第二章 寝坊助へ
その朝、レオニスは、誰にも起こされずに目を覚ました。
屋根裏の小窓の外は、まだ青かった。夜が明けきる、少し手前の色だ。
寝坊助にしては、上出来だった。
枕もとの鉄剣を取って、肩に担いだ。まだ人通りのない川沿いの道を、坂のほうへ歩いた。
坂の途中の現場には、もう、ガルドが来ていた。大工たちより先に、ひとりで材木を担いでいる。足首の鎖が、朝の冷えた空気の中で、じゃらりと鳴った。牢番は、今朝も積んだ板にもたれて、口を開けて眠っていた。
レオニスは、材木の山には登らなかった。
下から、その背中に声をかけた。
「ガルド」
ガルドが、角材を担いだまま振り返った。
朝の早いレオニスを見るのは、初めてなのだろう。鋼色の目が、わずかに細くなった。
レオニスは、その目を、まっすぐに見返した。
「北へ行く」
ガルドは、しばらく黙っていた。
何をしに、とは訊かなかった。
「……行ってこい」
それだけ言って、角材を担ぎなおす。坂を上りかけて、肩ごしに付け足した。
「土産は、要らねえ」
「誰が買ってくるかよ」
ガルドは鼻を鳴らした。二、三歩、上ってから――足を止めた。今度は、振り返らなかった。
「……ボルグに、よろしくな」
北の鉱山には、黒狼の里で鍋を振っていた、片腕の男がいる。
「……おう」
組み上がった梁の上で、白墨の名前が、朝日を受けはじめていた。
パン屋に戻ると、戸口の脇に、旅の荷がひとつ、まとめてあった。
レオニスの荷では、なかった。
作業台では、ミレイアが、粉だらけの手で生地を丸めていた。夜明け前の仕込みは、もう終わりかけている。
レオニスは、戸口の荷を、顎でしゃくった。
「……なんで、お前まで、荷物まとめてんだよ」
「監視役ですので」
「まだ、何も言ってねえだろ」
「顔に、書いてあります」
ミレイアは、生地から目を上げなかった。
竈の前から、ユナが立ってきた。両手で、布の包みを抱えている。焼きたての丸パンが、いくつも透けて見えた。
ユナは、包みを、レオニスの胸に押しつけた。
「……また、来て――」
言いかけて、口をつぐんだ。
冬に、伯爵家へ移る夜明け前にも、この子は戸口で、同じことを言った。
ユナは、唇を噛んだ。それから、言いなおした。
「……帰ってきてよ」
レオニスは、包みを受け取った。まだ、温かかった。
「……おう」
焼き場の奥で、親父が、こちらに背を向けたまま、天板を引き出していた。
「五人前、焼いといてやる」
冬至の晩にも、この親父は、同じことを言った。屋根裏で眠りこけていた二日のあいだも、毎朝、五人前を焼いて待っていたらしい。
レオニスは、その背中に、片手を上げた。
北の門の前に、白い火が灯っていた。
朝の光の中で、真鍮の覆いを開けたランタンを提げて、灰色の髪の少年が立っている。
アルバンは、丁寧に頭を下げた。
「お供いたします。見届けるのが、私の務めですので」
レオニスは、天を仰いだ。
「……どこまで、ついてくる気だ」
「満陽祭の日まで。どこまででも」
ミレイアが、荷を背負いなおして、レオニスの隣に並んだ。
「監視役は、私です」
「存じております」
にこやかな声だった。
レオニスは、鉄剣を担ぎなおして、歩きだした。
北へ向かう街道を、三人が行く。寝癖の頭がひとつ。肩で切りそろえた銀色の髪がひとつ。それから、十歩うしろに、朝だというのに灯ったランタンがひとつ。
四年前、師匠が、ひとりで向かった方角だった。
◆
北への道は、十四日かかった。
レオニスは、道ばたに木が一本あれば、その下で寝た。
王都を発って四日目の昼も、そうだった。街道沿いの土手の、芽吹きかけた木の下で、鉄剣を枕に、仰向けに寝転がっている。寝癖が、春の風に揺れていた。
