第三章 溶けない雪
その部屋だけが、春の昼だった。
峠の修道院は、まだ、雪の中にあった。朝のうちに麓の町を発って、白くない馬車に揺られること、日の傾くころまで。灰色の石を積んだ低い建物が、谷を見下ろす崖の上に、身を縮めるようにして建っている。屋根の上では、北の山から吹き下ろす風が、ひっきりなしに鳴っていた。
門で一行を迎えたのは、年老いた修道女だった。この修道院の、院長だという。背筋の伸びた、痩せた人で、目尻に深い皺が刻まれていた。
石の廊下は、外と変わらないほど冷えていた。その突きあたりの扉を、院長が開けたとたん――ぬるい風が、頬を撫でた。
春の昼の、陽だまりのような温もりだった。
長い卓に、灰色の修道衣の女たちが並んでいた。卓の真ん中に、木の桶がいくつも置いてある。
桶の中は、雪だった。
修道女たちは、その雪を指先でひとつまみずつすくっては、硝子の小瓶に詰めていた。詰めては、栓をする。栓をしては、細い紐を通す。窓辺の棚には、詰め終えた小瓶が何百と並んで、弱い陽を受けていた。
誰も、手袋をしていなかった。素手で雪に触れるたびに、修道女たちは、ほっとしたように息をついた。ひとりが、小さく鼻歌を歌っていた。
王都の白い礼拝堂で、配られていた小瓶。鍛冶屋の首に下がっていた、あの瓶。
ここで、詰めていたのだ。
ミレイアは、胸の聖印に、指をやった。
ぬるかった。
白い礼拝堂の小瓶の列のそばで確かめたのと、同じぬるさだった。
院長は、戸口から先へは、入ってこなかった。
レオニスも、入らなかった。戸口の柱にもたれて、桶の雪を、黙って見ていた。
それが誰の雪なのか、ミレイアは知っている。レオニスも、知っている。
ヘルミは、礼拝堂にいた。
夕べの祈りの刻だった。小さな礼拝堂の、蝋燭の明かりの中で、灰色の修道衣の人影が、祭壇の前に膝をついていた。胸の前で、両手を重ねている。その手の中に、硝子の小瓶が、握りこまれていた。
ミレイアは、戸口で足を止めた。
祭壇の脇の蝋燭が、ヘルミの横顔を照らしていた。穏やかな横顔だった。唇が、祈りの言葉の形に、かすかに動いている。
冬の朝、王都を発っていったとき、この人の目のふちは、赤かった。雪の中で、涙を拭わずに、笑っていた。
今は、赤くなかった。
――峠は静かで、毎日、とても穏やかです。
パン屋の食堂で、レオニスの横から読んだ手紙の、几帳面な字だった。
廊下に戻ると、院長が、ミレイアを待っていた。
「……あの小瓶を、ずっと、ご覧になっていましたね」
礼拝堂の戸口のほうへ、ちらりと目をやる。少し黙ってから、院長は、声を落とした。
「聖都から、お指図がございます。……聖女さまに、小瓶を手放させてはならない、と」
ミレイアは、院長の顔を見た。
「あの方は、ここへ来られたとき、毎晩、泣いていらしたのです」
院長は、戸口の向こうの、祭壇の前の背中を見ていた。
「夜の祈りの刻になると、ひとりで、礼拝堂で。……お上手では、ありませんでしたけれど」
皺の奥の目が、少しだけ、やわらいだ。
「途中で、止めてしまわれるのです。泣きかけては、止めて。また泣きかけては、止めて。それでも、毎晩」
院長は、口をつぐんだ。
ミレイアは、訊いた。
「……今は」
院長は、首を振った。
「泣かれません」
短い答えだった。
「私は、お指図に、従っております」
それだけ言って、院長は、廊下の奥へ歩いていった。
遠ざかる背中から、もう一度、同じ言葉が聞こえた。誰に聞かせるともない、小さな声だった。
「……従って、おります」
晩の食卓には、豆のスープが出た。
食堂の長い卓に、湯気の立つ椀が並ぶ。豆が、底のほうに、ぱらぱらと沈んでいた。
薄かった。
レオニスが、匙を持ったまま、椀の中を覗きこんだ。
「……肉は」
卓の端で、院長が、間をおかずに答えた。
「ございません」
それから――ふと、何かに思いあたったような顔をした。
皺の奥の目が、レオニスの顔の上に、とどまっていた。
「……四年前の、冬の終わりにも」
静かな声だった。
「同じことを、お尋ねになった方が、いらっしゃいました」
