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光の闇司祭③ 白夜の教皇  作者: parupuntist


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第四章 ふた匙目

 シエルの目が、赤かった。


 朝の食堂で、豆のスープの椀を前にして、シエルは一度も顔を上げなかった。匙を握ったまま、椀の中ばかり見ている。


 その隣で、ヘルミが、穏やかに微笑んでいた。


 夜明け前、屋根の上にいたレオニスに、崖から戻ってきたミレイアが、梯子の下から、ひと言だけ言った。


 ――ゆうべ、聖印が、熱くなりました。ヘルミさんの、そばで。


 それきり、ミレイアは、朝からずっと黙っていた。罪状帳も、開いていなかった。


 ヘルミが、シエルの髪に手をやった。乱れてもいないひと房を、指で撫でつける。


 シエルの肩が、小さく、すくんだ。


 レオニスは、匙を置いた。


 ――いいか、坊主。幸せにしようとするな。


 煙草(たばこ)くさい、嗄(しゃが)れた声が、耳の奥でした。


 ――選ばせろ。


 昔、師匠は、そう言った。皿を並べて、好きなのを選ばせるんだ、と。辛(から)いのを取る奴もいりゃ、何も食わねえって奴もいる、と。


 ――あのシチュー……北の味は、北で覚えます。


 冬の朝、雪の中で、ヘルミは、そう言って笑った。目のふちを、赤くして。


 レオニスは、卓の上で、指を組んだ。


「……シチューを作る」


 ミレイアの目が、こちらを向いた。シエルも、目をまるくして、レオニスを見た。


 ヘルミは、微笑んだまま、小さく首をかしげていた。


 レオニスは、誰の顔も見ずに言った。


「師匠の、北の味だ」


 卓の端で、院長が、椀を置いた。


「……竈(かまど)でしたら、お使いください」


 少し間をおいて、付け足す。


「黒麦酒(ビール)は、蔵にございます。肉は、ございませんが」


 レオニスは、椀に目を落とした。


「……知ってる」


 門の脇には、今朝も、白い火が灯っていた。


 レオニスは、その前に立った。


「ボルグのおっさんを、ひと晩、ここへ連れてきてえ」


 アルバンは、にこやかな顔のまま、少しも迷わずに答えた。


「罪人を、柵の外に泊めることは、認められません」


 それから、黙った。


 ランタンの中で、白い火が、音もなく揺れていた。


「……ですが、見届けるのが私の務めですので。私が付き添います」


 朝のうちに、ふたりで谷へ下りた。


 柵の門の前で、年かさの兵は、寝癖の頭と白い火を順に眺めて、今度は何も言わずに、顎をしゃくった。干し肉の包みは、見張りの兵たちから、銀貨で分けてもらった。


 昼過ぎに、三人で、峠への道を上った。


 ボルグが、干し肉の包みを担いで、黙々と歩いていた。十歩うしろに、白い火がついてくる。


 しばらく歩いてから、ボルグが、ぽつりと訊いた。


「……なんで、シチューなんだ、兄ちゃん」


 レオニスは、前を向いたまま答えた。


「北の味は、北で覚えるんだとさ」


「……ヘルミ嬢ちゃんが、か」


「冬に、王都で、そう言ってた」


 ボルグは、また黙って歩いた。


 布を巻いた左手が、包みの紐を、握りなおした。


「……谷でパンを配ってくれたとき、嬢ちゃんは、笑ってたな」


 低い声だった。


「あの日も、嬢ちゃんは、笑ってた」


 二十五年前の、あの日のことだと、わかった。


 レオニスは、何も言わなかった。


 背中のほうで、白い火が、暮れていく峠の道を照らしていた。


 修道院の厨房は、狭かった。


 石の竈がひとつと、使いこまれた鍋がいくつか。窓の外では、北の山の尾根が、夕暮れの色に沈みかけている。


 戸口の柱に、ミレイアがもたれていた。腕を組んで、監視役ですので、と、さっき言った。厨房の中には、入ってこなかった。


 ボルグは、竈の前に陣取っていた。片腕の大男が立つと、厨房は、いっそう狭くなった。


 卓の隅では、ゴドフロワが、黙って根菜の皮をむいていた。誰も、頼んでいなかった。剣を握ってきた大きな手が、小さな刃物を、驚くほど器用に動かしていた。


 ボルグが、顎で、まな板の上を指した。


「玉ねぎからだ」


 レオニスは、刻んだ玉ねぎを、鍋に放りこんだ。


 じゅう、と音が立つ。木べらで、かき回す。玉ねぎが透きとおり、色づき、茶色になっていく。


 ボルグが、横から覗きこんだ。


「焦がせ。もっとだ」


「わかってるよ」


 わかっていた。真っ黒になるまで焦がすのだ。師匠の横で覚えて、自分でも、何度も作ってきた。


 それなのに、今日は、木べらを持つ手が、勝手にためらった。


「兄ちゃん、それじゃ、ただの茶色だ」


「……これ以上やったら、炭だろ」


「炭の、手前までだ」


 レオニスは、黙って、かき回しつづけた。