ミレイアは、少し離れた石に腰かけて、革表紙の帳面を開いた。
――満陽祭まで百四日:北へ発つ。
――満陽祭まで百三日:昼寝。
――満陽祭まで百二日:昼寝。
ペン先を、下ろす。
――満陽祭まで百一日:昼寝。
ほかに、書くことがなかった。
十歩向こうの切り株に、アルバンが腰かけていた。ランタンを足もとに置いて、膝の上の、白い革の帳面に、何か書きつけている。ペンが、やけに長く動いていた。
ミレイアは、帳面を閉じて、そちらへ歩いていった。
「何を、書いているのですか」
アルバンは顔を上げて、にこやかに帳面を差し出した。
「審問録です。ご覧になりますか」
几帳面な字が、きっちりと並んでいた。
――昼寝、二刻と四半刻。寝言、二回。『もう、食えねえ』『あと、半刻』。
ミレイアは、その一行を、じっと見た。
それから、自分の帳面の一行を見た。
――昼寝。
「……正確ですね」
声が、少しだけ悔しそうになったのが、自分でもわかった。冬に、人相書きの「寝癖」を見て、同じ言葉を書いたことがある。
アルバンは、にこやかに帳面を閉じた。
「審問録ですので」
木の下から、寝ぼけた声がした。
「……人の寝言、勝手に書いてんじゃねえよ」
アルバンが、ペンを取りなおした。
「起きていらしたのですか」
「今、起きた」
「では、寝言は二回で確定です」
レオニスは、何か言い返そうとして、そのまま寝返りを打った。
アルバンは、また、何か書きつけた。寝返り、一回――と書いたのだろう、とミレイアは思った。
アルバンは、ほとんど眠らなかった。
街道の宿でも、野宿の焚き火のそばでも、夜更けにふと目を覚ますと、いつも白い火が灯っていた。覆いを開けたまま、ランタンは、ひと晩じゅう消えなかった。
五日目の晩、ミレイアは、焚き火の向こうに声をかけた。
「……眠らないのですか」
アルバンは、ランタンの火から目を上げた。
「あまり、眠らないのです」
「灯りも、消さないのですね」
「消しません」
少し間をおいて、硬く、整った微笑みが浮かんだ。
「暗いのは、好きではありませんので」
ミレイアは、胸の聖印に指をやった。
冷たかった。
浄化の場では、火にかざした銅貨のように熱くなった。白い礼拝堂の小瓶のそばでは、ぬるかった。
すぐそこに白い火が灯っているのに、白銀の太陽は、夜の冷たさのままだった。
――白いのに。
焚き火の向こうで、レオニスは、外套を頭からかぶって寝ていた。白い火に、背を向けて。
パン屋の隅の卓で、泣いている鍛冶屋にかぶせた、あの外套だった。ひとりぶんの暗がりの中から、のんきな寝息が聞こえていた。
北の山は、まだ見えない。その山の奥の鉱山に、片腕の男がいる。
会ったら、どうするのか。答えは、まだ出ていなかった。
七日目の晩、宿場の宿で、騒ぎが起きた。
帳場の銭箱から、銀貨が消えたのだ。
晩飯の卓は、たちまち騒がしくなった。宿の亭主が、泊まり客の顔をひとりずつ睨みつけ、泊まり客は、互いの荷を疑わしげに見交わした。旅の商人が、自分の財布を抱えこんだ。誰かが、番所を呼べ、と怒鳴った。
アルバンが、椅子から立ち上がった。
ランタンを、高く掲げる。
光が、満ちた。
冷たい光だった。卓の下の影も、梁の影も、人々の足もとの影も、ひと息に消えた。誰もが、まぶしそうに目を細めた。
厨房の戸口に、下働きの若者が立っていた。
皿を抱えたまま、動けずにいた。
アルバンは、静かに言った。
「……隠すことは、ありません」
若者の唇が、震えた。
「……おふくろの、薬代が」
自分の声に、若者は目を見開いた。止めようとするように、片手で口を押さえる。その指のあいだから、言葉がこぼれた。
