第四章 ふた匙目
シエルの目が、赤かった。
朝の食堂で、豆のスープの椀を前にして、シエルは一度も顔を上げなかった。匙を握ったまま、椀の中ばかり見ている。
その隣で、ヘルミが、穏やかに微笑んでいた。
夜明け前、屋根の上にいたレオニスに、崖から戻ってきたミレイアが、梯子の下から、ひと言だけ言った。
――ゆうべ、聖印が、熱くなりました。ヘルミさんの、そばで。
それきり、ミレイアは、朝からずっと黙っていた。罪状帳も、開いていなかった。
ヘルミが、シエルの髪に手をやった。乱れてもいないひと房を、指で撫でつける。
シエルの肩が、小さく、すくんだ。
レオニスは、匙を置いた。
――いいか、坊主。幸せにしようとするな。
煙草くさい、嗄れた声が、耳の奥でした。
――選ばせろ。
昔、師匠は、そう言った。皿を並べて、好きなのを選ばせるんだ、と。辛いのを取る奴もいりゃ、何も食わねえって奴もいる、と。
――あのシチュー……北の味は、北で覚えます。
冬の朝、雪の中で、ヘルミは、そう言って笑った。目のふちを、赤くして。
レオニスは、卓の上で、指を組んだ。
「……シチューを作る」
ミレイアの目が、こちらを向いた。シエルも、目をまるくして、レオニスを見た。
ヘルミは、微笑んだまま、小さく首をかしげていた。
レオニスは、誰の顔も見ずに言った。
「師匠の、北の味だ」
卓の端で、院長が、椀を置いた。
「……竈でしたら、お使いください」
少し間をおいて、付け足す。
「黒麦酒は、蔵にございます。肉は、ございませんが」
レオニスは、椀に目を落とした。
「……知ってる」
門の脇には、今朝も、白い火が灯っていた。
レオニスは、その前に立った。
「ボルグのおっさんを、ひと晩、ここへ連れてきてえ」
アルバンは、にこやかな顔のまま、少しも迷わずに答えた。
「罪人を、柵の外に泊めることは、認められません」
それから、黙った。
ランタンの中で、白い火が、音もなく揺れていた。
「……ですが、見届けるのが私の務めですので。私が付き添います」
朝のうちに、ふたりで谷へ下りた。
柵の門の前で、年かさの兵は、寝癖の頭と白い火を順に眺めて、今度は何も言わずに、顎をしゃくった。干し肉の包みは、見張りの兵たちから、銀貨で分けてもらった。
昼過ぎに、三人で、峠への道を上った。
ボルグが、干し肉の包みを担いで、黙々と歩いていた。十歩うしろに、白い火がついてくる。
しばらく歩いてから、ボルグが、ぽつりと訊いた。
「……なんで、シチューなんだ、兄ちゃん」
レオニスは、前を向いたまま答えた。
「北の味は、北で覚えるんだとさ」
「……ヘルミ嬢ちゃんが、か」
「冬に、王都で、そう言ってた」
ボルグは、また黙って歩いた。
布を巻いた左手が、包みの紐を、握りなおした。
「……谷でパンを配ってくれたとき、嬢ちゃんは、笑ってたな」
低い声だった。
「あの日も、嬢ちゃんは、笑ってた」
二十五年前の、あの日のことだと、わかった。
レオニスは、何も言わなかった。
背中のほうで、白い火が、暮れていく峠の道を照らしていた。
修道院の厨房は、狭かった。
石の竈がひとつと、使いこまれた鍋がいくつか。窓の外では、北の山の尾根が、夕暮れの色に沈みかけている。
戸口の柱に、ミレイアがもたれていた。腕を組んで、監視役ですので、と、さっき言った。厨房の中には、入ってこなかった。
ボルグは、竈の前に陣取っていた。片腕の大男が立つと、厨房は、いっそう狭くなった。
卓の隅では、ゴドフロワが、黙って根菜の皮をむいていた。誰も、頼んでいなかった。剣を握ってきた大きな手が、小さな刃物を、驚くほど器用に動かしていた。
ボルグが、顎で、まな板の上を指した。
「玉ねぎからだ」
レオニスは、刻んだ玉ねぎを、鍋に放りこんだ。
じゅう、と音が立つ。木べらで、かき回す。玉ねぎが透きとおり、色づき、茶色になっていく。