 煙が、目に来た。


 焦げた玉ねぎの煙は、ひどく染みる。目の奥が熱くなって、鍋の中が、にじんだ。


 袖で、目もとを拭った。


「……玉ねぎだ」


 戸口のほうから、平らな声がした。


「まだ、何も訊いていません」


 ボルグが、喉の奥で笑った。


 玉ねぎが、真っ黒になった。黒麦酒を注ぐと、鍋の中で、黒い泡が、勢いよく立ちのぼった。干し肉と根菜を、放りこむ。


 鍋が、ぐらぐらと煮え立った。


 ボルグが、残った左腕を伸ばして、竈の薪を一本、抜いた。


「火が強すぎる。もっと、ゆっくりだ」


 それから、鍋のふちを、指の背で軽く叩いた。


「――こいつは、急かすと拗(す)ねるんだよ」


 戸口で、ミレイアが、組んでいた腕を、ほどいた。


 何か言いかけて、やめたようだった。


 レオニスは、荷の中から、壺を出した。


 墓守の婆さんから受け取った、師匠の壺だった。蓋を取ると、中の蜂蜜は、白く濁って、石のように固まっている。


 ――湯につけりゃ、とけるとさ。あの爺さんの言いぐさだよ。


 丘の上で、婆さんは、そう言った。


 小鍋に湯を沸かして、壺ごと、そこにつけた。


 やがて、白い濁りが、少しずつ透きとおりはじめた。固まっていた蜜がゆるみ、とろりと揺れる。壺の内側の、乾いた蜜の輪も、温もりにほどけて、下へ流れていった。


 ひと匙ぶんの跡だった。師匠が、最後に舐めやがったのだろう。


 ボルグが、壺を覗きこんだ。


「……あの人の、蜜か」


「ああ」


 ボルグは、それきり、何も言わなかった。


 四年前の、冬の蜜だった。湯気の向こうで、金色が、息を吹きかえしていく。


 レオニスは、ひと匙すくって、鍋に垂らした。


 鍋が、煮えた。


 火から下ろして、蓋をする。


 ボルグが、大きな手で、蓋の上を、ぽんと叩いた。


 レオニスの口が、ひとりでに動いた。


「シチューだって、昼寝させてやんなきゃな」


 声が、ふたつ、重なっていた。


 ボルグと、顔を見あわせた。


 片腕の大男が、肩を揺らして笑いだした。レオニスも、笑った。


 レオニスは、笑いながら、蓋のふちに指をかけた。ひと口だけ、と思ったのだ。


 ボルグの手が、その指を、蓋の上から押さえた。


「寝てるのを、起こすんじゃねえ」


 ――名前は彫るなって、言われてね。寝てるのを、起こされたくねえってさ。


 墓守の婆さんの声が、耳の奥でした。


 レオニスは、指を引っこめた。


「……わかったよ」


 戸口のほうで、ミレイアが、そっぽを向くのが見えた。口の端が、少しだけ、ゆるんでいた。


 その晩、峠の修道院の竈の上で、鍋は、蓋をしたまま、昼寝をした。


 門の脇の物置で、ボルグが、藁の上に眠っていた。その戸口に、白い火が、眠らずに灯っていた。


◆


 椀から、湯気が立っていた。


 焦がした玉ねぎと、黒麦酒の匂いがした。


 ヘルミは、その匂いを、どこかで知っている気がした。


 明くる日の昼だった。修道院の食堂の長い卓に、皆が並んでいた。シエルも、ミレイアも、ゴドフロワも。卓の端には院長が、戸口の近くには、ボルグとアルバンが座っていた。


 黒い汁の中に、煮崩れた根菜が沈んでいる。


 皆と同じ鍋からよそった、同じシチューだった。


 レオニスが、卓の向こうから、手を伸ばした。


 壺の蜂蜜を、ひと匙すくう。


 とろりとした金色が、匙の先から、ひと筋、ヘルミの椀に垂れた。黒い汁の上で、小さく灯るように光った。


「あんたの分だ」


 レオニスは、それだけ言って、匙を壺のそばに置いた。


 ヘルミは、左の手で、胸の小瓶を握ったまま、右の手で匙を取った。


 ひと口、すくう。


 あまかった。


 あたたかかった。


 焦げた苦みの奥から、蜂蜜のあまさが、口の中に広がってくる。喉を通って、胸の底まで、あたたかさが降りていく。


 あたたかいのに――どこかが、冷たかった。


 どこが冷たいのか、わからなかった。


 何かを、思い出しかけた気がした。焦げた匂いの向こうに、誰かの手があった気がした。


 それは、胸の小瓶の温もりの中で、すぐに、遠くなった。


 ヘルミは、匙を止めて、卓の上の壺を見た。


 古い、素焼きの壺だった。そのそばに、匙が、置いてある。


 レオニスは、何も言わなかった。


 腕を組んで、匙のほうも、ヘルミのほうも見ずに、黙って座っていた。ふた匙目を、垂らそうとはしなかった。


 待っているのだ、と思った。


 何を待っているのかは、わからなかった。


 ひと匙じゃ足りないと、泣く子だったという。


 冬の王都で、レオニスさんが、そうおっしゃった。ボルグから聞いた話だ、と。オズワルドさまも、お手紙に、そう書いていらした。


 ――泣き虫でな。シチューの蜂蜜が、ひと匙じゃ足りねえって泣く。


 泣いた、のだろう。


 泣くと、誰かが、ふた匙目を垂らしてくれた。


 誰が?