レオニスの匙が、止まった。
院長の目は、レオニスの顔から、離れなかった。
「背の高い、痩せた方でした。火の入っていないパイプを、くわえたままで」
卓が、静かになった。シエルが、椀から顔を上げた。ヘルミの匙も、止まっていた。
院長は、椀の湯気の向こうで、言葉を継いだ。
「巡礼の方では、ありませんね、とお尋ねしましたら……見物だ、と」
院長は、窓のほうへ目をやった。外は、もう暗かった。
「咳を、していらっしゃいました。毛布を一枚、余分にお持ちしました。夕方には、峠のいちばん高いところまで登られて、向こうを、長いこと、ご覧になっていました」
窓の外の、峠の向こうの空だけが、白く濁っていた。
「明くる朝、谷のほうへ、下りていかれました。門で、お見送りしたきりです」
院長は、レオニスに目を戻した。
「……お知りあいの、方でしたか」
レオニスは、答えなかった。
椀の中に、目を落としていた。それから、ぽつりと訊いた。
「……そいつ、何杯、食った」
院長は、少し考えた。
「一杯だけ、でした」
それから、言い足した。
「……お残しには、なりませんでした」
レオニスは、椀を持ち上げた。
薄いスープを、ひと息に、飲み干した。
からになった椀を、院長のほうへ、差し出す。
「……おかわり」
院長は、黙って椀を受け取った。
三杯、だった。
ミレイアは、革表紙の帳面を開いた。
――満陽祭まで八十八日:修道院のスープに、文句。
横から、レオニスが覗きこんだ。
「……文句じゃねえよ。訊いただけだ」
ミレイアは、帳面から目を上げなかった。
「では、三杯も食べたのは、なぜですか」
レオニスは、そっぽを向いた。
「……腹が、減ってたんだよ」
向かいの席で、アルバンが、白い革の帳面に、何か書きつけていた。豆のスープ、三杯――と書いたのだろう、とミレイアは思った。
その晩、院長は、何も言わずに奥へ消えて、毛布を一枚、余分に持ってきた。
レオニスの分だった。
レオニスは、毛布と院長の顔を、見比べた。
「……咳なんか、してねえぞ」
院長は、毛布を、レオニスの腕に押しつけた。
「峠の夜は、長うございますので」
レオニスは、毛布を抱えたまま、しばらく、そこに立っていた。
◆
明くる朝、雪を運ぶ荷車に乗って、谷へ下りた。
谷で掘った雪を、峠の修道院へ運び上げるための荷車だった。三日に一度、峠と谷を行き来する。下りの荷台には、修道女たちの焼いたパンの籠と、豆のスープの大鍋が積まれる。囚人たちの、昼の分だという。
手綱を取ったのは、ゴドフロワだった。ヘルミとシエルも、荷台に乗っていた。ヘルミが柵のそばまで行くのは、冬に、初めて村の跡を訪ねて以来だと、シエルが教えてくれた。
レオニスは、荷台の隅で、鉄剣を枕に寝ていた。
峠を下るにつれて、道の雪は消えていった。山肌のあちこちで、雪解けの水が、細い筋になって光っている。土の黒い斜面に、気の早い草が、薄い緑をのぞかせていた。
北の山にも、春が来ていた。
谷だけが、白かった。
山あいの細長い谷を、真っ白な雪が、ふちまで埋めていた。雪解けの筋は、一本も、谷の中へは流れこんでいない。陽の当たる斜面でも、雪は、きらきらと乾いたまま、少しも痩せていなかった。
――あったけえのに、溶けねえ雪だった。
牢の面会室で、ボルグは、そう言った。
谷の入り口で、荷車が速さをゆるめた。
レオニスが、荷台から飛び降りた。寝ていたはずの目が、開いていた。
入り口の雪は、荷車の轍と、囚人たちの足跡で、踏み荒らされていた。レオニスは、そのふちに、しゃがみこんだ。
手のひらを、雪の上にかざす。
そのまま、動かなかった。
触れは、しなかった。
やがて、レオニスは立ち上がって、黙って荷車のあとを歩きだした。何も言わなかった。ミレイアも、訊かなかった。
谷の入り口から、木の柵が、奥へ奥へと続いていた。門の前で、槍を抱えた見張りの兵たちが、焚き火を囲んでいる。
兵たちは、荷車のうしろの白い火に気づくと、あわてて立ち上がった。
「し、審問官さま」
アルバンが、ランタンを提げたまま、にこやかに頭を下げた。
