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光の闇司祭③ 白夜の教皇  作者: parupuntist


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第五章 影のない街

 谷に、墓が並んだ。


 焼け跡のいちばん上の、日当たりのいい斜面だった。石を積んだだけの、小さな墓だった。名を刻んだ墓標は、ひとつもない。誰が誰なのか、もう、ほとんど、わからなかったからだ。


 あの雨のあと、ミレイアたちは、毎朝、荷車で峠を下りて、昼過ぎまで穴を掘った。


 雪を掘っていた囚人たちも、鋤(すき)を持ったまま、今度は、穴を掘った。見張りの兵たちは、何も言わなかった。年かさの兵が、槍を柵に立てかけて、黙って土を運んでいる日もあった。


 ゴドフロワは、誰よりも多く、穴を掘った。


 来る日も、来る日も、何も言わずに。白い髭に、土をつけて。


 二十五年前、この村に火を放った騎士たちのなかに、この人もいたのだ。


 ボルグは、自分の家の焼け跡から、鍋を下ろした。


 竈の上で、蓋をしたまま、二十五年、雪の下にあった鍋だった。竈の前で見つかった母親と、その鍋を、ボルグは、いっしょに葬った。


 蓋は、開けなかった。


 土をかける前に、鍋の蓋の上に、左手を、そっと置いた。


「……ずいぶん、寝かせちまったな」


 それきり、何も言わなかった。


 斜面のいちばん上には、割れた石板が、一枚だけ立てられた。


 焼け跡から、ボルグが拾ってきたものだった。子供が字を習う、小さな石板だった。


「……先生の分だ」


 ボルグは、それだけ言った。


 先生の墓は、ほかに、作りようがなかった。あの夜、先生は、冷たい雨になって降ったきりだったのだから。


 ヘルミは、墓のひとつひとつの前に膝をついて、子守唄を歌った。


 一行目と、二行目と、三行目を。


 歌いながら泣く墓もあった。歌い終えてから泣く墓もあった。泣き方は、相変わらず、上手ではなかった。それでも、途中で、止めなかった。


 シエルは、いつも、その隣に座っていた。


 雪掘りは、終わった。掘る雪が、もう、どこにもないのだ。囚人たちは、鉱山へ戻ることになった。ボルグも、ただの鉱夫として。


 アルバンは、斜面の下の、焼け跡の外れに立っていた。


 あの朝から、アルバンは、レオニスと口をきかなかった。


 谷で雨が上がった、あの朝に、何があったのか。ミレイアは知らない。罪状帳を閉じて、ヘルミたちのほうへ歩きだしたとき、足もとの影が、ひと息のあいだ、消えた。白い火が、うしろを通ったのだろう。それだけだ。