 胸の小瓶が、あたたかかった。父の手のような、あたたかさだった。


 それなのに、その手が、思い出せなかった。ふた匙目を垂らしてくれた手が、どんな手だったのか。


 向かいの席で、シエルが、匙を握りしめたまま、こちらを見ていた。


 ヘルミは、小瓶を握っていた手を、そっと開いた。


 細い紐を、首から外す。


 小瓶を、卓の上に置いた。


 卓の端で、院長が、小さく息を呑んだ。


 胸の底が、ひやりとした。


 冷たかった。あたたかいものが、ふっと抜けていったあとの、冷たさだった。


 ヘルミは、壺に、手を伸ばした。


 レオニスが置いた匙を、取る。


「……自分で、入れます」


 声が、少し震えた。


 壺の中の金色を、ひと匙すくう。椀の上で、匙を傾ける。


 ふた匙目が、黒い汁の上に、とろりと落ちた。


 レオニスが、組んでいた腕を、ほどいた。それだけだった。


 すくって、口に運んだ。


 あまかった。


 ――大きな手が、匙を持っていた。


 古い綿入れの袖口が、白墨の粉で、白くなっていた。泣いている子の椀に、その手が、もうひと匙、蜂蜜を垂らす。泣くたびに、いつも。


 ――しょうがない子だね。


 やわらかな声が、笑っていた。


 冬が来るたびに、壺を腰で鳴らしながら、雪道を上ってくる背の高い人がいた。パイプの煙の匂いがした。その人の持ってきた蜂蜜を、父が、匙ですくった。


 ひと粒、椀に、落ちた。


 ヘルミは、それを、見下ろしていた。


 黒い汁の上で、小さな輪が、ひとつ、広がって消えた。


「……父が」


 声が、かすれた。


「いつも、ふた匙目を」


 もうひと粒、落ちた。


「……泣きやむまで」


 戸口の近くで、ボルグが、顔を背けた。


 大きな肩が、震えていた。片方しかない手で、目もとを覆っている。


 ゴドフロワは、椀を持ったまま、動かなかった。灰色の目が、卓の上の、どこか一点を見つめていた。


 シエルも、泣いていた。声を殺して、うつむいて。櫛を通してやった亜麻色の髪が、小さく揺れていた。


 おとといの晩、どうして泣いているのかと、この子に訊いた。


 今は、訊かなかった。


 ヘルミは、濡れた目で、卓の上の壺を見た。


「……この、蜂蜜は」


 レオニスが、壺のほうを見ずに言った。


「師匠の、最後の蜜だ」


 ヘルミは、素焼きの壺に、そっと手を添えた。湯につけてあったのか、ほのかに、温もりが残っていた。


 誰も、何も言わなかった。


 その静けさの中で、椀を置く音が、ひとつした。


 アルバンだった。


 自分の椀を、からにしていた。


「……おかわりを、いただけますか」


 硬い声だった。


 それから、すぐに付け足した。


「いえ。監視のためです」


 ミレイアが、アルバンのほうを向いた。


「……何の監視ですか」


 アルバンは、答えなかった。黙って、椀を差し出していた。


 ヘルミは、椀の残りを、ひと匙ずつ、食べた。


 最後のひと匙まで食べてから、匙を置いた。


 卓の上の小瓶は、そのままにして、立ち上がった。


「今夜、谷へ、参ります」


 皆が、こちらを見ていた。


「父に、会いに」


 シエルが、何か言いかけて、口を開いた。


 ヘルミは、首を振った。


「……ひとりで」


 卓の端で、院長が、残された小瓶を、見下ろしていた。


 手は、伸ばさなかった。


 やがて、院長は、小瓶から目を上げた。


「……私は、何も、見ておりません」


 誰に言ったのかは、わからなかった。


◆


 月の細い夜だった。


 日が傾くころ、荷車で、谷へ下りた。ゴドフロワが手綱を取り、ボルグも、谷へ戻る荷台に乗った。ひとりで、と言ったのに、誰も、峠に残らなかった。


 首のまわりが、軽かった。