「冬じゅう、咳が止まらなくて……今月の分が、どうしても、足りなくて……」
皿が、床で割れた。
食堂が、静まりかえった。
それから、誰かが手を叩いた。
「さすがは、聖都の審問官さまだ!」
拍手が、広がった。亭主が、若者の襟首を掴んだ。泊まり客たちが、口々にアルバンを褒めそやした。
若者は、割れた皿の上に膝をついて、声を上げて泣きだした。
アルバンは、ランタンを下ろさなかった。
泣き崩れる若者の顔を、影ひとつない光が、隅々まで照らしていた。
役に立つ光だ、とミレイアは思った。
誰も、殴られなかった。誰も、疑われたまま夜を明かさずに済んだ。盗んだ者が、盗んだと言った。剣を抜くより、ずっといい。
それなのに。
照らされた若者の顔から、目を逸らしたくて、たまらなかった。
隣で、レオニスは、何も言わなかった。
卓に肘をついて、若者を見ていた。
匙が、止まっていた。
スープの椀は、まだ、半分も減っていなかった。
その夜更け、ミレイアは、なかなか寝つけなかった。
窓を細く開けると、宿の裏庭が見えた。
宿の表のほうが、ぼんやりと白い。通りに面した、アルバンの部屋の窓だろう。裏庭までは、その光も届いていなかった。
いちばん奥の暗がり――納屋の戸口の石段に、影がふたつ、並んで座っていた。
ひとつは、膝を抱えて、肩を震わせていた。暇を出された若者だった。番所に突き出すのだけは勘弁してやる、と亭主が言っていた。
もうひとつは、寝癖の頭だった。
声は、聞こえてこなかった。何も言っていないのだろう。
寝癖の頭が、懐から何かを取り出した。丸パンだった。王都を発つ朝、ユナが押しつけた包みの、最後のひとつ。もう、すっかり硬くなっているはずだった。
まんなかから、ふたつに割る。
片方を、隣へ差し出した。
ミレイアの耳の奥で、シエルの声がした。
――はんぶんこ。
冬、ヘルミと北へ発つ朝に、シエルは、そう言ってパンを割っていた。レオにいちゃんが、おしえてくれたんだよ、と。
若者は、差し出されたものを、長いこと見ていた。
それから、受け取った。
ふたつの影は、それきり、動かなかった。ひとつは泣いていて、もうひとつは、硬いパンをかじっていた。
照らされたあとの暗がりで、あの人は、ただ、隣に座っていた。
ミレイアは、窓を閉めた。
罪状帳を開きかけて――やめた。
明くる朝、若者の姿は、もうどこにもなかった。
朝飯の卓の端で、宿の小さな女の子が、パン籠を見上げていた。亭主の末の子だった。
アルバンは、自分の皿から丸パンを取って、まず、その子の前に置いた。
何も、言わなかった。
女の子は、目をまるくして、パンを抱えて厨房へ駆けていった。
王都のパン屋の戸口でも、この人は、裸足の子供の前に、パンを置いた。この人は、小さい子を先にする。
アルバンは、向かいの卓に目をやった。
レオニスが、ゆうべの分を取り返すように、三つ目の丸パンにかじりついていた。
その寝癖頭を見るアルバンの目が、ときどき、ひどく遠くなることに、ミレイアは気づいていた。
何を見ているのかは、わからなかった。
胸の聖印は、冷たいままだった。
◆
十四日、歩いた。
北の山が、空の半分を塞ぐほど近くなったころ、街道の先に、町が見えた。
北の山の、いちばん手前の町だった。
町はずれの丘の上に、墓地があった。
溶けかけの雪が、墓標のあいだに、まだらに残っている。その合間に、藁で包んだ箱が、いくつも並んでいた。
陽だまりの中を、小さな羽音が行き来していた。
蜂だった。
巣箱の前に、小柄な婆さんがしゃがみこんでいた。綿入れを着ぶくれて、素手で、藁の結び目を直している。手の甲に蜂がとまっても、眉ひとつ動かさなかった。
