――開祖の子、白陽の間に入りて、父の光を守る。以後、出でず」
男の指が、最後の一行の手前で、止まった。
額から、汗が、ひと粒、頁の端に落ちた。
男は、レオニスのほうを見ないようにして、その一行を、なぞった。
「――いちばん短き夜の真夜中、白き者、白陽へ歩み入らば、白陽は、地の果てまで昇らん」
ミレイアは、その一行を、二度、読んだ。
いちばん短き夜。夏至の、真夜中。
――白き者。
ミレイアは、足もとを見た。
高い窓から落ちる光の中で、自分の影は、淡く床に落ちていた。その隣の影は、それよりも、もっと淡かった。
異常の、わけだった。
レオニスが、書を見下ろしたまま、言った。
「……あの爺さんも、同じこと言ってた。白陽の間で。来るかどうかは、汝が決めよ、だとさ」
ミレイアは、レオニスの横顔を見た。
「……なんと、答えたのですか」
「行かねえって、言っといた」
司教だった男の手から、手巾が落ちた。
「じ、爺さん……」
男は、手巾を拾うのも忘れて、書架のいちばん下の段から、古い画帳を一冊、引き出した。
「げ、猊下は、そのような……代々の、猊下の、絵姿で、ございます」
ミレイアは、画帳を受け取って、頁をめくった。
どの頁にも、白い光の下に膝をついた、小さな背中が描かれていた。
骨の浮いた肩。白い衣の袖からのぞく、細い手首。
顔は、どの頁にも、なかった。
男が、床の手巾を拾いながら、言った。
「猊下のお顔を、拝した絵師は、おりません。……私も、冬の、あの日は、床に、額をつけておりましたので」
めくっても、めくっても、同じ背中だった。
男は、目を伏せたまま、続けた。
「……絵師の、決まりごとで、ございましょうが」
ミレイアの指が、最後の頁の上で、止まった。
あの日、ミレイアは、白陽の間へ続く回廊で、衛士の槍の手前で足を止めたのだ。猊下の背中は、見ていない。
隣で、レオニスが、その頁を見下ろしていた。長いこと、見ていた。
何も、言わなかった。
開祖の名は、書のどこにもなかった。子の名も、なかった。王都の扉のように、鑿で削った跡があるのでもない。名を書くはずのところは、はじめから、白く空けてあった。
峠の上で、アルバンが読みあげた碑文を、ミレイアは、覚えていた。記録を読む、あの平らな声を。
――我らが友、白き
――その子を抱きて、北の白き野へ去れり。
――泣けずして、白の奥に眠る。
教会の書は、開祖、と書く。白き者、と書く。
北の谷の祠は、我らが友、と刻んでいた。
レオニスが、ぽつりと言った。
「……友達だったんだな」
司教だった男が、顔を上げた。
レオニスは、書から目を上げずに、続けた。
「友達を止めるために、火をつけて。……そいつの子に、唄を届けるって、誓ったのか」
誰も、答えなかった。
司教だった男が、書の上の、悪しき火、という字を見下ろしていた。
「……友、で、ございますか」
男の手が、小さく震えていた。
「三百年、この書を開いた者は、皆、ここを、悪しき火と、読んでまいりました。……私も」
三百年。友の子に、唄を届けるために。
名を刻んで、唄にして、忘れないように。
ミレイアは、懐の帳面に、服の上から、そっと手をあてた。
高い窓からの白い光が、開いたままの頁に、静かに落ちていた。
書庫を出るとき、レオニスが、戸口で振り返った。
「おっさん。今晩、宿に来いよ」
司教だった男が、目をしばたたいた。
「……は」
「飯、食わせてやる」
レオニスは、少し考えて、言い足した。
「白いけどな」
◆
巡礼宿の食堂の卓に、黒いパンが、山になった。