ボルグが、横から覗きこんだ。
「焦がせ。もっとだ」
「わかってるよ」
わかっていた。真っ黒になるまで焦がすのだ。師匠の横で覚えて、自分でも、何度も作ってきた。
それなのに、今日は、木べらを持つ手が、勝手にためらった。
「兄ちゃん、それじゃ、ただの茶色だ」
「……これ以上やったら、炭だろ」
「炭の、手前までだ」
レオニスは、黙って、かき回しつづけた。
煙が、目に来た。
焦げた玉ねぎの煙は、ひどく染みる。目の奥が熱くなって、鍋の中が、にじんだ。
袖で、目もとを拭った。
「……玉ねぎだ」
戸口のほうから、平らな声がした。
「まだ、何も訊いていません」
ボルグが、喉の奥で笑った。
玉ねぎが、真っ黒になった。黒麦酒を注ぐと、鍋の中で、黒い泡が、勢いよく立ちのぼった。干し肉と根菜を、放りこむ。
鍋が、ぐらぐらと煮え立った。
ボルグが、残った左腕を伸ばして、竈の薪を一本、抜いた。
「火が強すぎる。もっと、ゆっくりだ」
それから、鍋のふちを、指の背で軽く叩いた。
「――こいつは、急かすと拗ねるんだよ」
戸口で、ミレイアが、組んでいた腕を、ほどいた。
何か言いかけて、やめたようだった。
レオニスは、荷の中から、壺を出した。
墓守の婆さんから受け取った、師匠の壺だった。蓋を取ると、中の蜂蜜は、白く濁って、石のように固まっている。
――湯につけりゃ、とけるとさ。あの爺さんの言いぐさだよ。
丘の上で、婆さんは、そう言った。
小鍋に湯を沸かして、壺ごと、そこにつけた。
やがて、白い濁りが、少しずつ透きとおりはじめた。固まっていた蜜がゆるみ、とろりと揺れる。壺の内側の、乾いた蜜の輪も、温もりにほどけて、下へ流れていった。
ひと匙ぶんの跡だった。師匠が、最後に舐めやがったのだろう。
ボルグが、壺を覗きこんだ。
「……あの人の、蜜か」
「ああ」
ボルグは、それきり、何も言わなかった。
四年前の、冬の蜜だった。湯気の向こうで、金色が、息を吹きかえしていく。
レオニスは、ひと匙すくって、鍋に垂らした。
鍋が、煮えた。
火から下ろして、蓋をする。
ボルグが、大きな手で、蓋の上を、ぽんと叩いた。
レオニスの口が、ひとりでに動いた。
「シチューだって、昼寝させてやんなきゃな」
声が、ふたつ、重なっていた。
ボルグと、顔を見あわせた。
片腕の大男が、肩を揺らして笑いだした。レオニスも、笑った。
レオニスは、笑いながら、蓋のふちに指をかけた。ひと口だけ、と思ったのだ。
ボルグの手が、その指を、蓋の上から押さえた。
「寝てるのを、起こすんじゃねえ」
――名前は彫るなって、言われてね。寝てるのを、起こされたくねえってさ。
墓守の婆さんの声が、耳の奥でした。
レオニスは、指を引っこめた。
「……わかったよ」
戸口のほうで、ミレイアが、そっぽを向くのが見えた。口の端が、少しだけ、ゆるんでいた。
その晩、峠の修道院の竈の上で、鍋は、蓋をしたまま、昼寝をした。
門の脇の物置で、ボルグが、藁の上に眠っていた。その戸口に、白い火が、眠らずに灯っていた。
◆
椀から、湯気が立っていた。
焦がした玉ねぎと、黒麦酒の匂いがした。
ヘルミは、その匂いを、どこかで知っている気がした。
明くる日の昼だった。修道院の食堂の長い卓に、皆が並んでいた。シエルも、ミレイアも、ゴドフロワも。卓の端には院長が、戸口の近くには、ボルグとアルバンが座っていた。
黒い汁の中に、煮崩れた根菜が沈んでいる。
皆と同じ鍋からよそった、同じシチューだった。
レオニスが、卓の向こうから、手を伸ばした。
壺の蜂蜜を、ひと匙すくう。
とろりとした金色が、匙の先から、ひと筋、ヘルミの椀に垂れた。黒い汁の上で、小さく灯るように光った。
「あんたの分だ」
レオニスは、それだけ言って、匙を壺のそばに置いた。