婆さんが、顔を上げた。
皺の奥の目が、レオニスの顔を見て――それから、頭の上で止まった。
「あんたが、寝坊助かい」
息が、止まった。
その呼び名を、師匠のほかの口から聞いたのは、初めてだった。
婆さんは、好き勝手な方角に跳ねた黒髪を、しげしげと眺めた。
「……なるほど」
隣で、ミレイアが、帳面を開く音がした。
――満陽祭まで九十日:寝坊助、と判明。
レオニスは、横目でそれを読んだ。
「……判明って、なんだよ」
「判明しましたので」
婆さんの目が、ミレイアに移った。
「あんたは?」
「監視役です」
「……そうかい」
それから、墓地の入り口に立つ、ランタンの少年に。
「昼間っから、灯りかい。油が、もったいないね」
「油では、ございませんので」
「……そうかい」
婆さんは、それ以上、何も訊かなかった。
丘の下の道で、男の子がひとり、石を蹴っていた。婆さんは、手招きでそれを呼んだ。
「峠の修道院まで、ひとっ走りしな。聖女さまに、お弟子さんが来たって伝えるんだよ」
男の子が、駄賃は、と訊くと、婆さんは鼻を鳴らした。
「蜜を、ひと舐め。帰ってきたらね」
男の子は、北の山へ続く道を、勢いよく駆けていった。
婆さんは、レオニスに向きなおった。
「お弟子さんが来たら知らせてくれって、頼まれててね。聖女さまに」
墓地の奥へ歩きながら、婆さんの目が、レオニスの肩の上で止まった。刃のない、古い鉄剣の上で。
「……置いてきたってのは、あんたのとこにかい」
何のことか、わからなかった。
婆さんは、前を向いたまま言った。
「最後に来たとき、剣を担いでなかったんだよ。どうしたいって訊いたら、置いてきた、とさ」
楡の木の下で目を覚ましたとき、頭の横に、この剣があった。
師匠は、剣を担がずに、ここまで歩いてきたのだ。
レオニスは、肩の剣を、担ぎなおした。
墓は、丘の端にあった。
墓標の列が途切れたあたりに、細い木の墓標が、ひとつだけ立っている。
何も、彫られていなかった。
婆さんが、墓標の頭を、手のひらで軽く叩いた。
「名前は彫るなって、言われてね。寝てるのを、起こされたくねえってさ」
レオニスは、あたりを見回した。
丘の端は、墓地じゅうで、いちばん陽が当たっていた。足もとの雪は、もう、すっかり消えている。北の山から吹き下ろす風も、ここまでは届かない。
昼寝には、もってこいの場所だった。
「……いい場所、取りやがって」
「日当たりがいいってね。昼寝でもする気かいって訊いたら、まあな、だとさ」
婆さんは、名のない墓標を見下ろして、鼻を鳴らした。
「パイプは、一緒に埋めたよ。寝るのに、要るだろうと思ってね」
それから、ぼそりと付け足した。
「最後の冬はね、蜂蜜のついでに、墓穴を買っていったよ。値切ろうとしたから、叱ってやった」
「……師匠らしいや」
婆さんは、墓標から目を上げずに続けた。
「寝坊助ってのは弟子だ、来るかどうかは、わからねえ――ってさ」
婆さんは、北の山のほうを見た。
「春になっても戻らなかったら、谷の入り口を見に来いって言われてね。……行ったら、あったかい雪の上で、寝てたよ」
少し、黙った。
「……よく寝てる顔だった」
風が、丘を渡っていった。
レオニスは、何も言わなかった。言えることが、何も見つからなかった。
婆さんは、巣箱のほうへ目をやった。
「町の若いのに手伝わせて、橇で下ろしてね。報せも、頼まれてたとおり、古い知りあいとやらに出しといたよ」
四年前の夏に届いた、短い報せを思い出した。
――北の麓の町で、パイプの爺さんが、雪の上で眠ったまま死んでいた。
あの報せは、ここから出たのだ。
婆さんが、北の山の、ひときわ白いあたりへ顎をしゃくった。