 それでも、アルバンは、見届けるのをやめなかった。峠と谷を行き来する荷車の十歩うしろを、毎日、黙って歩いていた。


 最後の墓に石が積まれたのは、峠の雪が、すっかり痩せたころだった。


 ヘルミは、最後の唄を歌い終えてから、立ち上がった。


 石板の前まで上っていって、もう一度、膝をつく。石のふちに、指先で、そっと触れた。


「……おとうさん」


 それだけ言って、しばらく、そうしていた。


 それから、立ち上がって、北の尾根を見上げた。峠の向こうの空は、昼でも、どこか白く濁っていた。


「峠が開いたら、聖都へ参ります」


 誰にともなく、そう言った。


「父が、届けたかったものを。……届けに」


 ボルグが、鋤を地面に突き立てた。


 剃り上げた頭を、手のひらでひと撫でする。それから、レオニスのほうを向いた。


「……兄ちゃん。ヘルミ嬢ちゃんを、頼む」


 レオニスは、墓の石を見たまま、答えた。


「……頼まれたくはねえな」


 ボルグの眉が、寄った。


 レオニスは、墓の石から、目を上げなかった。


「あいつが、決めることだ」


 ヘルミが、小さく笑った。泣いたあとの、赤い目のままだった。


 ボルグは、それから、ミレイアのほうを向いた。


 何も言わずに、深く、頭を下げた。


 左手が、体の横に下がっていた。ぼろ布は、もう、巻いていなかった。陽に焼けた太い指が、土に汚れていた。


 あの手は、雪に、素手で触れなかった。覚えているために。


 雪は、もう、どこにもない。


 ミレイアは、頭を下げ返さなかった。


 目も、逸らさなかった。


 答えは、まだ、出ていなかった。


 谷を出るとき、レオニスが、入り口で足を止めた。


 踏み荒らされていた雪の消えたあとに、薄い緑が出ていた。


 レオニスは、そこに、しゃがみこんだ。


 峠の修道院に着いた明くる朝、この場所で、レオニスは、雪の上に手のひらをかざしたまま、触れなかった。


 今度は、触れた。


 手のひらを、土の上に、置いた。


 何も、言わなかった。ミレイアも、何も、訊かなかった。


 峠が開いたと知らせてきたのは、聖都からの使いだった。


 最後の墓に石を積んだ日の晩、白い外套の男が、雪解けの峠道を、馬で下りてきた。院長に一枚の触れを渡して、明くる朝には、麓のほうへ発つという。


 食堂の卓で、院長が、触れを読みあげた。


「――白陽の聖女、満陽祭に臨む」


 院長の声が、そこで、少しだけ止まった。目が、卓の向こうのヘルミの上に、とどまっていた。


「――巡礼の者は、聖都に集え」


 卓が、静かになった。


 白陽の聖女。教会が、ヘルミを呼ぶ名だった。


 ヘルミは、匙を置いた。


「では、明日、発ちます」


 声が、少しだけ、震えていた。


 シエルが、ヘルミの袖を掴んだ。


「わたしも、いく」


 卓の端で、ゴドフロワが、椀を置いた。


「……御者が、要ろう」


 皆の目が、レオニスに集まった。


 レオニスは、黙って、外套の胸のあたりに手をやった。その内側に、師匠の手紙がしまってあるのだろう、とミレイアは思った。


 手を、そこに置いたまま、そっぽを向いた。


「……気が向いた」


 何に、とは、誰も訊かなかった。


 ミレイアは、懐から、革表紙の帳面を出した。


「数えておいて、よかったです」


 レオニスが、横目で、こちらを見た。


「……最初から、そのつもりだったろ、お前」


 ミレイアは、帳面を開いて、ペンを取った。


「数えていただけです」


◆


 あの雨から、十八日が過ぎた朝だった。


 修道院の門の前に、院長が立っていた。


 四年前の冬の終わりにも、この人は、この門で、ひとりの老人を見送ったのだという。老人は、谷のほうへ下りていって、それきり、戻らなかった。


 今朝、この門を出ていく者たちが向かうのは、峠の向こうだった。


 院長は、ひとりひとりに、頭を下げた。ヘルミに。シエルに。御者台のゴドフロワに。ミレイアに。十歩うしろのアルバンにも。


 最後に、レオニスの前で、顔を上げた。


「白の高原では、影が薄くなります」


 皺(しわ)の奥の目が、レオニスの顔の上で、止まった。


「……白い方ほど」


 レオニスは、何も言わなかった。


 院長も、それ以上は、口を開かなかった。