ヘルミは、左の手で、胸の小瓶を握ったまま、右の手で匙を取った。
ひと口、すくう。
あまかった。
あたたかかった。
焦げた苦みの奥から、蜂蜜のあまさが、口の中に広がってくる。喉を通って、胸の底まで、あたたかさが降りていく。
あたたかいのに――どこかが、冷たかった。
どこが冷たいのか、わからなかった。
何かを、思い出しかけた気がした。焦げた匂いの向こうに、誰かの手があった気がした。
それは、胸の小瓶の温もりの中で、すぐに、遠くなった。
ヘルミは、匙を止めて、卓の上の壺を見た。
古い、素焼きの壺だった。そのそばに、匙が、置いてある。
レオニスは、何も言わなかった。
腕を組んで、匙のほうも、ヘルミのほうも見ずに、黙って座っていた。ふた匙目を、垂らそうとはしなかった。
待っているのだ、と思った。
何を待っているのかは、わからなかった。
ひと匙じゃ足りないと、泣く子だったという。
冬の王都で、レオニスさんが、そうおっしゃった。ボルグから聞いた話だ、と。オズワルドさまも、お手紙に、そう書いていらした。
――泣き虫でな。シチューの蜂蜜が、ひと匙じゃ足りねえって泣く。
泣いた、のだろう。
泣くと、誰かが、ふた匙目を垂らしてくれた。
誰が?
胸の小瓶が、あたたかかった。父の手のような、あたたかさだった。
それなのに、その手が、思い出せなかった。ふた匙目を垂らしてくれた手が、どんな手だったのか。
向かいの席で、シエルが、匙を握りしめたまま、こちらを見ていた。
ヘルミは、小瓶を握っていた手を、そっと開いた。
細い紐を、首から外す。
小瓶を、卓の上に置いた。
卓の端で、院長が、小さく息を呑んだ。
胸の底が、ひやりとした。
冷たかった。あたたかいものが、ふっと抜けていったあとの、冷たさだった。
ヘルミは、壺に、手を伸ばした。
レオニスが置いた匙を、取る。
「……自分で、入れます」
声が、少し震えた。
壺の中の金色を、ひと匙すくう。椀の上で、匙を傾ける。
ふた匙目が、黒い汁の上に、とろりと落ちた。
レオニスが、組んでいた腕を、ほどいた。それだけだった。
すくって、口に運んだ。
あまかった。
――大きな手が、匙を持っていた。
古い綿入れの袖口が、白墨の粉で、白くなっていた。泣いている子の椀に、その手が、もうひと匙、蜂蜜を垂らす。泣くたびに、いつも。
――しょうがない子だね。
やわらかな声が、笑っていた。
冬が来るたびに、壺を腰で鳴らしながら、雪道を上ってくる背の高い人がいた。パイプの煙の匂いがした。その人の持ってきた蜂蜜を、父が、匙ですくった。
ひと粒、椀に、落ちた。
ヘルミは、それを、見下ろしていた。
黒い汁の上で、小さな輪が、ひとつ、広がって消えた。
「……父が」
声が、かすれた。
「いつも、ふた匙目を」
もうひと粒、落ちた。
「……泣きやむまで」
戸口の近くで、ボルグが、顔を背けた。
大きな肩が、震えていた。片方しかない手で、目もとを覆っている。
ゴドフロワは、椀を持ったまま、動かなかった。灰色の目が、卓の上の、どこか一点を見つめていた。
シエルも、泣いていた。声を殺して、うつむいて。櫛を通してやった亜麻色の髪が、小さく揺れていた。
おとといの晩、どうして泣いているのかと、この子に訊いた。
今は、訊かなかった。
ヘルミは、濡れた目で、卓の上の壺を見た。
「……この、蜂蜜は」
レオニスが、壺のほうを見ずに言った。
「師匠の、最後の蜜だ」
ヘルミは、素焼きの壺に、そっと手を添えた。湯につけてあったのか、ほのかに、温もりが残っていた。
誰も、何も言わなかった。
その静けさの中で、椀を置く音が、ひとつした。
アルバンだった。
自分の椀を、からにしていた。
「……おかわりを、いただけますか」
硬い声だった。
それから、すぐに付け足した。
「いえ。監視のためです」
ミレイアが、アルバンのほうを向いた。