「あの谷も、今じゃ、教会が柵を立ててね。囚人どもに、雪を掘らせてるよ。……聖なる雪だか、なんだか知らないがね」
鍛冶屋の首に下がっていた、小さな硝子の瓶が、頭をよぎった。
婆さんは、小屋へ入って、壺をひとつ抱えて出てきた。
「爺さんのそばに、置いてあった。蓋をしてね」
押しつけるように、渡される。
ずしりと重かった。蓋を取ると、中の蜂蜜は、白く濁って固まっていた。
婆さんは、腰に手を当てた。
「冬の蜜だからね。じき固まるよって、言ってやったんだ。……湯につけりゃ、とけるとさ。あの爺さんの言いぐさだよ」
レオニスは、壺の中を覗きこんだ。
壺の内側の、固まった蜜の面より、匙ひとつぶんほど高いところに、乾いた蜜の跡が、薄く輪になって残っていた。
「……ひと匙、減ってる」
「あたしは、開けちゃいないよ」
「……最後に、舐めやがったな」
婆さんは、前掛けの下から、手紙を出した。
角が、すっかり丸くなっていた。四年のあいだ、ずっと、そこにしまってあったみたいに。
表に、汚い字で、ひと言だけ。
――寝坊助へ。
レオニスは、それを受け取った。
受け取ったまま、頭を下げた。
言葉が、出てこなかった。誰かが、あの人を雪の上から下ろして、この日だまりに埋めてくれた。四年、考えもしなかったその誰かが、目の前にいた。
婆さんは、背を向けて、巣箱のほうへ歩きだした。
「礼なんざ、いらないよ」
振り返りもしなかった。
「穴の代金は、きっちり、もらってるからね」
ミレイアは、墓標の列のあいだで足を止めた。そこから先へは、来なかった。
アルバンは、もっと下の、墓地の入り口に立っていた。春の陽の中で、白い火が、小さく灯っていた。
レオニスは、名のない墓標の隣に、腰を下ろした。
「……来たぜ、師匠」
墓標の頭に、手を置いた。陽を吸った木が、ほんのりと温かかった。
封を、切った。
汚い字だった。
紙切れの「剣は枕にしろ」と、同じ字だった。ひと文字ずつが、ばらばらの方角を向いて、ぐにゃりと寝そべっている。みみずが昼寝でもしているみたいな字だ、と思った。
字の濃さが、途中で、何度か変わっていた。
――寝坊助へ。
――起きたか。剣は、枕にしてるか。
「……してるよ」
声に、出ていた。
「四年な」
――てめえに言ってねえことが、いくつかある。字にしとく。読むかどうかは、てめえが決めろ。
――字が汚ねえのは、我慢しろ。三晩かかった。
三晩。
楡の木の下で目を覚ました日の、何日か前だった。夜中に、一度だけ、目を覚ましたことがある。焚き火の向こうで、師匠が、背中を丸めていた。膝の上で、何か書いていた。
――何してんだ、師匠。
寝ぼけて訊くと、背中を向けたまま、ひと言だけ返ってきた。
――寝てろ。
寝た。
――俺は、北の山奥の、夜のかあさまを拝む隠れ里で生まれた。
――兄貴がいた。血はつながってねえ。同じ師匠に、同じ鍋で育てられた。兄貴は村に残って、たったひとりの闇司祭になった。村の連中は、先生と呼んでた。
――兄貴には、ヘルミって娘がいた。泣き虫でな。シチューの蜂蜜が、ひと匙じゃ足りねえって泣く。冬ごとに村へ帰って、麓の町で蜂蜜を買っていくのが、俺の役目だった。
知ってるよ、師匠。
遠回りして、全部、知った。牢の面会室の扉ごしに。白い聖女の、ひと粒の涙の向こうに。――あんたが、一度も話さなかったことを。
――二十年あまり前の冬、村は、白い外套の騎士どもに焼かれた。左の肩の傷は、そのときのもんだ。てめえには、昔の喧嘩だと言ったがな。
「……喧嘩だって、言ってたくせに」
――兄貴は、泣いてる娘を泣きやませたくて、白くなった。顔のねえ獣になって、娘が笑ったら、雪になった。