 軽くて、冷たかった。荷台に揺られているあいだじゅう、シエルが、ヘルミの手を握っていた。


 谷の柵の前で、見張りの兵たちが焚き火を囲んでいた。白い火を提げた審問官と、年老いた修道女の顔を見ると、兵たちは、黙って道をあけた。


 院長が、門の閂(かんぬき)に手をかけた。アルバンが、反対の端を持った。


 ふたりは、何も言わずに、門を開けた。


 皆は、柵の外に残った。


 シエルが、柵の横木を、両手で握りしめていた。その隣に、レオニスとミレイアが。少し離れて、ゴドフロワと、ボルグが立っていた。


 ヘルミは、ひとりで、柵の内側へ入っていった。


 途中で、一度、振り返った。柵の向こうに、皆の顔が、焚き火に照らされて並んでいた。


 足の下の雪は、やわらかかった。


 細い月の明かりに、谷じゅうの白が、ぼんやりと浮かんでいる。歩くたびに、雪が、春の陽だまりのような温もりで、足を包んだ。


 雪原の下に、屋根の形が、いくつも浮いていた。そのどれかが、自分の生まれた家なのだろう。どれなのかは、わからなかった。


 二十五年前の冬、自分が笑ったら、父は、雪になった。オズワルドさまも、お手紙に、そう書いていらした。


 冬至の夜には、思い出せたはずだった。雪が降って、みんなが笑っていて、自分だけが――。


 今は、遠かった。遠いことが、少しだけ、こわかった。


 谷の真ん中まで、歩いた。


 膝をついた。


 両手を、雪の上に置いた。


 あたたかかった。


 あの小瓶と、同じあたたかさだった。


「おとうさん」


 声が、白い谷に、吸いこまれていった。


「……ヘルミです」


 両手の下で、雪は、何も答えなかった。


「遅くなって、ごめんなさい。……まだ、上手に、泣けないのですけれど」


 喉の奥が、熱くなった。


 涙が、出てきた。


 止めようとして――止めなかった。


 上手な泣き方では、なかった。しゃくりあげるたびに、息が詰まる。肩が、みっともなく震える。それでも、泣いた。


 涙が、ひと粒、雪に落ちた。


 雪が、身じろぎした。


 手のひらの下で、白が、動きはじめた。雪の中から、白いものが、寄り集まっていく。谷じゅうから、音もなく。うねり、盛りあがって――立ち上がった。


 四つ足の獣のようでもあり、背を丸めた巨人のようでもあった。


 その頭には、顔がなかった。


 目も、鼻もない。ただ口もとだけが、穏やかに、どこまでも優しく、微笑んでいた。


 谷が、白くなった。


 真昼よりも、白く。雪の上から、自分の影が、消えた。


 ――もう、泣かなくていい。


 声が、した。


 父の声に、よく似ていた。


 白い獣が、身をかがめた。白い手が、こちらへ伸びてきた。ヘルミの頬へ。涙のほうへ。


 触れられたら、涙は、きっと乾く。胸の底の冷たいものも、遠くへ行く。


 目を閉じれば、それで、済む。


 けれど、ここへは、泣き顔を見せに来たのだ。父に。


 ――もう、泣かなくていい。


 ヘルミは、肩ごしに、振り返った。


 柵の向こうに、皆が、影もなく立っていた。そのなかに、黒い髪の頭が、ひとつ。白の中で、そこだけが、黒かった。


「……レオニスさん」


 声を、張った。


「暗く、してください」


 その頭が、柵の横木をくぐった。


 白い光の中を、まっすぐに歩いてくる。ヘルミの隣で、足を止めた。


 右の手のひらを、上に向ける。


「我、欲す」


 低い声だった。


「――ヘルミが、親父さんに、泣き顔を見せられる夜を」


 手のひらの上が、ふっと暗くなった。


 暗さが、溜まって――あふれた。


 指のあいだから、夜がこぼれる。雪の上へ。ヘルミの膝もとへ。白い獣の足もとへ。音もなく広がって、ヘルミと、覆いかぶさるようにかがみこんだ獣を、ひと部屋ぶんの暗さで包んでいく。