「……何の監視ですか」
アルバンは、答えなかった。黙って、椀を差し出していた。
ヘルミは、椀の残りを、ひと匙ずつ、食べた。
最後のひと匙まで食べてから、匙を置いた。
卓の上の小瓶は、そのままにして、立ち上がった。
「今夜、谷へ、参ります」
皆が、こちらを見ていた。
「父に、会いに」
シエルが、何か言いかけて、口を開いた。
ヘルミは、首を振った。
「……ひとりで」
卓の端で、院長が、残された小瓶を、見下ろしていた。
手は、伸ばさなかった。
やがて、院長は、小瓶から目を上げた。
「……私は、何も、見ておりません」
誰に言ったのかは、わからなかった。
◆
月の細い夜だった。
日が傾くころ、荷車で、谷へ下りた。ゴドフロワが手綱を取り、ボルグも、谷へ戻る荷台に乗った。ひとりで、と言ったのに、誰も、峠に残らなかった。
首のまわりが、軽かった。
軽くて、冷たかった。荷台に揺られているあいだじゅう、シエルが、ヘルミの手を握っていた。
谷の柵の前で、見張りの兵たちが焚き火を囲んでいた。白い火を提げた審問官と、年老いた修道女の顔を見ると、兵たちは、黙って道をあけた。
院長が、門の閂に手をかけた。アルバンが、反対の端を持った。
ふたりは、何も言わずに、門を開けた。
皆は、柵の外に残った。
シエルが、柵の横木を、両手で握りしめていた。その隣に、レオニスとミレイアが。少し離れて、ゴドフロワと、ボルグが立っていた。
ヘルミは、ひとりで、柵の内側へ入っていった。
途中で、一度、振り返った。柵の向こうに、皆の顔が、焚き火に照らされて並んでいた。
足の下の雪は、やわらかかった。
細い月の明かりに、谷じゅうの白が、ぼんやりと浮かんでいる。歩くたびに、雪が、春の陽だまりのような温もりで、足を包んだ。
雪原の下に、屋根の形が、いくつも浮いていた。そのどれかが、自分の生まれた家なのだろう。どれなのかは、わからなかった。
二十五年前の冬、自分が笑ったら、父は、雪になった。オズワルドさまも、お手紙に、そう書いていらした。
冬至の夜には、思い出せたはずだった。雪が降って、みんなが笑っていて、自分だけが――。
今は、遠かった。遠いことが、少しだけ、こわかった。
谷の真ん中まで、歩いた。
膝をついた。
両手を、雪の上に置いた。
あたたかかった。
あの小瓶と、同じあたたかさだった。
「おとうさん」
声が、白い谷に、吸いこまれていった。
「……ヘルミです」
両手の下で、雪は、何も答えなかった。
「遅くなって、ごめんなさい。……まだ、上手に、泣けないのですけれど」
喉の奥が、熱くなった。
涙が、出てきた。
止めようとして――止めなかった。
上手な泣き方では、なかった。しゃくりあげるたびに、息が詰まる。肩が、みっともなく震える。それでも、泣いた。
涙が、ひと粒、雪に落ちた。
雪が、身じろぎした。
手のひらの下で、白が、動きはじめた。雪の中から、白いものが、寄り集まっていく。谷じゅうから、音もなく。うねり、盛りあがって――立ち上がった。
四つ足の獣のようでもあり、背を丸めた巨人のようでもあった。
その頭には、顔がなかった。
目も、鼻もない。ただ口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく、微笑んでいた。
谷が、白くなった。
真昼よりも、白く。雪の上から、自分の影が、消えた。
――もう、泣かなくていい。
声が、した。
父の声に、よく似ていた。
白い獣が、身をかがめた。白い手が、こちらへ伸びてきた。ヘルミの頬へ。涙のほうへ。
触れられたら、涙は、きっと乾く。胸の底の冷たいものも、遠くへ行く。
目を閉じれば、それで、済む。
けれど、ここへは、泣き顔を見せに来たのだ。父に。
――もう、泣かなくていい。
ヘルミは、肩ごしに、振り返った。