 峠のいちばん高いところに出ると、向こうが、ひらけた。


 白い野だった。


 白い草と、白い土が、地平まで、どこまでも平らに続いている。雪をかぶっているのではない。もとから、白いのだ。その果てに、光がひとつ、灯っていた。


 昼の陽の下でも、それとわかる白さだった。息をするように、膨らんでは、しぼむ。


 聖都の、光だった。


 四年前、パイプの老人も、ここまで登ってきて、向こうを長いこと見ていたのだと、院長は言っていた。


 馬車が止まると、ヘルミが、窓から顔を出して、うしろを振り返った。


「アルバンさん」


 十歩うしろで、白い火が止まった。


 ヘルミは、その火に向かって、言った。


「谷の祠の文字を、読んでいただけますか。……ここで」


 アルバンは、すぐには答えなかった。


 それから、白い革の帳面を開いた。几帳面な字を、指でなぞりながら、読みあげた。唄の節ではなく、記録を読む声だった。


「――我ら夜の番人、最後の欲をもて、女神の灯に火をともし、夜を取り戻せり」


 白い野のほうから、ぬるい風が吹いてきた。


「――我らが友、白き」


 アルバンの声が、そこで、ひと息、途切れた。


 頁(ページ)の上の何かを、指が、黙って越えた。


「――その子を抱きて、北の白き野へ去れり」


 北の、白き野。


 ミレイアは、目の前に広がる白を見た。


「――その子」


 声が、また、途切れた。


「……ここは、読めませんでした」


 それから、続けた。


「――泣けずして、白の奥に眠る」


 ヘルミの手が、胸の前で、組まれた。


「――我ら、この谷に住まい、唄を伝う。いつの日か、白の奥の泣けぬ子に、届けんがため」


 唄の一行を、アルバンは、同じ平らな声で読んだ。


「――おいで おいで なけない こ」


 風が、やんだ。


 シエルが、ヘルミの袖を握っていた。ゴドフロワは、御者台の上で、手綱を握ったまま、動かなかった。


 レオニスは、白い野を見ていなかった。足もとに落ちた、自分の影を、見下ろしていた。


 ミレイアは、アルバンを見た。


「……白き、のあとの、お名前は」


 アルバンは、頁の上に指を置いたまま、答えた。


「名は、満陽祭の日に、光の下で」


 ミレイアは、言った。


「隠しているのと、同じではありませんか」


 アルバンは、帳面を閉じた。


 硬く、整った微笑みが、こちらを向いた。


「……満陽祭まで、です」


 ミレイアは、自分の帳面を開いた。


 ――満陽祭まで二十二日:峠を越える。


 一行だけ書いて、閉じた。


 峠を下りはじめると、背中の谷が、尾根の向こうに隠れて、見えなくなった。


◆


 白い野を、三日、進んだ。


 白い草は、風が吹いても、ほとんど鳴らなかった。踏んでも、折れない。かがんで触れてみると、ほんのりと、あたたかかった。


 道は、一本きりだった。荷車の轍(わだち)が、白い土の上を、地平の光のほうへ、まっすぐに延びている。満陽祭へ向かう巡礼たちの荷車が、ときどき、馬車を追い越していった。


 日を追うごとに、影が、淡くなった。


 一日目の昼、ミレイアの影は、まだ、足もとに黒く溜まっていた。二日目には、それが少し、褪(あ)せた。三日目には、水で薄めた墨のような色になった。


 誰の影も、そうだった。


 レオニスの影だけが、それよりも、もう少し、淡かった。


 二日目の昼に、ミレイアは、それに気づいた。白い土の上に、並んで歩くふたりぶんの影が落ちていて、自分のほうが、濃かった。


 ――白い方ほど。


 院長の声が、耳の奥でした。


 ミレイアは、何も言わなかった。


 巡礼たちの顔も、日を追うごとに、変わっていった。


 一日目の晩、道ばたの焚き火のそばで、声を殺して泣いている女がいた。膝の上に、小さな靴を、片方だけ抱いていた。


 三日目の朝、同じ女が、荷車の上で、穏やかに笑っていた。


 靴は、どこにも、見えなかった。


 ゴドフロワは、御者台から、前だけを見ていた。


 二十五年前、この人は、谷で、笑っている娘を抱き上げた。その娘も、いつか、この白い野を渡っていったのだろう。


 その娘は、今、馬車の窓辺で、白い野を見ていた。泣いても、笑ってもいなかった。ときどき、胸もとに手をやる。小瓶は、もう、そこにはない。それでも、何かを確かめるように、服の上から、指先で押さえていた。