 まぶたを閉じたときのような、やわらかな暗さだった。


 白い手は、暗さの中で、まだ、こちらへ伸びようとしていた。


 頬の涙は、乾かなかった。


 夜の外では、谷は、まだ真昼のように白かった。その白が、夜のふちを、外側から削っている。ほろほろと、砂のように、暗さがこぼれていく。


 隣で、レオニスが、歯を食いしばっていた。


 差し出した手が、震えていた。


 それでも、その手は、下りなかった。


◆


 夜の中で、光が、灯っていた。


 白い獣の胸もとに、雪が、厚く積もっている。そのいちばん底で、小さな光が、瞬いていた。


 蜂蜜色だった。


 蜂蜜を灯(ひ)にかざしたような、とろりとした金色。竈に火を入れる父の指先に、ともっていた火の色だった。


 ヘルミは、自分の胸もとを見下ろした。


 そこにも、同じ色の光があった。うっすらと積もっていた白いものが、頬を伝う涙といっしょに、ほどけていくところだった。


 ヘルミは、息を吸った。


 歌った。


「ねんね ねんね ひが しずむ」


 声が、震えた。


「よるの かあさま ひを だいて」


 思い出した。


 あの日、燃える家々の中で、父は、この歌を歌っていた。泣き叫ぶ自分を、腕に抱いて。


 そして――三行目で、止まった。


 ないても、と歌いかけて、父は、その先を歌わなかった。


 ヘルミは、涙で濡れた声で、その先を、歌った。


「ないても いいよ よるの なか」


 白い手が、止まった。


 顔のない頭が、こちらへ傾いた。


 その頬にあたるところに、ひと筋、何かが浮かんだ。


 涙の、跡だった。


 涙の伝ったところから、白が、ほどけていった。


 目が、戻ってきた。鼻が。眉が。痩せた頬が。震える唇が。


 くしゃくしゃに歪んだ、泣き顔が。


 ほどけていく白の奥から、蜂蜜色の光が、その顔を、下から照らしていた。幼いころ、竈の前で、いつも見上げていた顔だった。


 自分と同じ、淡い金色の目が、こちらを見ていた。


 伸ばされていた白い手に、袖口が見えた。古い綿入れの袖口が、白墨の粉で、白くなっていた。


 父だった。


 父が、泣いていた。


 泣いている娘の前で、娘と同じ顔をして、泣いていた。


 ヘルミは、両手を、伸ばした。


 泣くたびに、いつも、そうしていた。誰かに向かって、両手を。


 白墨の粉のついた指が、ヘルミの頬に、触れた。


 冷たかった。


 涙は、乾かなかった。父の指を濡らして、そのまま、頬を伝っていった。


 父の唇が、動いた。


「……ヘルミ」


 ひと言だけだった。


 それきり、白い体が、崩れた。


 顔の戻った頭から。肩から。背中から。四つの足から。ほろほろと崩れて――雪には、ならなかった。


 伸ばした手のひらに、冷たいものが落ちた。


 雨だった。


 冷たい雨が、谷じゅうに、降りはじめた。


 ヘルミは、空を見上げた。


 細い月が、雨の向こうに、にじんでいた。雨が、頬を打ち、髪を濡らし、修道衣の肩に染みていく。


 隣で、レオニスが、崩れるように座りこんだ。差し出していた手が、濡れた雪の上に落ちていた。


 伸ばした両手の中に、雨が溜まっていった。


「……つめたい」


 泣き声が、こぼれた。


「おとうさん、つめたい」


 泣いていた。


 声を上げて、子供のように。雨と涙で、顔じゅうを濡らして。


 それなのに、なぜか、笑っていた。


 泣きながら、笑っていた。


 雨の中を、誰かが、駆けてきた。


 亜麻色の髪が、雨に濡れて、頬に張りついていた。柵を乗り越えてきたのだろう、修道衣の裾が、泥だらけだった。


 シエルは、何も言わずに、ヘルミの隣に膝をついた。


 ふたりで、雨に、濡れた。


◆


 冷たい雨が、谷に降っていた。


 二十五年、溶けなかった雪が、溶けていった。


 白い雪原が、みるみる痩せていく。あちこちで、雪の下から、黒いものが顔を出した。焼け落ちた梁(はり)。崩れた石の竈。屋根の形に積もっていた雪の下から、焼けた茅葺(かやぶ)きの骨組みが、ひとつ、またひとつ、あらわれる。