――村の連中は、燃える家の前で、笑ってた。
――谷じゅうで泣いてたのは、俺ひとりだった。暗くて、誰にも見られなくて、よかった。
耳の奥で、別の声がした。
――暗くなってから、どこかで、ひとりだけ泣いてる奴がいたな。誰だったのかは、知らねえ。
面会室の扉ごしに聞いた、ボルグの声だった。
あれは、師匠だったのだ。
六年、隣で寝起きした。泣いたところなんか、一度も見たことがなかった。
――六年前の冬、ヘルミが王都の陽だまりの家って孤児院にいると、噂に聞いた。シチューを鍋ごと抱えて、迎えに行った。
六年前。
四年前の師匠の、六年前だ。――十年前の、冬。
手紙の中では、時が、四年前で止まっていた。
――門の向こうで、白い服を着て、笑ってた。ヘルミ、と呼んだら、首をかしげられた。
首をかしげる、その角度を、知っている気がした。
――行き場のなくなった鍋を抱えて歩いてたら、雪の路地裏に、ガキがふたり、うずくまってた。
――でかいほうに椀をやったら、そいつは、それを隣のちびの前に置きやがった。
覚えている。
ひび割れた唇の痛みまで、覚えている。
――鍋ごと食わせたあとで、でかいほうが、熱を出してぶっ倒れた。ちびには、すぐ戻るから、ここにいろと言った。
――熱がなかなか下がらなくて、宿で、朝までかかった。
――明け方に戻ったら、ちびはいなかった。教会のランタンが連れてったって、向かいの婆さんに聞いた。
指が、止まった。
教会の、ランタン。
冬の夜、白い法衣の司祭たちは、ランタンを提げて、路地裏を回った。凍えている子供を見つけては、白い家へ連れて帰る。陽だまりの家にいたころ、窓掛けの隙間から、その灯りを何度も見た。
あのちびは、白い部屋へ連れていかれたのだ。
自分が、裸足で逃げ出した、あの部屋へ。
――てめえには、言わなかった。言えば、てめえは、逃げてきた白い家へ、ひとりで取り返しに行っただろう。
――俺が、朝まで待たせた。あのちびに、すまねえ。
レオニスは、しばらく、動けなかった。
風が、丘を渡っていった。巣箱のあたりで、蜂の羽音が、小さく鳴っていた。
――叙階の夜、てめえの鏡が白く燃えたとき、怖かった。兄貴と、同じ色だった。
――よりにもよって、真っ白とはな。
あの夜、シチューの湯気の向こうで、師匠はそう言って、煙を吐いた。
強がりだったのだ。
胸の底で、白いものが、ひやりと身じろぎした気がした。
――だが、てめえは、椀を隣のちびの前に置く奴だ。だから、大丈夫だと思った。
――村の子守唄には、四行目がある。村の子供は知らねえ。村の闇司祭だけが、代々、預かってきた行だ。
――声にならねえから、書いとく。
――おいで おいで なけない こ
――一行目と、同じ節だ。
――三百年前、夜の番人って連中が、峠の向こうの白の奥にいる、泣けねえ子に、こいつを届けると誓った。村は、その生き残りが開いた。
夜の番人。
王都の地の底で見た、黒い扉が、頭をよぎった。びっしりと刻まれていた、古い文字。
――夜の番人ら、最後の欲をもて。
――兄貴は、いつか届けると言っていた。
――俺は、これから峠へ行く。たぶん、届かねえ。そんときは、兄貴の雪の上で、昼寝でもする。
――てめえに行けとは言わねえ。気が向いたら、でいい。
――あったかい雪の上で、寝てたよ。
婆さんの声が、耳の奥で、もう一度した。
書いたとおりに、したのだ。
届かなくて――兄貴の雪の上で、昼寝をしたのだ。
――剣のことだ。斬るためじゃねえ、断つためだ――ってのは、半分は、かっこつけだ。残りの半分は、枕にちょうどいい。
レオニスは、噴き出した。
「……かっこつけかよ」