「聖地の見回りも、務めのうちですので」
柵の内側では、囚人たちが、雪を掘っていた。
木の鋤で雪を切り出しては籠に移し、門の脇の樽まで運んでいく。雪原のあちこちに、浅い穴が口を開けていた。掘った跡だった。穴の底も、白いままだった。
雪原の下に、屋根の形が浮いていた。
いくつも。
なだらかな白の、ところどころが、ほんの少しだけ盛りあがって、三角の影を落としている。家々の屋根だった。燃えた家の、屋根だった。
二十五年前の冬、ここで、村が燃えた。燃える家の前で、村の人々は、笑っていた。
柵に近づくと、ぬるい風が、頬に触れた。
修道院の、あの部屋と同じ温もりだった。胸の聖印が、服の内側で、ぬるくなった。
雪を掘る囚人たちは、誰も、つらそうな顔をしていなかった。鋤を振るう手を止めては、陽だまりの猫のように目を細め、隣の者と、何か言いあって笑っている。
穏やかな顔だった。
ゴドフロワは、荷車のそばから、動かなかった。
御者台を降りて、馬の首を撫でながら、柵の向こうの白を、灰色の目でじっと見ていた。柵に近づこうとは、しなかった。
二十五年前、この人は、ここで膝を折ったのだ。光の中に座りこんでいた、笑っている娘を、その腕で抱き上げて。
その娘が、今、パンの籠を抱えて、荷台から降りてくる。
掘る列のなかほどで、見張りの兵のひとりが、怒鳴った。
「おい、何をしてる!」
兵が、囚人のひとりの腕を掴んでいた。痩せた、中年の男だった。上着の胸もとを、片手で押さえている。
アルバンが、柵の内側へ入っていった。
ランタンを、掲げる。
光が、満ちた。
冷たい光だった。雪原の上の、ささやかな影という影が、消えた。鋤の影も。籠の影も。囚人たちの足もとの影も。浅い穴の底の、青い影までも。
胸の聖印が、すっと冷えた。
アルバンは、静かに言った。
「……隠すことは、ありません」
北への道の宿場で聞いたのと、同じ言葉だった。
男の唇が、震えた。
「……女房が、この冬に、死んだ」
胸もとを押さえていた手が、ゆるんだ。上着のあわせから、白いものが、ほろほろとこぼれ落ちた。
雪だった。
「こいつを、懐に入れて寝るとな。……女房の顔が、遠くなるんだ」
男は、自分の声に、おびえたような顔をした。それでも、言葉は止まらなかった。
「忘れたくねえんだ。……忘れたくねえのに、忘れてえんだよ。夜が、長くて――」
こぼれた雪は、足もとの雪に落ちて、もう、どれだったのか、見分けがつかなかった。
兵たちが、男の両腕を取った。男は、逆らわなかった。引き立てられていきながら、二度、三度、雪のほうを振り返った。
宿場の夜には、照らされた若者の顔から、目を逸らしたくてたまらなかった。
今度は、逸らさなかった。
見たものを、見たとおりに、覚えておく。そう、決めていた。
アルバンが、ランタンを下ろした。雪原に、淡い影が戻ってきた。
聖印が、また、ぬるくなった。
掘る列の、いちばん端に、ひとりだけ、笑っていない男がいた。
熊のような大男だった。剃り上げた頭。額から頬へ走る、古い傷。右の袖は、空っぽのまま、腰紐に留めてある。
残った左手には、ぼろ布が、ぐるぐると巻きつけてあった。
その手で鋤の柄を握り、柄の端を脇の下に挟みこむようにして、男は、雪をすくっていた。すくった雪を籠に移すときも、布を巻いた手のほかは、どこも雪に触れさせなかった。
ボルグだった。
ミレイアは、わけを、訊かなかった。
あの人は、まだ、覚えているのだ。
父と母の最期を知っているのは、この世に、ふたりしかいない。床下にいた自分と――斧を持っていた、あの人と。
ボルグが、顔を上げた。
目が、合った。
鋤を握る手が、止まった。
ボルグは、黙って、ミレイアを見ていた。それから、剃り上げた頭を、深く下げた。
ミレイアは、頭を下げ返さなかった。
目も、逸らさなかった。
会ったら、どうするのか。
答えは、まだ、出ていなかった。
◆
足の下の雪は、あたたかかった。
ヘルミは、パンの籠を抱えて、柵の内側を歩いていた。
昼の休みだった。見張りの兵が、鍋の底を棒で叩くと、囚人たちは鋤を置いて、雪の上に腰を下ろした。誰も、寒そうではなかった。