 二十五年前に燃えた村が、雨の中に、戻ってきた。


 ボルグは、雨に打たれながら、焼け跡のあいだを歩いていた。


 一軒の焼け跡の前で、足が止まった。


 崩れた戸口の奥に、石の竈が残っていた。竈の上に、鍋がひとつ、のっていた。


 蓋を、したまま。


 ボルグは、左手のぼろ布の端を、歯でくわえて、ほどいた。


 竈の前に、しゃがみこんだ。


 素手で、鍋の蓋に触れた。雨に濡れた鉄が、手のひらに冷たかった。


「……ただいま」


 大きな背中が、雨の中で、丸くなった。


 柵のそばで、ゴドフロワが、膝をついていた。


 二十五年前、この谷で、光に膝をついた男だった。


 今度は、雨の中に、膝をついていた。白い髭から、雨が、しずくになって落ちていた。


 柵の門のそばでは、院長が、濡れるのもかまわずに、胸の前で両手を組んでいた。


 ミレイアは、胸の聖印を、服の上から握った。


 冷たかった。


 ただの、雨の冷たさだった。


 谷の真ん中の泥の上に、レオニスが、座りこんでいた。雪の下から出てきた大きな岩に、背中をあずけて。


 夜を広げた腹が、からっぽだった。膝が、笑っている。立とうとして、立てなかった。


 冬至の夜の、地の底の白に比べれば、軽い白だった。それでも、腹の底を、根こそぎ持っていかれた。


 ――師匠。


 胸の中で、そう言った。


 ――兄貴、泣いたぜ。


 雨が、寝癖の頭を、ぐしゃぐしゃに濡らしていた。


 レオニスは、泣かなかった。


 柵の外で、白い火が、雨に打たれていた。


 ランタンの火は、消えなかった。それを提げた少年は、谷の真ん中の暗がりを、ほどけて消えるまで、身じろぎもせずに見ていた。


 谷の外れの、囚人たちの小屋でも、雨の音に、ひとり、またひとりと、目を覚ました。


 戸口に立って、冷たい雨に、手のひらを差し出す者がいた。差し出したまま、泣きだす者もいた。


 懐に、またひとつかみの雪を隠して眠っていた男は、胸の冷たさに、目を覚ました。


 懐の中が、ぐっしょりと濡れていた。


 男は、暗がりの中で、濡れたシャツを握りしめた。それから、ひとつの名前を、呼んだ。この冬に死んだ、女房の名前だった。


 同じ刻。


 峠の修道院の、明かりの消えた食堂で。


 卓の上に残された小瓶の中で、雪が、音もなく、水になった。


 誰も、それを、見ていなかった。


 王都の、川沿いのパン屋の、店じまいをしたあとの食堂で。


 隅の卓に、鍛冶屋が、まだ座っていた。首から、細い紐が下がっている。


 その先の小瓶が、ふいに、ひやりと冷えた。


 鍛冶屋は、小瓶を見下ろした。


 硝子の中の白いひとつまみが、ほどけていた。水になっていた。指の先ほどの、ただの水だった。


 鍛冶屋は、長いこと、それを見ていた。


 十六になるはずだった息子の顔が、ふいに、くっきりと浮かんだ。遠くなっていた顔だった。


 親父が、何も言わずに、卓に黒パンを置いた。


 鍛冶屋は、黒パンを手に取った。かじった。


 かじりながら、泣いた。


 広場の端の、塩屋の二階で。


 眠っていたおかみが、胸もとの冷たさに、目を開けた。


 暗がりの中で、小瓶を握っていた。それから、隣の、ひと冬空いたままの枕に、手をのばした。


 夜が明けると、白い礼拝堂の前に、人が集まってきた。


 首から下げた小瓶を、不思議そうに振っている女がいた。小瓶を握りしめて、石段に座りこみ、泣きだす男がいた。ほっとしたように、長い息をつく老婆がいた。


 礼拝堂の扉を叩いて、もうひとつ小瓶をくれと、叫んでいる若者がいた。


 聖都では、日が沈んでも、空は白いままだった。


 その白い夜のうちに、満陽祭のために蓄えられていた小瓶の山が、ひとつ残らず、水になった。


 白い衣の侍祭(じさい)たちが、棚の前に集まって、穏やかに首をかしげていた。


 大聖堂の奥の、白い回廊をいくつもくぐった先で。


 窓も燭台(しょくだい)もない、丸い天井の広間で、白い光の球(たま)が、ひとつ、大きく息をした。


 その下に膝をついて祈っていた、骨の浮いた小柄な老人が、目を開けた。


「……そうか」


 それだけ言って、老人は、また目を閉じた。


◆


 雨が、上がった。


 谷に、夜明けが来ていた。


 雪は、どこにもなかった。雨に洗われた黒い土の上に、焼け落ちた家々が、燃えた日の形のまま、並んでいた。


 ほんとうの、焼け跡だった。


 照らすまでもなかった。夜明けの光の下で、谷は、何ひとつ、隠していなかった。


 アルバンは、ランタンを提げて、谷を歩いた。


 皆は、谷の真ん中にいた。濡れた外套にくるまれて、ヘルミが眠っている。その頭を、シエルが膝にのせていた。少し離れて、ゴドフロワが立ち、ボルグは、焼け跡のひとつの前から動かなかった。