――よく寝ろ。起きたら、腹いっぱい食え。
――オズワルド。
師匠が自分の名前を書いたのを、初めて見た。
ひどく、下手な字だった。
封の中に、もう一枚、紙が残っていた。
小さく、固く、畳んである。表に、同じ汚い字で、ひと言だけ。
――泣きてえときに読め。
レオニスは、笑った。
「……字、汚ねえな、師匠」
笑いながら、小さな紙を、開かずに外套の内側へしまった。
四年前の紙切れの、隣に。
――剣は枕にしろ。
――泣きてえときに読め。
汚い字が、ふたつ並んだ。
「……泣きたくなんか、ねえよ」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
墓標の列のあいだから、ミレイアが歩いてきた。
何も、言わなかった。レオニスの隣に、ひとりぶん、間をあけて、腰を下ろした。
陽が、西の尾根に傾いていた。
丘も、墓標も、ミレイアの銀色の髪も、同じ色に染まっていく。墓地の入り口の白い火だけが、染まらなかった。
藍と金を、溶かしあわせたような色。
夜になる、手前の色だった。
師匠の火と、同じ色だった。
◆
明くる日の昼、レオニスは、丘の端で昼寝をしていた。
名のない墓標の隣で、鉄剣を枕に。
日当たりは、申し分なかった。師匠の見立ては、正しかった。
「――レオにいちゃん!」
目を開けると、丘の下の道を、古びた箱馬車が下りてくるところだった。
白くない馬車だった。御者台で、白い髭の大柄な男が、手綱を取っている。岩を削ったような顎に、灰色の目。
ゴドフロワだった。
こちらに気づいて、小さく、顎を引いた。
馬車が止まりきる前に、扉が開いた。
亜麻色の髪を揺らして、娘がひとり、飛び降りてくる。転びそうになりながら、丘の坂を駆け上がってきた。
シエルだった。
息を弾ませて、レオニスの外套の袖を、両手で掴む。
「レオにいちゃん、きた」
「……ああ。来た」
「きて、って、かいたら、きた」
袖を掴む指に、ぎゅっと、力がこもっていた。
馬車から、もうひとり、降りてきた。
灰色の修道衣の、女だった。白金の髪を、首のうしろで、ひとつに束ねている。
ヘルミだった。
馬車のそばで待っていたアルバンが、深く頭を下げた。
「聖女さま」
ヘルミは、少し目を見開いて、それから、やわらかく目を細めた。
「……アルバンさん。聖都の」
知りあいらしかった。
丘を下りていったミレイアが、御者台の前で、深く頭を下げた。ゴドフロワは、灰色の目でそれを見下ろして――小さく、顎を引いた。
ヘルミは、ゆっくりと、坂を上ってきた。その胸もとで、何かが、陽を受けて光っていた。
細い紐の先に、指の先ほどの、硝子の小瓶。
中に、白いものが、ひとつまみ。
ヘルミは、レオニスの前まで来ると、小瓶に指を添えたまま、微笑んだ。
穏やかな、微笑みだった。
「……来てくださったのですね」
――峠は静かで、毎日、とても穏やかです。
手紙の几帳面な字が、頭の中で、ひとりでに並んだ。
ヘルミは、名のない墓標の前に、膝をついた。
目を閉じる。片方の手は、胸の小瓶を、握ったままだった。
シエルが、レオニスの袖を、くいと引いた。
「……おねえちゃん、ね」
小さな声だった。言いかけて、膝をついたヘルミの背中を見る。
それきり、口をつぐんだ。
袖を掴んだ指は、いつまでも離れなかった。
その夜、レオニスは、宿の屋根に上った。
物干し台の手すりを越えて、屋根の傾きに背中をあずける。北の山の黒い尾根の上に、星が、いくつも瞬いていた。
峠の向こうの空だけが、白かった。
乳を流したように、白く濁っている。そちらの空には、星がひとつもなかった。
喉の奥で、節が鳴った。