 ミレイアの胸の聖印は、一日じゅう、ぬるかった。


 白い野を渡る風は、春の陽だまりのように、あたたかい。馬車に揺られていると、胸の底のどこかが、ほどけていくような気がした。


 それが、落ち着かなかった。


 シエルは、ときどき、馬車の窓から身を乗り出して、うしろの白い火を振り返っていた。


 日が沈んでも、空は、白いままだった。


 夕暮れのあと、ほんの少しだけ、灰色がかる。それきり、暗くならない。乳を溶かしたような白が、空いっぱいに、ぼんやりと明るんでいる。


 星は、ひとつも、なかった。


 一日目の晩、レオニスは、馬車の屋根に寝転んで、長いこと、空を見上げていた。


「……星が、ねえ」


 王都の屋根でも、峠の修道院の屋根でも、この人は、夜になると星を見ていた。


 二日目の晩、ミレイアは、眠れなかった。


 白い空の下では、目を閉じても、まぶたの裏が明るい。焚き火のそばで、外套にくるまったまま目を開けていると、レオニスが起きあがるのが見えた。


 少し離れたところに、白い火が、ひとつ灯っていた。アルバンは、夜も、ランタンを消さない。白い空の下では、その火は、ほとんど、空と見分けがつかなかった。


 レオニスは、その前まで歩いていって、足を止めた。


 ふたりとも、黙っていた。


 風のない晩だった。低い声でも、ここまで届いた。


「……戻ったんだ」


 レオニスの声だった。


「明け方に」


 白い火は、揺れなかった。


 やがて、アルバンの声がした。


「結構です」


 にこやかな声だった。


 レオニスは、それ以上、何も言わなかった。少しのあいだ、そこに立っていて、それから、焚き火のそばへ戻ってきた。外套を頭からかぶって、背を向けて、横になった。


 何の話なのか、ミレイアには、わからなかった。


 白い火は、それきり、朝まで、少しも動かなかった。


◆


 白い城壁だった。


 白い石を積みあげた壁が、白い野の真ん中に、どこまでも長く延びている。その向こうに、白い屋根が、幾重にも重なっていた。いちばん奥に、ひときわ高い、白い尖塔。そのうしろに、丸い屋根がひとつ、白く光っている。