白いパンを、竈の火で、真っ黒になるまで焼いてやった。宿のおかみは、穏やかに笑ったまま、何も言わずに竈を貸してくれた。
司教だった男は、日が沈むころに、本当に来た。
焦がしたパンを両手で持って、しばらく、眺めていた。
「……黒い」
レオニスは、鼻を鳴らした。
「白いのばっか食ってっから、痩せんだよ」
男は、ひと口かじった。苦かったのだろう。顔が、くしゃくしゃになった。
それから、もうひと口、かじった。
「……おいしゅう、ございます」
額の汗を拭っていた手巾が、少しずつ、目もとのほうへずれていった。
シエルが、黒いパンを両手で持って、ふしぎそうに、においを嗅いでいた。ひと口かじって、顔をしかめて、それから、もうひと口かじった。ヘルミが、その横で、くすりと笑った。
卓の端で、ゴドフロワが、黙って、黒いパンをちぎっていた。
司教だった男は、ゴドフロワのほうを、何度も、盗み見ていた。やがて、消え入りそうな声で、言った。
「……騎士団長」
ゴドフロワは、パンをちぎる手を止めなかった。
「……もう、団長ではない」
男は、肩を落とした。
「私も、もう、司教では、ございません」
ゴドフロワが、初めて、男のほうを見た。
ふたりとも、それきり、何も言わなかった。
卓の向かいで、ミレイアが、小さく咳ばらいをした。それでも団長と呼ぶつもりなのだろう、とレオニスは思った。
扉が、叩かれた。
開けると、白い火が灯っていた。
灰色の髪の少年が、戸口に立っていた。食堂の卓を、ひと巡り見回す。黒いパンの山の上で、目が、一度だけ、止まった。
「……夜分に、失礼いたします」
司教だった男が、椅子の上で、背筋を伸ばした。
アルバンは、男に、丁寧に頭を下げた。
「書庫番さま。先日は、写しを、ありがとうございました」
男は、何か言おうとして、黒いパンを喉に詰まらせた。
アルバンは、レオニスの前まで来て、足を止めた。
「満陽祭の正午、大階段で、猊下の祝福が読みあげられます」
にこやかな声だった。
「そのあとで、私が、北の祠の碑文と、書庫の三百年前の書を、読みあげます。開祖さまの、お名前も」
食堂が、静かになった。
アルバンは、まっすぐに、レオニスを見ていた。
「あなたにも、隣に立っていただきたい。白い闇司祭は、生きた証です」
しばらく、誰も、口を開かなかった。
最初に、ミレイアが言った。
「知りたい人には、知る権利があります」
それから、少し考えて、言い足した。
「……知りたくない人が、知らないでいることは、罪でしょうか」
ミレイアは、それきり、黙った。自分で訊いて、自分でも答えが出ない、という顔だった。
ゴドフロワが、黒いパンを、卓に置いた。
「……私は、知って、膝を折った」
低い声だった。
「知らずにいれば、まだ、立っていられたかもしれぬ」
剣帯のない腰のあたりに、大きな手がいった。
「それでも――知ってよかったと、思うている」
ヘルミが、膝の上で、両手を組んだ。
「父は、私を泣かせないために、白くなりました」
静かな声だった。
「……開祖さまも、きっと」
その先は、言わなかった。
シエルが、アルバンを見上げた。
「アルは、どうして、てらしたいの?」
アルバンは、答えなかった。
にこやかな顔のまま、ランタンの中の白い火だけが、かすかに揺れた。
司教だった男が、卓の上で、骨ばった指を組み合わせた。
「……教会は、三百年、蓋をしてまいりました」
汗が、こけた頬を伝っていた。
「蓋の下で、誰かが、泣いておりました」
誰が、とは、男は言わなかった。
皆の目が、レオニスに集まった。
照らせば、どうなる。