 岩のそばで、白い闇司祭が、眠りこんでいた。


 泥の上に、大の字になって。濡れた寝癖が、額に張りついている。


 寝言が、ひとつ、聞こえた。


「……もう、食えねえ」


 アルバンは、白い革の帳面を、開きかけて――やめた。


 谷の見回りも、務めのうちだった。


 谷の奥へ、歩いた。


 焼け跡のひとつに、割れた石板が、いくつも重なっていた。子供が字を習う、小さな石板だった。何枚も、何枚も、割れていた。


 アルバンは、足を止めずに、そこを過ぎた。


 焼け跡が途切れたあたりから、細い道が、斜面を上っていた。村のいちばん上に、小さな石の祠(ほこら)があった。


 屋根の石が、半分、崩れていた。その奥に、石の像が立っていた。


 顔のない女が、胸に、小さなランタンを抱いている。


 王都の地の底で見た、黒い扉の女と、同じ姿だった。


 アルバンは、像の裏へ回った。


 台座の裏に、文字が刻まれていた。


 古い文字だった。苔と、雪の跡に覆われて、ほとんど読めない。指でなぞっても、溝が浅すぎて、形にならなかった。


 アルバンは、ランタンを掲げた。


 冷たい光が、台座を照らした。


 苔の影が、消えた。溝の影も、石の肌の、小さなくぼみの影も。影という影が、消えて――


 その下から、文字が、浮かびあがった。


 照らされた者が、隠していたことを、ひとりでに話しはじめるように。石が、字を差し出していた。


 アルバンは、読んだ。


 ――我ら夜の番人、最後の欲をもて、女神の灯に火をともし、夜を取り戻せり。


 王都の黒い扉にも、ほとんど同じ一行があった。あちらは、夜の番人ら、と刻まれていた。


 ――我らが友、白き


 そこに、名が、ひとつ刻まれていた。


 深く、くっきりと。三百年の風雪にも、ひと文字も欠けずに。


 アルバンは、その名を、読んだ。


 王都の地の底の黒い扉で、鑿(のみ)で深く抉(えぐ)られていたのは、この名にちがいなかった。


 ――その子を抱きて、北の白き野へ去れり。


 ――その子


 その先が、読めなかった。


 名があるはずのところだけ、石が、浅く、すり減っていた。指の腹の形に。何度も、何度も、誰かが触れたように。


 光を近づけても、浮かびあがらなかった。


 村の者は、拝むたびに、ここに触れたのだろう。三百年のあいだ。


 ――泣けずして、白の奥に眠る。


 ――我ら、この谷に住まい、唄を伝う。いつの日か、白の奥の泣けぬ子に、届けんがため。


 ――おいで おいで なけない こ


 その下に、番人たちの名が、いくつも並んでいた。


 アルバンは、長いこと、台座の裏を照らしていた。


「……開祖さまは」


 声が、ひとりでに出ていた。


「闇司祭で――父親で、いらした」


 白い革の帳面を、開いた。


 台座の文字を、一行ずつ、写していった。几帳面な字で。読めなかった名のところは、空けて。読めた名は、そのとおりに。


 写し終えて、帳面を閉じた。


 満陽祭の日に、聖都で、照らす。猊下の前でも。大階段の下に集まる、何万の顔の前でも。


 隠されてきたものは、照らされなければならない。


 ゆうべの雨を、思った。


 谷の真ん中の暗がりの中は、柵の外からは、何ひとつ見えなかった。


 暗がりがほどけたとき、白い獣は、もう、どこにもいなかった。冷たい雨の中で、泣き声がしていた。おとうさん、と呼ぶ声だった。