柵の向こうに、皆が、影もなく立っていた。そのなかに、黒い髪の頭が、ひとつ。白の中で、そこだけが、黒かった。
「……レオニスさん」
声を、張った。
「暗く、してください」
その頭が、柵の横木をくぐった。
白い光の中を、まっすぐに歩いてくる。ヘルミの隣で、足を止めた。
右の手のひらを、上に向ける。
「我、欲す」
低い声だった。
「――ヘルミが、親父さんに、泣き顔を見せられる夜を」
手のひらの上が、ふっと暗くなった。
暗さが、溜まって――あふれた。
指のあいだから、夜がこぼれる。雪の上へ。ヘルミの膝もとへ。白い獣の足もとへ。音もなく広がって、ヘルミと、覆いかぶさるようにかがみこんだ獣を、ひと部屋ぶんの暗さで包んでいく。
まぶたを閉じたときのような、やわらかな暗さだった。
白い手は、暗さの中で、まだ、こちらへ伸びようとしていた。
頬の涙は、乾かなかった。
夜の外では、谷は、まだ真昼のように白かった。その白が、夜のふちを、外側から削っている。ほろほろと、砂のように、暗さがこぼれていく。
隣で、レオニスが、歯を食いしばっていた。
差し出した手が、震えていた。
それでも、その手は、下りなかった。
◆
夜の中で、光が、灯っていた。
白い獣の胸もとに、雪が、厚く積もっている。そのいちばん底で、小さな光が、瞬いていた。
蜂蜜色だった。
蜂蜜を灯にかざしたような、とろりとした金色。竈に火を入れる父の指先に、ともっていた火の色だった。
ヘルミは、自分の胸もとを見下ろした。
そこにも、同じ色の光があった。うっすらと積もっていた白いものが、頬を伝う涙といっしょに、ほどけていくところだった。
ヘルミは、息を吸った。
歌った。
「ねんね ねんね ひが しずむ」
声が、震えた。
「よるの かあさま ひを だいて」
思い出した。
あの日、燃える家々の中で、父は、この歌を歌っていた。泣き叫ぶ自分を、腕に抱いて。
そして――三行目で、止まった。
ないても、と歌いかけて、父は、その先を歌わなかった。
ヘルミは、涙で濡れた声で、その先を、歌った。
「ないても いいよ よるの なか」
白い手が、止まった。
顔のない頭が、こちらへ傾いた。
その頬にあたるところに、ひと筋、何かが浮かんだ。
涙の、跡だった。
涙の伝ったところから、白が、ほどけていった。
目が、戻ってきた。鼻が。眉が。痩せた頬が。震える唇が。
くしゃくしゃに歪んだ、泣き顔が。
ほどけていく白の奥から、蜂蜜色の光が、その顔を、下から照らしていた。幼いころ、竈の前で、いつも見上げていた顔だった。
自分と同じ、淡い金色の目が、こちらを見ていた。
伸ばされていた白い手に、袖口が見えた。古い綿入れの袖口が、白墨の粉で、白くなっていた。
父だった。
父が、泣いていた。
泣いている娘の前で、娘と同じ顔をして、泣いていた。
ヘルミは、両手を、伸ばした。
泣くたびに、いつも、そうしていた。誰かに向かって、両手を。
白墨の粉のついた指が、ヘルミの頬に、触れた。
冷たかった。
涙は、乾かなかった。父の指を濡らして、そのまま、頬を伝っていった。
父の唇が、動いた。
「……ヘルミ」
ひと言だけだった。
それきり、白い体が、崩れた。
顔の戻った頭から。肩から。背中から。四つの足から。ほろほろと崩れて――雪には、ならなかった。
伸ばした手のひらに、冷たいものが落ちた。
雨だった。
冷たい雨が、谷じゅうに、降りはじめた。
ヘルミは、空を見上げた。
細い月が、雨の向こうに、にじんでいた。雨が、頬を打ち、髪を濡らし、修道衣の肩に染みていく。
隣で、レオニスが、崩れるように座りこんだ。差し出していた手が、濡れた雪の上に落ちていた。
伸ばした両手の中に、雨が溜まっていった。
「……つめたい」
泣き声が、こぼれた。
「おとうさん、つめたい」
泣いていた。