父の、雪だった。
冬のさなかに、初めてこの谷を訪ねたとき、ヘルミは、柵の外から、長いこと、この白を見ていた。
泣いた、のだと思う。
どんなふうに泣いたのかは、もう、よく思い出せなかった。
胸の小瓶が、あたたかかった。
籠を肘にかけなおそうとして、小瓶から手を離すと、胸の底が、ひやりとした。
だから、すぐに、また握った。
父の、手のようだった。夜が怖いと泣くたびに、背中を撫でてくれた、大きな手。
パンを、ひとつずつ、手渡していった。
囚人たちは、穏やかに笑って、受け取った。聖女さま、と呼ぶ者もいた。ありがてえ、と、両手で押しいただく者もいた。
王都の牢でも、こうして、パンを配った。
あのころは、手渡すたびに、白い光を灯した。格子の向こうから伸びてくる手を、ひとつずつ包んで。
今は、もう、光は灯らない。
灯さなくても、ここの人たちは、笑っていた。
それが、なぜだか、うれしかった。
見張りの兵たちが、大鍋の蓋を開けて、豆のスープをよそう支度をしていた。シエルは、もうひとつの籠を抱えて、列の反対の端から、パンを配っている。亜麻色の髪が、白い雪原の上を、行ったり来たりしていた。
列の、いちばん端まで来た。
そこにだけ、雪の上に座っていない男がいた。
柵の杭にもたれて、立っている。片腕の、大きな男だった。残った左の手に、ぼろ布が巻いてあった。
ヘルミは、丸パンを差し出した。
男が、顔を上げた。
剃り上げた頭。額から頬へ走る、古い傷。
見覚えがあった。
王都の牢の、薄暗い廊下。格子の向こうで、この人だけが、差し出したパンに、手を伸ばさなかった。
――牢にいる、片腕のおっさんに聞いた。ボルグっていう。あんたの村の、生き残りだ。
冬の朝、雪の中で、レオニスさんは、そうおっしゃった。
男の目が、大きく、見開かれていった。
「……ヘルミ、嬢ちゃん」
かすれた声だった。
ヘルミは、微笑んで、その名を呼んだ。
「ボルグさん」
ボルグは、布を巻いた左手を、握りしめた。
何か言おうとして、言葉にならないようだった。太い喉が、何度も動いた。
ヘルミは、足もとの白を見下ろした。
「父の雪を、掘ってくださっているのですね」
ボルグの肩が、びくりと揺れた。
「……すまねえ」
絞りだすような声だった。
ヘルミは、ボルグの顔を、不思議そうに見た。
「……どうして、謝るのですか」
ボルグは、答えなかった。剃り上げた頭を、深く、深く、下げた。
どうして、この人は、謝るのだろう。
父の雪を、掘ってくださっている。王都の人たちは、この雪のおかげで、よく眠れるようになったと聞く。悲しいことが、少しだけ、遠くなるのだと。
わからなかった。
胸の小瓶が、あたたかかった。
わからないまま、ヘルミは、丸パンを、ボルグの手に、そっと載せた。ぼろ布の中で、太い指が、パンを包みこんだ。
うしろで、兵の声がした。
「審問官さまから、どうぞ」
見張りの兵が、大鍋からよそったばかりの椀を、アルバンに差し出していた。
アルバンは、それを受け取った。
受け取ったまま、雪の上を歩いてきた。列の、いちばん端の、杭のすぐ手前まで。
そこに、痩せた若い囚人が、膝を抱えて座っていた。まだ、子供のような顔をしている。
アルバンは、その前に膝をついて、湯気の立つ椀を、そっと置いた。
「こちらが、先です」
若い囚人が、目をまるくして、アルバンを見上げた。
パンを配り終えたシエルが、からの籠を提げて、こちらへ歩いてきていた。
その手から、籠が落ちた。
シエルは、籠を足もとに落としたまま、目を見開いて、アルバンの横顔を見ていた。
「……アル?」
椀から離れかけたアルバンの手が、止まった。
シエルが、一歩、近づいた。
「ひだまりの、いえの」
アルバンは、すぐには動かなかった。
それから、立ち上がって、シエルに向きなおった。
「……お久しぶりです、シエルさん」
硬く、整った微笑みだった。
シエルは、その顔を、じっと見上げていた。
「いつも、ちいさいこに、さきに、ぱん、あげてた」
小さな声だった。ひとつずつ、拾い上げるような。