 光は、そこから来ていた。


 城門の上に、白い幟(のぼり)が、何本もはためいていた。


 レオニスは、目を細めた。


「……目が痛え街だな」


 城門をくぐると、白い衣の侍祭たちが、並んで待っていた。


 皆、にこにこと笑っていた。いつから待っていたのか、誰の顔にも、疲れの色はなかった。


 いちばん前の侍祭が、馬車から降りたヘルミの前に進み出て、深々と頭を下げた。


「お帰りなさいませ、ソレーヌさま」


 ヘルミの足が、止まった。


「……ヘルミ、です」


 かすかな、けれど、はっきりした声だった。


 侍祭は、にこにこと笑ったまま、頷いた。


「はい。ソレーヌさま」


 ヘルミは、唇を結んだ。


 シエルが、ヘルミの手を、ぎゅっと握った。


 アルバンは、門の内側で、一行に深く頭を下げた。それから、ひとりで、大聖堂のほうへ歩いていった。白い火は、白い街の中で、すぐに見えなくなった。


 白い街だった。


 白い石畳に、白い壁。白い屋根。窓辺には、白い花の鉢が並んでいる。通りのそこかしこに白い幟が立ち、白い花を抱えた巡礼たちが、大聖堂のほうへ、ゆるゆると流れていく。


 すれ違う人々は、皆、笑っていた。


 誰の影も、淡かった。


 水で薄めた墨のような影が、白い石畳の上に、頼りなく落ちている。足を上げれば、そのまま剥がれて、どこかへ行ってしまいそうな影だった。


 レオニスは、自分の足もとを見た。


 皆の影より、もう少し、淡かった。


 窓という窓に、窓掛けが、なかった。


 閉めるような暗さが、この街には、ないのだ。


 大広場へ向かう通りを、白い棺を担いだ列が、静かに横切っていった。


 担ぐ者も、うしろに続く者も、白い服を着て、白い花を手にしていた。


 皆、穏やかに笑っていた。


 泣いている者は、ひとりも、いなかった。


 レオニスは、列から目を離せなかった。


「……葬式、だよな」


 隣で、シエルが、小さく頷いた。


 ミレイアが、胸の聖印を、服の上から握っていた。


 列は、白い通りの向こうへ、笑いながら、遠ざかっていった。


 巡礼宿の前で、小さな男の子が、こちらを見上げていた。


 白い服の、五つくらいの子だった。髪が、きれいに撫でつけてある。


 男の子は、レオニスの頭を、まっすぐに指さした。


「それ、なあに?」


 レオニスは、眉を寄せた。


「……寝癖だ」


「ねぐせ?」


 男の子は、目をまるくした。見たことのないものを、見る顔だった。


 レオニスは、頭を掻いた。


「寝てると、こうなるんだよ。夜にな」


 男の子は、まばたきをした。


「よるって、なあに?」


 レオニスは、口を開けた。


 何も、出てこなかった。


 夜は、夜だ。――それを、暗いということを知らない子に、どう言えばいい。


 シエルが、レオニスの横から、すっと前に出た。


 男の子の前に、しゃがみこむ。目の高さを、そろえた。


「よるはね……」


 ひとつずつ、拾いあげるような声だった。


「くらくて、ほしが、でて」


 男の子が、シエルの顔を見ていた。


 シエルは、目を逸らさずに、言った。


「ないても、いいところ」


 男の子は、わからない、という顔をした。それから、くるりと背を向けて、笑いながら、通りの向こうへ駆けていった。


 シエルは、しゃがんだまま、その背中を見送っていた。


 シエルも、この都で、ヘルミの隣で、笑っていたのだ。夜を、知らずに。


 巡礼宿の部屋は、白かった。


 白い壁。白い寝台。白い敷布。窓には、やはり、窓掛けがない。


 晩の食事も、白かった。


 白いパンに、白いチーズ。山羊(やぎ)の乳。白い豆のスープ。


 レオニスは、匙を持ったまま、卓の上を見回した。


「……全部、白いな」


 向かいで、シエルが、白いパンをちぎりながら言った。


「まえも、ずっと、これだったよ」


 ヘルミが、シエルの横顔を見た。それから、自分の椀に、目を落とした。


 白い夜だった。


 眠れずに、階下の食堂へ下りていくと、ミレイアが、ひとりで、窓辺の卓に座っていた。


 灯りは、要らなかった。窓の外の白い明るさで、字が読める。


 ミレイアは、革表紙の帳面を開いていた。


 ペンを持ったまま、長いこと、動かなかった。何かを、思い出そうとしているような顔だった。