声を上げて、子供のように。雨と涙で、顔じゅうを濡らして。
それなのに、なぜか、笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
雨の中を、誰かが、駆けてきた。
亜麻色の髪が、雨に濡れて、頬に張りついていた。柵を乗り越えてきたのだろう、修道衣の裾が、泥だらけだった。
シエルは、何も言わずに、ヘルミの隣に膝をついた。
ふたりで、雨に、濡れた。
◆
冷たい雨が、谷に降っていた。
二十五年、溶けなかった雪が、溶けていった。
白い雪原が、みるみる痩せていく。あちこちで、雪の下から、黒いものが顔を出した。焼け落ちた梁。崩れた石の竈。屋根の形に積もっていた雪の下から、焼けた茅葺きの骨組みが、ひとつ、またひとつ、あらわれる。
二十五年前に燃えた村が、雨の中に、戻ってきた。
ボルグは、雨に打たれながら、焼け跡のあいだを歩いていた。
一軒の焼け跡の前で、足が止まった。
崩れた戸口の奥に、石の竈が残っていた。竈の上に、鍋がひとつ、のっていた。
蓋を、したまま。
ボルグは、左手のぼろ布の端を、歯でくわえて、ほどいた。
竈の前に、しゃがみこんだ。
素手で、鍋の蓋に触れた。雨に濡れた鉄が、手のひらに冷たかった。
「……ただいま」
大きな背中が、雨の中で、丸くなった。
柵のそばで、ゴドフロワが、膝をついていた。
二十五年前、この谷で、光に膝をついた男だった。
今度は、雨の中に、膝をついていた。白い髭から、雨が、しずくになって落ちていた。
柵の門のそばでは、院長が、濡れるのもかまわずに、胸の前で両手を組んでいた。
ミレイアは、胸の聖印を、服の上から握った。
冷たかった。
ただの、雨の冷たさだった。
谷の真ん中の泥の上に、レオニスが、座りこんでいた。雪の下から出てきた大きな岩に、背中をあずけて。
夜を広げた腹が、からっぽだった。膝が、笑っている。立とうとして、立てなかった。
冬至の夜の、地の底の白に比べれば、軽い白だった。それでも、腹の底を、根こそぎ持っていかれた。
――師匠。
胸の中で、そう言った。
――兄貴、泣いたぜ。
雨が、寝癖の頭を、ぐしゃぐしゃに濡らしていた。
レオニスは、泣かなかった。
柵の外で、白い火が、雨に打たれていた。
ランタンの火は、消えなかった。それを提げた少年は、谷の真ん中の暗がりを、ほどけて消えるまで、身じろぎもせずに見ていた。
谷の外れの、囚人たちの小屋でも、雨の音に、ひとり、またひとりと、目を覚ました。
戸口に立って、冷たい雨に、手のひらを差し出す者がいた。差し出したまま、泣きだす者もいた。
懐に、またひとつかみの雪を隠して眠っていた男は、胸の冷たさに、目を覚ました。
懐の中が、ぐっしょりと濡れていた。
男は、暗がりの中で、濡れたシャツを握りしめた。それから、ひとつの名前を、呼んだ。この冬に死んだ、女房の名前だった。
同じ刻。
峠の修道院の、明かりの消えた食堂で。
卓の上に残された小瓶の中で、雪が、音もなく、水になった。
誰も、それを、見ていなかった。
王都の、川沿いのパン屋の、店じまいをしたあとの食堂で。
隅の卓に、鍛冶屋が、まだ座っていた。首から、細い紐が下がっている。
その先の小瓶が、ふいに、ひやりと冷えた。
鍛冶屋は、小瓶を見下ろした。
硝子の中の白いひとつまみが、ほどけていた。水になっていた。指の先ほどの、ただの水だった。
鍛冶屋は、長いこと、それを見ていた。
十六になるはずだった息子の顔が、ふいに、くっきりと浮かんだ。遠くなっていた顔だった。
親父が、何も言わずに、卓に黒パンを置いた。
鍛冶屋は、黒パンを手に取った。かじった。
かじりながら、泣いた。
広場の端の、塩屋の二階で。
眠っていたおかみが、胸もとの冷たさに、目を開けた。
暗がりの中で、小瓶を握っていた。それから、隣の、ひと冬空いたままの枕に、手をのばした。