「まどのところで、まいばん、だれかを、まってた」
アルバンの微笑みは、崩れなかった。
「……はんぶんこ、を、いただきました」
それだけ言って、アルバンは、頭を下げた。
ヘルミは、少し驚いて、若い審問官の横顔を見た。
聖都の、大聖堂の回廊で、何度か見かけた少年だった。猊下のお言いつけで、白い塔に勤めている人だと聞いていた。灯りを提げて、いつも、にこやかに頭を下げる。
陽だまりの家に、いたのだという。
ヘルミは、思い出そうとした。シエルと同じころに、陽だまりの家にいた子。陽だまりの家には、いつも、たくさんの子供がいた。夜ごとに泣く子も、いつまでも窓辺を離れない子も。
思い出せなかった。
柵のすぐ外の岩に腰かけて、レオニスが、丸パンを口へ運びかけたまま、こちらを見ていた。
シエルが、ヘルミの袖を引いた。
「……おねえちゃん。アル、だよ」
ヘルミは、微笑んだ。
「そう。……よかったですね、シエル」
シエルは、ヘルミの顔を見上げた。
何か言いかけて、口をつぐんだ。
胸の小瓶が、あたたかかった。
◆
昼の休みが終わるころ、レオニスは、柵の杭のところへ歩いていった。
ボルグは、まだ、そこに立っていた。布を巻いた手に、半分かじった丸パンを持ったまま。
「……よう、おっさん」
ボルグが、顔を上げた。
「……兄ちゃん」
黒狼の里の炊事場で、一本きりの腕で大鍋を振っていた男だった。今は、その腕で、鋤を振っている。
「ガルドが、よろしくってよ」
「……そうか」
ボルグの口の端が、わずかに動いた。笑おうとしたのかもしれなかった。
レオニスは、杭のそばの、雪のない土の上に、腰を下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
谷の白を、眺めていた。燃えた家の屋根が、雪の下で、なだらかに盛りあがっている。
この白の、入り口のあたりで。
四年前、師匠は、兄貴の雪の上で、昼寝をした。
「……師匠の、手紙を読んだ」
ボルグが、こちらを見た。
レオニスは、谷を見たまま、続けた。
「麓の町の墓守が、四年、預かってた。……北の村のことも、先生のことも、書いてあった」
それから、少し、間をおいた。
「面会室で、あんた、言ってたろ。暗くなってから、どこかで、ひとりだけ泣いてる奴がいたって」
ボルグの眉が、わずかに寄った。
レオニスは、肩をすくめた。
「扉の外で、聞いてた」
それから、言った。
「……あれ、師匠だ」
風が、谷を渡っていった。
「谷じゅうで泣いてたのは、俺ひとりだった。……暗くて、誰にも見られなくて、よかった。――そう、書いてあった」
ボルグは、長いこと、動かなかった。
「……あの人が」
かすれた声だった。
ボルグは、目を閉じた。
「……俺は、笑ってたんだぞ」
布を巻いた手の中で、丸パンが、ぎゅっと潰れた。
「あの人が泣いてるのを、聞きながら。焼け跡で、暮れていく空なんか見上げて、笑ってたんだ」
レオニスは、何も言わなかった。
隣に座ったまま、谷を見ていた。
やがて、ボルグが、目を開けた。
「……墓は、どこだ」
「麓の町の、丘の上だ。墓地じゅうで、いちばん日当たりのいいとこ」
ボルグは、布を巻いた手を、じっと見下ろした。
「……礼を、言いそびれたままだ」
冬の牢の面会室でも、この人は、同じことを言った。
ボルグは、柵の門のほうへ歩いていった。レオニスも、立ち上がって、そのあとに続いた。
焚き火のそばで、見張りの兵たちをまとめている年かさの男が、腕を組んでいた。ボルグが何か言うと、男は、すぐさま首を振った。
「勝手は、ならねえ。お前らの務めは、柵の中で掘ることだ」
ボルグは、引き下がらなかった。剃り上げた頭を、深く下げたまま、動かなかった。
白い火が、近づいてきた。
アルバンが、ランタンを提げて、年かさの兵の前に立った。
「白い闇司祭さまが、麓の町へ行かれます」
にこやかな声だった。
「見届けるのが、私の務めですので。私も、参ります」
年かさの兵は、アルバンと、ボルグと、寝癖の頭を、順に見た。それから、唸るように息を吐いて、ボルグに顎をしゃくった。