 やがて、ペン先が下りた。頁のいちばん上に、小さく、何かを書いた。


 罪状を書く顔では、なかった。


 何を書いたのかは、見なかった。


 レオニスは、黙って、階段を上がった。


◆


 聖都の影は、薄い。


 八つの年から、この都で暮らしてきた。いつのまにか、影とは、そういうものだと思うようになっていた。


 春の王都で、石畳に落ちた自分の影を、見るまでは。


 白い石畳の上を、淡い影が、ついてくる。アルバンは、それを見ずに、巡礼宿の階段を上った。


 扉を叩くと、すぐに開いた。


 寝癖の頭が、戸口に立っていた。目の下に、うっすらと、くまが浮いている。眠れなかったのだろう。


 谷の朝から、自分から声をかけるのは、初めてだった。


 高原の晩、この人は、白い火の前まで歩いてきて、戻ったのだ、と言った。明け方に、と。


 言葉なら、何とでも言える。


「言葉は、要りません」


 アルバンは、にこやかに言った。


「光の下で、お聞きします」


 白い闇司祭は、アルバンの顔と、手のランタンとを、順に見た。


 それから、鼻を鳴らした。


「……照らしたきゃ、照らせ」


 寝癖の頭を、乱暴に掻く。


「それで、お前の気が済むならな」


 隣の部屋の扉が開いて、銀髪の娘が出てきた。もう、身支度を済ませていた。


「監視役ですので」


 ミレイア・セレスは、それだけ言って、うしろについてきた。


 審問所の塔は、大聖堂の脇に、白く、細く、立っている。


 いちばん上の部屋には、何もない。白い壁と、白い床と、窓がひとつ。窓の外に、白い屋根の海が、どこまでも続いている。


 異端の者を、ここで照らしてきた。黒い聖印を隠していた者。隠していることを、隠していた者。皆、この光の下で、自分の口から話した。


 アルバンは、白い闇司祭を、部屋の真ん中に立たせた。


 ミレイアは、戸口の脇の壁ぎわに立った。革表紙の帳面を、胸の前で、両手で押さえていた。


 アルバンは、ランタンを掲げた。


 光が、満ちた。


 冷たい光だった。白い壁の、わずかな陰りが消えた。窓枠の影が消えた。床の上の淡い影が、ひとつ残らず、拭い去られた。


 聖都の薄い影でさえ、この光の下には、残らない。


 白い闇司祭の顔が、晒(さら)された。


 琥珀色の目が、まぶしそうに細められた。それでも、逸らされはしなかった。


 アルバンは、訊いた。


「あの夜、なぜ、戻ってこなかったのですか」


 唇が、一度、固く閉じられて――


 ひとりでに、開いた。


「戻ったよ」


 かすれた声だった。


「明け方に。師匠と」


 ランタンの取っ手を握る指が、止まった。


 明け方。


「熱が下がらなくて、師匠に担がれて、宿で、ひと晩。……明け方に、戻った」


 自分の口から出てくる言葉に、その目が、見開かれていた。


「いなかった。三日、探した。見つからなかった」


 声は、止まらなかった。


「……それから、忘れてた」


 ひと息、詰まった。


「お前の顔も」


 光の中で、嘘は、つけない。


 自分の光だから、わかる。


 戻ってきた。探した。


 ――忘れていた。


「師匠が死んだって聞いたときも、泣かなかった」


 問うてもいないことを、口が、勝手に話していた。


「……泣けなかった」


 壁ぎわで、帳面を押さえるミレイアの指に、力がこもった。


 照らされた顔が、くしゃりと、歪みかけた。


 泣きだす前の、子供の顔だった。光の下で、アルバンは、それを、はっきりと見た。


 ――泣く、と思った。


 唇が、もう一度、動いた。


「――腹、減った」


 部屋に、短い沈黙が落ちた。


 アルバンには、その言葉の意味が、わからなかった。


 壁ぎわから、平らな声がした。


「……それは、知っています」


 アルバンは、ランタンを掲げたまま、立っていた。


 照らせば、救われると思っていた。


 照らした。


 戻ってきた。探した。忘れていた。――それで、何が変わったのだろう。


 何ひとつ、変わらなかった。


 あの夜、ひとりだったことは、変わらない。


「……そうですか」


 硬く、整った微笑みが、自分の顔に戻ってくるのが、わかった。