 二十五年、雪のままでいた男が――雨になって、戻ってきたのだ。


 泣いている娘のところへ。


 ――どうして、戻ってくるのですか。


 ――今さら。


 ランタンを提げた手が、わずかに、震えた。


 アルバンは、ランタンを、下ろさなかった。


◆


 腹が鳴って、目が覚めた。


 雲ひとつない、薄青い空だった。雨は、上がっていた。背中の下の泥が、ひどく冷たい。


 すぐそばで、ペンの走る音がした。


 ミレイアが、岩に腰かけて、革表紙の帳面を開いていた。


 レオニスは、首だけ動かして、その一行を覗きこんだ。


 ――満陽祭まで四十日:雨。


「……それだけかよ」


「ほかに、書きようがありませんので」


 ミレイアは、帳面を閉じて、立ち上がった。谷の真ん中の、ヘルミたちのほうへ歩いていく。


 レオニスは、泥の上で、身を起こした。


 谷が、黒かった。


 雪が、どこにもない。焼け跡が、雨に濡れて、谷の底いっぱいに並んでいる。


 白い火が、近づいてきた。


 灰色の髪の少年が、ランタンを提げて、すぐそばに立っていた。濡れた審問官の衣の裾に、泥がはねている。


「……碑文を、読みました」


 何のことか、わからなかった。


 アルバンは、谷の奥の斜面のほうへ、ちらりと目をやった。


「満陽祭の日に、聖都で、すべてを照らします」


 にこやかな声だった。


 それから、アルバンは、レオニスの顔を見下ろした。


 硬く、整った微笑みのまま。


「――こいつが先。俺は、あとでいい」


 息が、止まった。


 知っている言葉だった。


 雪の路地裏で。飢えて、凍えて、立ち上がる力も残っていなかった夜に。ひび割れた唇で。湯気の向こうから差し出された椀を、隣でうずくまっていた、もっと小さな子の前に、置きながら。


 何日か前から、あとをついて歩いてくる、小さいのがいた。追い払っても、追い払っても、ついてきた。


 アルバンは、目を伏せずに、続けた。


「あなたは、そう言って、椀を私の前に置きました」


 アルバンの声は、少しも揺れなかった。


「十年前の冬、雪の路地裏で」


 パン屋の戸口で、裸足の子供の前に、パンを置いて。谷の雪の上で、子供のような顔の囚人の前に、椀を置いて。この少年が口にしていた、丁寧な言い回し。


 どこかで聞いた、と思っていた。


 聞いたのでは、なかった。


 自分が、言ったのだ。もっと乱暴な、短い言葉で。


 アルバンは、静かに、言い足した。


「……そして、あのおじいさんと、行ってしまった」


 ――ちびには、すぐ戻るから、ここにいろと言った。


 汚い字が、目の前に浮かんだ。


 ――明け方に戻ったら、ちびはいなかった。


 目の前の顔に、あの夜の、小さな顔を探した。


 見つからなかった。顔は、思い出せなかった。


 覚えているのは、追い払っても離れなかった小さな足音と、隣で震えていた小さな背中と、椀を置いた、自分の手だけだった。


 何か、言わなければならない気がした。


 喉が、動かなかった。


 アルバンは、ランタンを提げたまま、レオニスを見下ろしていた。


 硬く、整った微笑みだった。


「お久しぶりです」

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