この都の人間は、三百年、あの白い光を拝んで、笑って暮らしてきた。葬式でさえ、笑っていた。よるって、なあに、と、子供が訊く都だ。その光が、泣けない子を抱いて北へ去った、ひとりの闇司祭だったと知ったら――何を信じて、笑えばいい。泣きたくなったら、どこで泣けばいい。
この都には、夜がない。
けれど、黙っていれば、教会と同じだ。三百年の、蓋と同じだ。
――師匠なら。
皿を、並べるだろう。苦いのも、甘いのも。好きなのを、選ばせる。何も食わねえって奴がいても、それでいい。
レオニスは、かじりかけの黒いパンを、皿に置いた。
「言うなとは、言わねえ」
アルバンの微笑みは、動かなかった。
レオニスは、続けた。
「でも、俺は、照らす側には立たねえ」
アルバンの顔を、まっすぐに見上げた。
「……言われた奴の、隣にいる」
ランタンの白い火は、もう、揺れなかった。
「あなたは」
アルバンが、静かに言った。
「また、何も選ばないのですね」
また、か。
峠の修道院の礼拝堂でも、この少年は言った。待つだけですか、と。
「選んでるよ」
声は、少しも、かすれなかった。
「隣にいるって、選んでる」
アルバンは、何も言わなかった。
硬く、整った微笑みのまま、深く頭を下げた。それから、白い火を提げて、食堂を出ていった。
扉が閉まると、卓の上に、焦げたパンの匂いだけが残った。
シエルが、閉じた扉を、じっと見ていた。
「……アル、ひとりで、かえっちゃった」
ヘルミが、口を開いた。
「……今日も、侍祭の方が、いらっしゃいました」
膝の上で組んだ手は、ほどかれなかった。
「ソレーヌさま、と、また呼ばれました。……満陽祭の夜、白陽の間の儀に、聖女として、立ち会うように、と」
食堂が、また、静かになった。
いちばん短い夜の、真夜中。白き者が、白陽へ歩み入る、儀。
ヘルミは、顔を上げた。
「私は、そこで、唄を歌います」
淡い金色の目が、まっすぐに、こちらを見ていた。
「四行目を。……白の奥の、泣けない子に」
シエルが、ヘルミの袖を、ぎゅっと握った。
「わたし、おねえちゃんの、て、はなさないから」
レオニスは、頭を掻いた。
白陽の間を、思い出した。影ひとつ落ちない、あの広間で、子守唄を歌う。泣いてもいいよ、と歌う。
あそこで泣ける奴は、いない。
「……俺も、行く」
声に出してから、自分で、少し驚いた。
来るかどうかは、汝が決めよ、と、あの老人は言った。
決めた。
白陽に、歩み入るためではない。
「あんたが歌うあいだ、暗くしといてやる」
ヘルミが、小さく笑った。泣きそうな顔で、笑っていた。
ゴドフロワが、黒いパンを、ひとつ取った。
「……回廊は、私が見よう」
ミレイアが、懐の罪状帳に、服の上から手をあてた。
「私も、回廊に参ります。……監視役ですので」
都の真ん中で、また、あの声がしていた。
――おいで。
胸の底の何かが、応えかけた。
レオニスは、黒いパンを、乱暴にかじった。
苦かった。
◆
満陽祭まで、九日だった。
昼の大広場は、白かった。
白い幟が、何本も、何本も、風にはためいている。大階段の下には、白い花が、山のように積まれていた。巡礼たちは、その山に、さらに白い花を置いていく。誰もが、穏やかに笑っていた。
ミレイアは、広場の端の、白い石段に腰かけていた。
少し離れた水盤のそばで、レオニスが、日向に座っていた。目を閉じている。ぐっすりとは、眠っていない。聖都に着いてから、一度も。
足もとの影は、皆の影より、ひときわ淡かった。
このところ、白い火は、十歩うしろにいないことが多かった。満陽祭の支度で、大階段に詰めているのだという。見上げると、白い布を張りめぐらせた大階段のいちばん上に、灰色の頭が、小さく見えた。