 壁ぎわで、ミレイアは、帳面を胸に押さえたまま、立っていた。開こうとは、しなかった。


 アルバンは、ランタンを、下ろした。


 白い床に、水で薄めたような影が、三つ、戻ってきた。


 そのひとつだけが、ほかのふたつより、淡かった。


◆


 塔を下りてからも、ミレイアは、光の下で聞いたことに、触れなかった。


 昼の卓で、からになったこちらの椀に、白い豆のスープを、もう一杯よそった。


 何杯目なのかは、数えていないようだった。


 昼過ぎに、侍祭たちが、迎えに来た。


「猊下が、お待ちでございます。白陽の聖女さまと――」


 いちばん前の侍祭が、レオニスの寝癖の頭を見て、笑顔のまま、言い足した。


「白い闇司祭さまを」


 侍祭たちのうしろに、白い火が、ひとつ灯っていた。


 大聖堂の奥へ、白い回廊が、いくつも続いていた。


 ひとつくぐるたびに、白さが増していく。壁が白く、床が白く、天井が白い。足もとの影が、くぐるたびに、薄くなっていく。


 何本めかの回廊の入り口で、白い外套の衛士(えじ)たちが、槍を立てて並んでいた。


 侍祭が、ミレイアたちのほうを振り返った。


「ここから先は、お召しの方だけでございます」


 ミレイアが、レオニスを見た。


 レオニスは、肩をすくめただけだった。


 ミレイアは、衛士の槍の手前で、足を止めた。


 シエルが、ヘルミの手を、そっと離した。ゴドフロワは、衛士たちの顔を、ひとりずつ、見ていた。


 アルバンだけが、ふたりのうしろについてきた。衛士たちは、ランタンの白い火に、黙って道をあけた。


 最後の回廊を抜けると、足もとから、影が消えた。


 自分の影も。ヘルミの影も。アルバンの影も。


 丸い天井の、広い部屋だった。窓は、ひとつもない。燭台も、ひとつもない。


 要らないのだ。


 祭壇の上に、光が浮かんでいた。


 大人が両腕を広げても、抱えきれないほどの、白い光の球だった。峠から見えた、あの光だった。


 春の真昼のように、温かかった。


 白陽の間(ま)だった。


 広間の白さの中では、アルバンのランタンの火は、ほとんど見えなかった。


 祭壇の前に、小柄な老人が、膝をついていた。


 骨の浮いた、細い背中だった。白い衣の袖から、枯れ枝のような手首がのぞいている。


 老人は、祈っていた。


 侍祭たちは、入り口で、音もなく下がった。


 老人が、肩ごしに、振り返った。


「……追わずとも、来たか」


 しわがれた、静かな声だった。


 老人は、レオニスを見ていた。


「白は、白を呼ぶ」


 レオニスは、鼻を鳴らした。


「……呼ばれた覚えは、ねえよ」


 老人は、何も答えなかった。目が、ヘルミのほうへ移った。


「あのときは、この光を見上げて、笑うておったな」


 ヘルミの肩が、小さく揺れた。


 老人は、かまわずに続けた。


「泣いたそうだな」


 老人は、めずらしい鳥でも眺めるように、ヘルミの顔を眺めていた。


「……泣くとは、どのようなものだ」


 ヘルミは、すぐには答えなかった。


 祭壇の上の光を、見上げていた。白い光が、ヘルミの顔を、まっすぐに照らしている。


「……冷たくて」


 ヘルミは、光を見上げたまま、続けた。


「あたたかいものです」


 老人は、ヘルミの顔を、眺めつづけていた。


「雪のそばに置けば、また、白くなると思うたが」


 レオニスの拳が、ひとりでに、握られた。


 北の修道院。父親の雪を、小瓶に詰める部屋。――そういうことか。


 ヘルミは、光から、目を下ろした。


「父の雪は」


 老人を、まっすぐに見て、言った。


「もう、ありません」


 老人は、怒らなかった。


「そうか」


 それだけ言って、また、光のほうを向いた。


 それから、背を向けたまま、思い出したように言った。


「いちばん短い夜の真夜中に、白き者が白陽へ歩み入れば、白陽は、地の果てまで昇る」


 世間話でもするような、あっさりした声だった。


「……そうすれば、もう誰も、泣かずともよい」


 老人は、もう一度、肩ごしにレオニスを見た。


「来るかどうかは、汝が決めよ」


 ――見るかどうかは、あんたが決めろ。


 自分の声が、耳の奥でした。泣いている誰かの前で、何度も、そう言ってきた。


「……行かねえよ」


 老人の口もとが、ほころんだ。