夜が明けると、白い礼拝堂の前に、人が集まってきた。
首から下げた小瓶を、不思議そうに振っている女がいた。小瓶を握りしめて、石段に座りこみ、泣きだす男がいた。ほっとしたように、長い息をつく老婆がいた。
礼拝堂の扉を叩いて、もうひとつ小瓶をくれと、叫んでいる若者がいた。
聖都では、日が沈んでも、空は白いままだった。
その白い夜のうちに、満陽祭のために蓄えられていた小瓶の山が、ひとつ残らず、水になった。
白い衣の侍祭たちが、棚の前に集まって、穏やかに首をかしげていた。
大聖堂の奥の、白い回廊をいくつもくぐった先で。
窓も燭台もない、丸い天井の広間で、白い光の球が、ひとつ、大きく息をした。
その下に膝をついて祈っていた、骨の浮いた小柄な老人が、目を開けた。
「……そうか」
それだけ言って、老人は、また目を閉じた。
◆
雨が、上がった。
谷に、夜明けが来ていた。
雪は、どこにもなかった。雨に洗われた黒い土の上に、焼け落ちた家々が、燃えた日の形のまま、並んでいた。
ほんとうの、焼け跡だった。
照らすまでもなかった。夜明けの光の下で、谷は、何ひとつ、隠していなかった。
アルバンは、ランタンを提げて、谷を歩いた。
皆は、谷の真ん中にいた。濡れた外套にくるまれて、ヘルミが眠っている。その頭を、シエルが膝にのせていた。少し離れて、ゴドフロワが立ち、ボルグは、焼け跡のひとつの前から動かなかった。
岩のそばで、白い闇司祭が、眠りこんでいた。
泥の上に、大の字になって。濡れた寝癖が、額に張りついている。
寝言が、ひとつ、聞こえた。
「……もう、食えねえ」
アルバンは、白い革の帳面を、開きかけて――やめた。
谷の見回りも、務めのうちだった。
谷の奥へ、歩いた。
焼け跡のひとつに、割れた石板が、いくつも重なっていた。子供が字を習う、小さな石板だった。何枚も、何枚も、割れていた。
アルバンは、足を止めずに、そこを過ぎた。
焼け跡が途切れたあたりから、細い道が、斜面を上っていた。村のいちばん上に、小さな石の祠があった。
屋根の石が、半分、崩れていた。その奥に、石の像が立っていた。
顔のない女が、胸に、小さなランタンを抱いている。
王都の地の底で見た、黒い扉の女と、同じ姿だった。
アルバンは、像の裏へ回った。
台座の裏に、文字が刻まれていた。
古い文字だった。苔と、雪の跡に覆われて、ほとんど読めない。指でなぞっても、溝が浅すぎて、形にならなかった。
アルバンは、ランタンを掲げた。
冷たい光が、台座を照らした。
苔の影が、消えた。溝の影も、石の肌の、小さなくぼみの影も。影という影が、消えて――
その下から、文字が、浮かびあがった。
照らされた者が、隠していたことを、ひとりでに話しはじめるように。石が、字を差し出していた。
アルバンは、読んだ。
――我ら夜の番人、最後の欲をもて、女神の灯に火をともし、夜を取り戻せり。
王都の黒い扉にも、ほとんど同じ一行があった。あちらは、夜の番人ら、と刻まれていた。
――我らが友、白き
そこに、名が、ひとつ刻まれていた。
深く、くっきりと。三百年の風雪にも、ひと文字も欠けずに。
アルバンは、その名を、読んだ。
王都の地の底の黒い扉で、鑿で深く抉られていたのは、この名にちがいなかった。
――その子を抱きて、北の白き野へ去れり。
――その子
その先が、読めなかった。
名があるはずのところだけ、石が、浅く、すり減っていた。指の腹の形に。何度も、何度も、誰かが触れたように。
光を近づけても、浮かびあがらなかった。
村の者は、拝むたびに、ここに触れたのだろう。三百年のあいだ。
――泣けずして、白の奥に眠る。
――我ら、この谷に住まい、唄を伝う。いつの日か、白の奥の泣けぬ子に、届けんがため。
――おいで おいで なけない こ