広場の向こうで、女が、子供の名前を呼んでいた。やわらかな、よく通る声だった。子供が、笑いながら、女のほうへ駆けていく。
ミレイアは、その声を聞きながら、思った。
――母は、どんな声で、私を呼んだのだろう。
思い出そうとした。
出てこなかった。
言葉は、覚えている。
――声を出しちゃだめ。何があっても、出てきちゃだめ。
床下へ隠されるとき、母に言われた言葉。九年、一日も忘れたことのない言葉だった。
それなのに、声が、なかった。
字を読むように、言葉だけが、そこにあった。
ミレイアは、罪状帳を開いた。
今朝、頁のいちばん上に書いた、ふたつの名前があった。
自分の字だった。
それだけだった。
目の奥が、熱くなった。熱いものが、こみあげてきた。
こぼれる前に、乾いていった。
白い陽が、頬に、あたたかかった。春の陽だまりのように。胸の底のどこかが、また、ほどけていく。
――ほどけたら、何が、残るのだろう。
白い花を抱えた若い女が、ミレイアの前で、足を止めた。
「どうなさいました?」
女は、穏やかに、微笑んでいた。
「白陽さまの光を浴びれば、すぐ、楽になりますよ」
ミレイアは、答えられなかった。
女は、小さく会釈をして、大階段のほうへ歩いていった。
隣に、誰かが、腰を下ろした。
寝癖の頭だった。目の下のくまが、ひどく濃い。
レオニスは、何も訊かなかった。
ただ、両手を、ミレイアの顔の前に差し出した。器のように、丸めて。
「我、欲す」
低い声だった。
「――手のひらひとつぶんの、夜を」
真昼の白い光の中で、両手の中に、暗さが溜まった。
白い広場の片隅に、そこだけ、小さな夜があった。
夜のふちが、ほろほろと、こぼれていく。白い陽に削られて、砂のように。
レオニスの腕が、震えていた。
それでも、手は、下りなかった。
レオニスは、顔を、横へ背けた。
「……見ねえから」
ミレイアは、小さな暗がりを、覗きこんだ。
手のひらの底に、光が、ひとつ、灯っていた。
小さな、星だった。
そのまわりに、白いものが、うっすらと積もっていた。雪のように。
――見たら。
見たら、何が、戻ってくるのだろう。
床下の暗闇。板の継ぎ目から漏れる炎の色。父の怒鳴り声と、母の悲鳴と――それきり途絶えた、ふたつの声。
見なければ、このまま、遠くなっていく。何もかも、淡くなって。
ミレイアは、目を、逸らさなかった。
見たものを、見たとおりに。そう、決めたのだ。
白が、ほどけた。
冷たかった。
――ミレイア。
声が、した。
――声を、出しちゃだめ。
震えていた。震えていて、それでも、やさしい声だった。
床下へ隠すとき、ミレイアの髪を撫でた、母の声だった。
それから、笑い声が、聞こえた。
大きな、のんきな笑い声だった。朝の竈の前で、焼きあがったパンを、粉だらけの手で放ってよこす、父の。
《麦穂亭》の窓から、朝の光が、さしこんでいた。玄関で、母の飾った麦の穂の束が、揺れていた。
ミレイアは、口を、開いた。
声が、出た。
ミレイアは、声を上げて、泣いた。
真昼の広場で。穏やかに笑う人々の、あいだで。
通りがかる人々が、足を止めて、ふしぎそうに、こちらを眺めていった。泣いている者を、見たことのない顔だった。
十歳のあの朝、床下から這い出して、泣くかわりに剣を握ってから、初めてだった。
父と母のために、泣いたのは。
どれほど、そうしていただろう。
手のひらの夜が、消えた。
白い陽が、戻ってきた。
レオニスは、顔を背けたまま、両手を下ろした。額に、汗が浮いていた。
胸の聖印が、冷たくなっていた。ただの、銀の冷たさだった。