「……審問官さまが、ご一緒なら。日が暮れるまでに、戻ってこいよ」
柵の門のそばで、ミレイアが、こちらを見ていた。
ボルグを見て、それから、目を伏せた。
何も言わずに、荷車のほうへ戻っていった。
監視役が、監視をほかへ任せるのを、初めて見た。
麓の町までの道は、雪解けの水で、ぬかるんでいた。
ボルグが先を歩き、レオニスが続いた。十歩うしろを、昼間から灯ったランタンがついてくる。
丘の上の墓地では、巣箱のまわりを、蜂が忙しく行き来していた。
巣箱の前で、婆さんが、ちらりと顔を上げた。片腕の大男と、寝癖の頭と、ランタンの少年を、順に眺めて――何も訊かずに、藁の結び目に戻った。
丘の端の、名のない墓標の前で、ボルグは、膝をついた。
両の膝を、湿った土につく。一本きりの腕を地面について、体を支える。それから、剃り上げた頭を、墓標の前に、深く下げた。
「……ありがとう、ございました」
ひとこと、ひとことを、確かめるような声だった。このおっさんの口から、そんな丁寧な言葉を聞くのは、初めてだった。
大きな背中が、丸くなった。
レオニスは、少し離れたところに立って、空を見ていた。
春の空の高いところで、雲雀が鳴いていた。
ボルグの背中のほうは、見なかった。
帰りぎわ、婆さんが、巣箱の前から、背を向けたまま言った。
「……客の多い墓だね」
日が傾くころ、ボルグを谷へ送り届けた。
柵の門をくぐる前に、ボルグは、一度だけ振り返った。何も言わなかった。ぼろ布の端を歯でくわえて、左手に、きつく巻きなおす。それから、白い雪原の中へ戻っていった。
峠への道を、上った。峠までは、半日の上りだった。
荷車は、昼のうちに、ヘルミたちを乗せて峠へ戻っていた。上りの道に、ほかの人影はなかった。背中の谷のほうから夜が来て、尾根の上に、星がひとつ、ふたつと灯りはじめた。
足もとを照らしているのは、うしろから来る白い火だけだった。
昼間の、シエルの声が、耳の奥に残っていた。
――アル?
――ひだまりの、いえの。
――まどのところで、まいばん、だれかを、まってた。
若い囚人の前に椀を置いたときの、あの審問官の言い回しも、耳に残っていた。王都のパン屋の戸口でも、裸足の子供の前で、同じことを言っていた。どこかで聞いた、と、あのときも思った。
どこで聞いたのかは、今も、思い出せない。
陽だまりの家。
冬の夜、白い法衣の司祭たちは、ランタンを提げて、路地裏を回った。凍えている子供を見つけては、白い家へ連れて帰った。
――教会のランタンが連れてったって、向かいの婆さんに聞いた。
師匠の汚い字が、目の前に浮かんだ。
毎晩、窓のところで、誰かを待っていた子供。
……あの晩の、ちび。
まさか、と思った。
レオニスは、足を止めた。
振り返ると、十歩うしろで、白い火も止まった。灰色の髪の少年が、ランタンを提げて、こちらを見ていた。
「……お前、どっから来た」
アルバンは、すぐには答えなかった。
白い火に照らされた顔に、硬く、整った微笑みが浮かんだ。
「覚えていらっしゃらないのなら、それで結構です」
それから、その目が、ゆっくりと伏せられた。
レオニスは、それ以上、何も訊けなかった。
背を向けて、また、歩きだした。
峠の上の、修道院の小さな明かりは、まだ、ずっと遠かった。
その向こうの空だけが、白かった。
◆
峠の修道院に来て、ひと月が過ぎた。
ヘルミは、よく笑うようになった。
朝の祈りのあとも。薄いスープの卓でも。修道女たちと、小瓶の数をかぞえているときも。
穏やかな、やわらかい笑い方だった。
その笑い方を、レオニスは、知っていた。
冬至の前。広場でも、牢の廊下でも、宿舎の中庭の柵の向こうでも、白い衣の聖女は、いつも、そうやって笑っていた。
その晩、修道院の屋根の上で寝転がっていると、梯子のきしむ音がした。
シエルだった。
屋根の傾きを、四つん這いで上ってきて、レオニスの隣に、ちょこんと座る。
頭の上には、星が出ていた。峠の向こうの空だけが、今夜も、白く濁っていた。
シエルは、膝を抱えて、黙っていた。