「そうか」


 子供のような、顔だった。


 レオニスは、老人の背中に、訊いた。


「開祖のこと、知られても、いいのかよ」


 背中のほうで、ランタンの覆いが、かすかに鳴った。


 老人は、光を見上げたまま、答えた。


「真(まこと)か、偽りか」


 祭壇の上で、光が、ひとつ、大きく息をした。


「……白陽の下では、どちらも、泣くほどのことではない」


 光が、膨らんだ。


 その奥に、何かが見えた。


 白い光の、いちばん奥。四つ足の獣のようでもあり、背を丸めた巨人のようでもある、白いもの。


 顔が、なかった。


 口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく、微笑んでいた。


 谷で、見た姿だった。


 雪の中から立ち上がった、先生の獣と、同じ姿だった。


 隣で、ヘルミが、息を呑んだ。


 胸の底の白が、ひやりと身をすくめた。


 光が、しぼんだ。白いものは、光の奥に、見えなくなった。


 侍祭たちが、いつのまにか、入り口に戻ってきていた。笑みを浮かべたまま。


 広間を出ようとして、ヘルミが、足を止めた。


 振り返った。


「猊下は」


 祭壇の前の、小さな背中に、問いかけた。


「泣いたことが、おありですか」


 老人は、振り返らなかった。


「ない」


 ひと息おいて、言い足した。


「……幼いころのことは、覚えておらぬ」


 ヘルミは、回廊を戻るあいだ、ひと言も、口をきかなかった。胸の前で組んだ両手を、一度も、ほどかなかった。


 侍祭のひとりが、振り返って、言った。


「猊下は、お眠りになりません」


 レオニスは、思わず訊いた。


「……一度も、か」


 侍祭は、にこにこと頷いた。


「はい」


 少しも、不思議そうではなかった。


◆


 回廊の入り口で、ミレイアたちが待っていた。


 シエルが、駆けよってきた。組まれていたヘルミの両手が、ほどけて、シエルの手を握った。


 ミレイアは、こちらの顔を見るなり、言った。


「……日が、沈みました」


 レオニスは、足を止めた。


「は?」


 入ったのは、昼過ぎだった。中にいたのは、半刻(はんとき)もなかったはずだ。


 回廊の高い窓の外は、白かった。けれど、昼の白さとは違っていた。


 ゴドフロワが、黙って、窓の外を見ていた。


 レオニスは、足もとを見た。


 影が、戻っていた。


 今朝より、薄かった。


 その晩、巡礼宿の窓辺で、レオニスは、眠れずにいた。


 窓の外が、乳色に白い。閉める窓掛けは、ない。


 開けてやる窓掛けも、なかった。


 星のない空の下に、白い屋根が、どこまでも続いている。その真ん中に、丸い屋根が、ぼんやりと光っていた。


 息をするように、膨らんでは、しぼむ。


 胸の底が、ぬるかった。


 あの光が膨らむたびに、そこが、少しずつ、あたたかくなっていく気がした。


 そのとき、声がした。


 都の真ん中からだった。


 あたたかい声だった。知らない男の声だった。ひどく、優しかった。


 ――おいで。


 胸の底で、何かが、応えた。


 ――ああ。


 自分の声だった。


 喉は、少しも動いていなかった。それでも、確かに、自分の声だった。


 レオニスは、窓枠を、握りしめた。


 ――おいで。


 声は、やまなかった。泣いている子供をあやすように、何度も、何度も、同じ言葉で、呼んでいた。


 扉が、二度、叩かれた。


「……起きていますか」


 ミレイアの声だった。


「……寝てる」


「では、寝言ですね」


 扉の向こうで、紙をめくる音がした。ペン先が、走る。


「……何、書いてんだ」


「罪状です」


 平らな声が、読みあげた。


「――満陽祭まで十九日:監視対象、一睡もせず」


「……まだ、夜は明けてねえぞ」


「朝に、確かめに来ます」


 足音が、隣の部屋へ戻っていった。扉の閉まる音が、ひとつ。


 ――おいで。


 都の真ん中で、声は、まだ呼んでいた。


 レオニスは、窓枠から、手を離さなかった。


 その夜、レオニスは、一睡もしなかった。

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