ミレイアは、濡れた目で、石畳を見た。
レオニスの影は、さっきよりも、薄くなっていた。白い石の上に、ほとんど、溶けかけていた。
ミレイアは、何も言わなかった。
言えなかった。
しばらくして、ミレイアは、罪状帳を開いた。
ふたつの名前の下に、ペン先を下ろした。
――満陽祭まで九日:昼間から、泣く。
レオニスが、横目で、帳面を覗きこんだ。
「……それ、罪状か」
ミレイアは、濡れた頬のまま、帳面を閉じた。
「罪状です」
◆
白い夜だった。
審問所の塔の一室で、アルバンは、白い革の帳面を開いていた。
窓の外は、乳色に白い。それでも、ランタンは、消さなかった。
冷たい光が、几帳面な字を、一行ずつ照らしていく。北の谷の祠で写した、碑文だった。
――我らが友、白き
そのあとに、名が、ひとつ。
アルバンは、声に出さずに、その名を、唇でなぞった。
満陽祭の正午、大階段で、この名を読みあげる。三百年、誰も、声に出して呼ばなかった名を。
――その子を抱きて、北の白き野へ去れり。
――その子
そこだけは、空いている。
――泣けずして、白の奥に眠る。
お眠りにならない、猊下。
頁の上で、指が、止まった。
頁を、前へ戻した。
北へ向かう道中の頁に、几帳面な字が並んでいた。
――昼寝、二刻と四半刻。寝言、二回。
祠の碑文を写した頁から先は、白いままだった。
書くことが、なかったのだ。
アルバンは、帳面を閉じた。
昼の大広場が、目の奥に、残っていた。
その昼、大階段の上で、侍祭長に、段取りを告げた。祝福のあとで、碑文と書を読みあげます、と。白い手袋の男は、にこにこと笑ったまま、聞いていた。
「猊下が、かまわぬと仰せなら」
それだけ言った。笑顔は、少しも動かなかった。
その大階段の上から、見ていたのだ。白い花の山の向こう、広場の端の石段に、銀色の髪が見えた。
その前に、小さな暗がりがあった。真昼の白い光の中に、手のひらひとつぶんの、夜。
泣き声が、した。大階段の上まで、届くほどの。
暗がりの中は、ここからは、見えなかった。
北の谷の夜と、同じだった。
あの人を、光の下に立たせた。泣きだす前の顔のまま、あの人は、腹が減った、と言った。
照らしても、何も、変わらなかった。
アルバンは、ランタンの取っ手を、握りしめた。
――それでも。
照らせば、誰も、置き去りにされない。
そう、信じなければ。
雪の路地裏を、思い出した。
鍋がからになったあとで、年上の少年が、熱を出して倒れた。パイプの老人が、その少年を担いで、行ってしまった。
待った。
明け方、雪の向こうから、ランタンの灯が、近づいてきた。
あの人たちだと思った。
違った。
陽だまりの家の窓辺を、思い出した。毎晩、そこで泣いて、待った。
泣いていると、白い手が、額に置かれた。忘れさせてあげましょう、と、やさしい声が言った。
――わすれたら、あのひとが、もどってきても、わからない。
そう言って、首を、横に振った。白は、すべり落ちた。
ある晩、隣に、女の子が座った。いつも笑っている、亜麻色の髪の女の子だった。
女の子は、パンを、半分にした。
――はんぶんこ。
そう言って、半分を、差し出した。
なぜ、あの子がそうしたのか、アルバンは、知らない。
アルバンは、立ち上がった。
ランタンを、提げた。
白い回廊を、いくつもくぐった。くぐるたびに、白さが増していく。衛士たちは、白い火に、黙って道をあけた。
最後の回廊を抜けると、足もとの影が、消えた。
白陽の間の白さの中では、ランタンの冷たい光は、どこにも届かなかった。
祭壇の前で、小さな背中が、祈っていた。
アルバンは、入り口で、膝をついた。