「……おねえちゃん、このごろ、なかないの」
シエルは、膝に顎をのせた。
「まえは、まいばん、ないてたの。へたっぴ、だったけど」
それから、もっと小さな声で、言った。
「このごろ、わらってるの。……まえみたいに」
まえみたいに。
白い衣の聖女の隣で、この子も、十二年、笑っていた。
シエルの指が、レオニスの外套の袖を、きゅっと掴んだ。
「だから、きて、って、かいたの」
王都に届いた手紙の、終わりの一行。字の大きさが、まるで揃っていなかった。ずいぶん力をこめて書いたらしく、紙が、ところどころ、へこんでいた。
レオニスは、身を起こして、梯子を下りた。
夜の祈りの刻だった。
礼拝堂の中は、蝋燭の明かりだけだった。
ヘルミは、祭壇の前に膝をついていた。胸の前で重ねた両手の中に、小瓶を握りこんでいる。
レオニスが入っていくと、ヘルミは、振り返った。
「……レオニスさん」
微笑んでいた。
レオニスは、ヘルミの隣に、腰を下ろした。祭壇の前の、冷たい石の床に、あぐらをかく。
前置きは、しなかった。
右の手のひらを、上に向けた。
「我、欲す」
囁くように、言った。
「――手のひらひとつぶんの、夜を」
手のひらの上が、ふっと暗くなった。蝋燭の明かりが、そこだけ、届かなかった。
丸めた手のひらを、ヘルミの胸の前に、そっと差し出す。
小さな暗さの中に、光が、ひとつ映っていた。
蜂蜜色だった。
その上に、白いものが、薄く積もっていた。
冬至の夜、王都の地の底の神殿で見たときは、何重にも降り積もった雪の、いちばん底にあった光だ。あの夜、この人が泣いて、雪は、ほどけたはずだった。
また、積もりはじめていた。
まだ、薄い。
レオニスは、手のひらを差し出したまま、言った。
「見るかどうかは、あんたが決めろ」
ヘルミは、長いこと、蜂蜜色の光を見ていた。
小瓶を握った手に、指の節が浮くほど、力がこもっていた。
「……あたたかいのです」
ヘルミは、胸もとの小瓶に、目を落とした。
「この小瓶。……父の、手のようなのです」
蝋燭の芯が、小さく爆ぜた。
ヘルミは、光から目を離さないまま、言った。
「……こわい」
淡い金色の目が、かすかに揺れた。
「見たら、また、父を、失います」
レオニスは、手を閉じた。
手のひらの中で、小さな夜が、ほどけて消えた。
「……そっか」
それだけ、言った。
戸口のほうから、白い光が、床を這ってきた。
蝋燭の影が、ひとつずつ、消えていく。祭壇の影も。長椅子の影も。
アルバンが、ランタンを提げて、戸口に立っていた。
「照らしましょうか」
にこやかな声だった。
「私の光なら、覆いの下も見えます。すぐに」
レオニスは、振り返らずに言った。
「やめろ」
自分の声が、思っていたより、低かった。
アルバンは、一歩、礼拝堂の中へ入ってきた。
「なぜです。覆われているのでしょう。照らせば――」
ヘルミが、アルバンのほうへ、顔を向けた。
「……いいえ。アルバンさん」
微笑んでいた。
「ありがとう」
アルバンは、黙って、ヘルミの顔を見ていた。
それから、ランタンを下ろした。白い光が、ひと回り、小さくなった。
アルバンの目が、レオニスに移った。
「……白い闇司祭さまは、待つだけですか」
にこやかな声では、なかった。
「置き去りにして」
レオニスは、アルバンの目を、見返した。
「隣にいる」
ヘルミの隣の、冷たい石の床から、立ち上がらずに。
「……待つってのは、そういうことだ」
アルバンの顔から、微笑みが、消えた。
ほんの、ひと息のあいだだった。
すぐに、硬く、整った微笑みが戻ってきた。
「……そうですか」
白い火が、戸口から、離れていった。
廊下の少し先で、止まった。それきり、動かなかった。
礼拝堂に、蝋燭の明かりが戻った。祭壇の影も、長椅子の影も、戻ってきた。
ヘルミは、また、目を閉じて、祈りはじめた。
レオニスは、その隣に座っていた。何を祈っているのかは、訊かなかった。
途中で、一度だけ、うとうとした。
目を開けても、ヘルミは、まだ、そこにいた。
戸口の外の白い火も、朝まで、そこから動かなかった。