その下に、番人たちの名が、いくつも並んでいた。
アルバンは、長いこと、台座の裏を照らしていた。
「……開祖さまは」
声が、ひとりでに出ていた。
「闇司祭で――父親で、いらした」
白い革の帳面を、開いた。
台座の文字を、一行ずつ、写していった。几帳面な字で。読めなかった名のところは、空けて。読めた名は、そのとおりに。
写し終えて、帳面を閉じた。
満陽祭の日に、聖都で、照らす。猊下の前でも。大階段の下に集まる、何万の顔の前でも。
隠されてきたものは、照らされなければならない。
ゆうべの雨を、思った。
谷の真ん中の暗がりの中は、柵の外からは、何ひとつ見えなかった。
暗がりがほどけたとき、白い獣は、もう、どこにもいなかった。冷たい雨の中で、泣き声がしていた。おとうさん、と呼ぶ声だった。
二十五年、雪のままでいた男が――雨になって、戻ってきたのだ。
泣いている娘のところへ。
――どうして、戻ってくるのですか。
――今さら。
ランタンを提げた手が、わずかに、震えた。
アルバンは、ランタンを、下ろさなかった。
◆
腹が鳴って、目が覚めた。
雲ひとつない、薄青い空だった。雨は、上がっていた。背中の下の泥が、ひどく冷たい。
すぐそばで、ペンの走る音がした。
ミレイアが、岩に腰かけて、革表紙の帳面を開いていた。
レオニスは、首だけ動かして、その一行を覗きこんだ。
――満陽祭まで四十日:雨。
「……それだけかよ」
「ほかに、書きようがありませんので」
ミレイアは、帳面を閉じて、立ち上がった。谷の真ん中の、ヘルミたちのほうへ歩いていく。
レオニスは、泥の上で、身を起こした。
谷が、黒かった。
雪が、どこにもない。焼け跡が、雨に濡れて、谷の底いっぱいに並んでいる。
白い火が、近づいてきた。
灰色の髪の少年が、ランタンを提げて、すぐそばに立っていた。濡れた審問官の衣の裾に、泥がはねている。
「……碑文を、読みました」
何のことか、わからなかった。
アルバンは、谷の奥の斜面のほうへ、ちらりと目をやった。
「満陽祭の日に、聖都で、すべてを照らします」
にこやかな声だった。
それから、アルバンは、レオニスの顔を見下ろした。
硬く、整った微笑みのまま。
「――こいつが先。俺は、あとでいい」
息が、止まった。
知っている言葉だった。
雪の路地裏で。飢えて、凍えて、立ち上がる力も残っていなかった夜に。ひび割れた唇で。湯気の向こうから差し出された椀を、隣でうずくまっていた、もっと小さな子の前に、置きながら。
何日か前から、あとをついて歩いてくる、小さいのがいた。追い払っても、追い払っても、ついてきた。
アルバンは、目を伏せずに、続けた。
「あなたは、そう言って、椀を私の前に置きました」
アルバンの声は、少しも揺れなかった。
「十年前の冬、雪の路地裏で」
パン屋の戸口で、裸足の子供の前に、パンを置いて。谷の雪の上で、子供のような顔の囚人の前に、椀を置いて。この少年が口にしていた、丁寧な言い回し。
どこかで聞いた、と思っていた。
聞いたのでは、なかった。
自分が、言ったのだ。もっと乱暴な、短い言葉で。
アルバンは、静かに、言い足した。
「……そして、あのおじいさんと、行ってしまった」
――ちびには、すぐ戻るから、ここにいろと言った。
汚い字が、目の前に浮かんだ。
――明け方に戻ったら、ちびはいなかった。
目の前の顔に、あの夜の、小さな顔を探した。
見つからなかった。顔は、思い出せなかった。
覚えているのは、追い払っても離れなかった小さな足音と、隣で震えていた小さな背中と、椀を置いた、自分の手だけだった。
何か、言わなければならない気がした。
喉が、動かなかった。
アルバンは、ランタンを提げたまま、レオニスを見下ろしていた。
硬く、整った微笑みだった。
「お久しぶりです」