「猊下」
背中は、振り返らなかった。
「満陽祭の正午、すべてを照らします」
祭壇の上で、白い光が、ひとつ、息をした。
「……開祖さまの、お名前も」
しばらくして、しわがれた声がした。
「照らしたいなら、照らすがよい」
猊下は、光を見上げたまま、仰った。
「……かまわぬ」
アルバンは、深く、頭を下げた。
ランタンを提げた手は、震えなかった。
◆
満陽祭の前の晩も、空は、白いままだった。
レオニスは、巡礼宿の屋根の上で、膝を抱えていた。
白い屋根が、どこまでも続いている。その真ん中で、丸い屋根の上の光が、息をするように、膨らんでは、しぼむ。大広場のほうから、満陽祭の支度の物音が、まだ聞こえていた。
――おいで。
あの声は、もう、やまなかった。昼も、白い夜も。目を閉じても、開けても。
――おいで。
胸の底で、何かが、応えようとする。そのたびに、奥歯を噛んだ。
梯子のきしむ音がした。
銀色の頭が、屋根のふちから、のぞいた。
ミレイアは、屋根に上がってきて、レオニスの隣に、腰を下ろした。ひとりぶんより、少しだけ狭く、間をあけて。
星は、なかった。
ミレイアは、何も言わなかった。レオニスも、何も言わなかった。
しばらくして、レオニスは、外套の内側から、紙を出した。
小さく、固く、畳んである。表に、汚い字で、ひと言だけ。
――泣きてえときに読め。
白い夜の明るさで、字が、はっきりと読めた。
畳み目に、指をかけた。
開かなかった。
「……泣きたくなんか、ねえよ」
声に出してから、隣に人がいるのを、思い出した。
ミレイアは、膝の上の罪状帳を、そっと押さえていた。
レオニスは、紙を、外套の内側にしまった。剣は枕にしろ、と書いた紙切れの、隣に。
それから、白い空を見たまま、言った。
「……帳面のいちばん上の、あれ。親父さんと、おふくろさんか」
昼の広場で、罪状帳を覗いたときに、見えたのだ。
ミレイアの肩が、小さく動いた。
「……はい」
膝の上の罪状帳を、ミレイアは、指でなぞった。
「書かないと、声が、遠くなるので」
それから、少しだけ、言い足した。
「……今は、聞こえます」
レオニスは、鼻の頭を、掻いた。
明日の真夜中、白陽の間で、ヘルミが唄を歌う。声にならねえから書いとく、と、師匠が手紙に書いた一行を、声にする。
その隣で、夜を広げる。
レオニスは、自分の手のひらを見下ろした。
昼の広場では、手のひらひとつぶんの夜でさえ、ふちから崩れていった。白陽の間は、あの広場より、ずっと白い。
握って、開いた。
――おいで。
また、声がした。
胸の底が、ぬるかった。
足もとを見た。
屋根の上に落ちた自分の影は、もう、ほとんど見えなかった。白い夜の明るさに溶けて、あるのか、ないのか、わからない。
ミレイアが、口を開いた。
「……明日は、夏至です」
「知ってる」
ミレイアは、少し黙った。
それから、小さな声で、言った。
「……帰ってきてください」
いつか、燃える陽だまりの家の前で、聞いた言葉だった。
あのときは、燃え落ちる梁の音と、怒号の向こうから、届いた。
今は、すぐ隣から、聞こえた。
レオニスは、白い空を見上げたまま、答えた。
「……おう」
ミレイアは、しばらく、そこに座っていた。
それから、何も言わずに、梯子を下りていった。
レオニスは、屋根の上に残った。
――おいで。
声は、ひと晩じゅう、呼んでいた。
白い空の端から、陽が昇った。
夏至の朝だった。
屋根の上に、煙突の影が、淡く、細く、伸びていた。
レオニスは、立ち上がって、足もとを見た。
レオニスの足もとから、影が、消えていた。