◆
日が、過ぎた。
雪を運ぶ荷車が、何度も、峠と谷を行き来した。窓辺の棚の小瓶は、減っては、また増えた。峠の向こうへ続く道は、まだ、雪の下だった。
レオニスは、晴れれば屋根で、曇れば食堂の長椅子で、昼寝をした。
アルバンは、門の脇に立っていた。昼も、夜も。
ヘルミは、笑っていた。
夜明け前、ミレイアは、谷を見下ろす崖の上で、剣を振る。王都でも、北への道でも、欠かさなかった。九年、そうしてきた。
崖の上には、いつも、先客がいた。
ゴドフロワだった。
崖のふちに立って、谷を見下ろしている。何も、持っていなかった。腰に剣帯もなく、手は、ただ、両脇に下ろされていた。
夜明けの薄明かりの中で、谷は、ひとところだけ、ぼんやりと白かった。
毎朝、そうだった。ミレイアが来る前から、そこに立っている。ミレイアが剣を収めて戻るときにも、まだ、立っている。
満陽祭まで五十日の朝、ミレイアは、剣を収めてから、その背中に声をかけた。
「団長は、なぜ、剣を」
ゴドフロワは、振り返らなかった。
「……もう、団長ではない」
「では、何とお呼びすれば」
少し、間があった。
「……ゴドフロワでよい」
ミレイアは、頷いた。
「……団長」
ミレイアは、その隣に並んだ。
ゴドフロワは、何も言わなかった。
白い髭が、かすかに揺れた。ため息だったのかもしれない。
ふたりで、谷を見下ろした。
剣を持たない手は、何かを待つように、ゆるく開いていた。
その日の昼、ミレイアは、食堂の長椅子の前に立った。
レオニスは、長椅子に寝そべって、昼寝の最中だった。
「レオニス」
「……ん」
「このままでは、ヘルミさんが――」
言いかけて、続きが出てこなかった。
冬至の前の、白い衣の聖女。十二年、笑っているだけだった、シエル。
レオニスは、目を開けなかった。
「……わかってる」
「わかっているなら――」
「わかってて、待つんだ」
ミレイアは、口をつぐんだ。
レオニスは、寝返りを打って、ミレイアに背を向けた。
寝息は、聞こえてこなかった。
その晩、ミレイアは、食堂の卓で、革表紙の帳面を開いた。
ペン先が、しばらく、宙で止まっていた。
――満陽祭まで五十日:待つ。
いつの間にか、レオニスが、卓の向かいから、帳面を覗きこんでいた。
「……それ、罪状か」
ミレイアは、帳面の一行を、見下ろした。
「……わかりません」
夜更けに、ミレイアは、寝床を抜け出した。
屋根へ続く梯子を上りきる手前で、足が止まった。
レオニスが、屋根の傾きに背中をあずけて、星を見ていた。
その手が、外套の内側から、何かを取り出した。
小さく、固く、畳んである紙だった。
レオニスは、それを、じっと見下ろしていた。畳み目に、指がかかった。
開かなかった。
紙は、また、外套の内側にしまわれた。
ミレイアは、梯子を、音を立てないように下りた。
◆
満陽祭まで、四十三日の晩だった。
夕べの祈りのあと、ミレイアは、廊下のいちばん奥の部屋の前を通りかかった。ヘルミとシエルの部屋だった。
扉が、細く開いていた。
蝋燭の明かりの中で、ヘルミが、寝台の端に腰かけていた。膝のあいだの床にシエルを座らせて、その亜麻色の髪を、櫛で梳いている。
ゆっくりと。ひと房ずつ。
冬至の夜、地の底の神殿で、シエルは、泣き疲れて眠ったヘルミの髪を、指で梳いていた。
今夜は、ヘルミが、梳いていた。
シエルの肩が、震えていた。
泣いていた。
声を殺して、膝を抱えて、しゃくりあげるのを、懸命にこらえている。
「……おねえちゃん」
かすれた、小さな声だった。
ヘルミは、手を止めなかった。
櫛が、亜麻色の髪を、上から下へ、通っていく。胸もとの小瓶が、蝋燭の火を映して、小さく光った。
ヘルミは、穏やかに、どこまでも優しく、微笑んだ。
それから、小さく、首をかしげた。
「……どうして、泣いているの、シエル?」
やさしい声だった。
心の底から、不思議そうな声だった。
ミレイアは、胸の聖印を、服の上から握りしめた。
熱かった。
冬至の前、白い衣の聖女が祈るたびに、胸を焼いた熱さだった。