師匠の鼻歌だった。黒麦酒の鍋をかき回しながら、いつもなぞっていた節。言葉を乗せたことは、一度もなかった。
一行目。
――ねんね ねんね ひが しずむ
二行目。
――よるの かあさま ひを だいて
三行目。
――ないても いいよ よるの なか
それから、一行目と、同じ節を、もういちど。
師匠の鼻歌は、いつも、そうだった。三行目まで行くと、頭に戻って、それで終わる。そういう歌なのだと、思っていた。
鼻歌が、止まった。
……戻ってたんじゃ、なかった。
四行目だったのだ。
もういちど、節をなぞった。今度は、四行目に、言葉を乗せようとした。
声には、ならなかった。
節だけが、喉の奥でかすかに鳴って、それきりだった。
師匠も、こうだったのだろうか。
背後で、梯子がきしんだ。
振り返ると、物干し台の端に、灰色の修道衣が立っていた。
ヘルミだった。
「……父の、歌ですね」
夜風に、白金の髪が、少しほつれていた。
「下の部屋まで、聞こえました」
レオニスは、身を起こした。
「……悪い。起こしたか」
「いいえ。夜の祈りを、しておりましたので」
ヘルミは、物干し台の手すりのそばに、腰を下ろした。修道衣の裾を、きちんと膝の下に折りこむ。
その目が、レオニスの外套の胸もとで止まった。
「オズワルドさまの、お手紙を……」
少し、ためらってから、言った。
「読ませていただいても、よろしいですか」
レオニスは、すぐには答えなかった。
それから、外套の内側から、手紙を出した。
小さな紙は、出さなかった。
指先に、火を灯した。
藍と金を溶かしあわせたような、夕暮れの色の火だった。小さな灯りが、汚い字を、ぼんやりと照らした。
ヘルミは、手紙を両手で受け取って、読みはじめた。
レオニスは、その横顔を見ていた。
村のこと。兄貴のこと。ひと匙じゃ足りないと泣いた、泣き虫の娘のこと。
読み進めるあいだ、ヘルミの片方の手は、胸の小瓶を握っていた。
頬は、乾いたままだった。
冬の王都で、別れぎわに師匠の蜂蜜の話を聞いたとき、この人は、ひと粒、涙をこぼした。拭いもしなかった。
今は、微笑んでいた。
「……私は、ほんとうに、泣き虫だったのですね」
やさしい声だった。昔の、知らない娘の話でもするような。
手紙をめくる指が、止まった。
ヘルミは、その一行を、声に出さずに、唇だけでなぞった。
――おいで おいで なけない こ
それから、小さく、首をかしげた。
「……泣けない、子?」
――ヘルミ、と呼んだら、首をかしげられた。
きのう、丘の上で読んだ汚い字が、目の前に浮かんだ。
指先の火が、小さく揺れた。
ヘルミは、顔を上げて、北の空を見た。
峠の向こうの、星のない白い空を。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、手紙を丁寧に畳んで、レオニスに返した。
「ありがとうございました」
立ち上がって、修道衣の裾を払う。
「おやすみなさい、レオニスさん」
灰色の背中が、梯子の下へ消えていった。
レオニスは、指先の火を消した。
宿の向かいの軒下に、白い火がひとつ、灯っていた。
灰色の髪の少年が、ランタンを提げて立っている。眠らずに。ひと晩じゅう、そうしているつもりなのだろう。
――教会のランタンが連れてったって、向かいの婆さんに聞いた。
汚い字が、また、目の前に浮かんだ。
アルバンが、顔を上げた。
目が、合った。
白い火に照らされた顔が、硬く、整った微笑みを浮かべた。
それから、その目が、ゆっくりと伏せられた。
レオニスは、何も言わなかった。
北の空を、見上げた。
尾根の上には、星が、いくつも瞬いていた。
峠の向こうの空だけが、白いままだった。




