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光の闇司祭③ 白夜の教皇  作者: parupuntist


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3/10

第二章 寝坊助へ

 その朝、レオニスは、誰にも起こされずに目を覚ました。


 屋根裏の小窓の外は、まだ青かった。夜が明けきる、少し手前の色だ。


 寝坊助にしては、上出来だった。


 枕もとの鉄剣を取って、肩に担いだ。まだ人通りのない川沿いの道を、坂のほうへ歩いた。


 坂の途中の現場には、もう、ガルドが来ていた。大工たちより先に、ひとりで材木を担いでいる。足首の鎖が、朝の冷えた空気の中で、じゃらりと鳴った。牢番は、今朝も積んだ板にもたれて、口を開けて眠っていた。


 レオニスは、材木の山には登らなかった。


 下から、その背中に声をかけた。


「ガルド」


 ガルドが、角材を担いだまま振り返った。


 朝の早いレオニスを見るのは、初めてなのだろう。鋼色の目が、わずかに細くなった。


 レオニスは、その目を、まっすぐに見返した。


「北へ行く」


 ガルドは、しばらく黙っていた。


 何をしに、とは訊かなかった。


「……行ってこい」


 それだけ言って、角材を担ぎなおす。坂を上りかけて、肩ごしに付け足した。


「土産は、要らねえ」


「誰が買ってくるかよ」


 ガルドは鼻を鳴らした。二、三歩、上ってから――足を止めた。今度は、振り返らなかった。


「……ボルグに、よろしくな」


 北の鉱山には、黒狼(こくろう)の里で鍋を振っていた、片腕の男がいる。


「……おう」


 組み上がった梁の上で、白墨の名前が、朝日を受けはじめていた。


 パン屋に戻ると、戸口の脇に、旅の荷がひとつ、まとめてあった。


 レオニスの荷では、なかった。


 作業台では、ミレイアが、粉だらけの手で生地を丸めていた。夜明け前の仕込みは、もう終わりかけている。


 レオニスは、戸口の荷を、顎でしゃくった。


「……なんで、お前まで、荷物まとめてんだよ」


「監視役ですので」


「まだ、何も言ってねえだろ」


「顔に、書いてあります」


 ミレイアは、生地から目を上げなかった。


 竈の前から、ユナが立ってきた。両手で、布の包みを抱えている。焼きたての丸パンが、いくつも透けて見えた。


 ユナは、包みを、レオニスの胸に押しつけた。


「……また、来て――」


 言いかけて、口をつぐんだ。


 冬に、伯爵家へ移る夜明け前にも、この子は戸口で、同じことを言った。


 ユナは、唇を噛んだ。それから、言いなおした。


「……帰ってきてよ」


 レオニスは、包みを受け取った。まだ、温かかった。


「……おう」


 焼き場の奥で、親父が、こちらに背を向けたまま、天板を引き出していた。


「五人前、焼いといてやる」


 冬至の晩にも、この親父は、同じことを言った。屋根裏で眠りこけていた二日のあいだも、毎朝、五人前を焼いて待っていたらしい。


 レオニスは、その背中に、片手を上げた。


 北の門の前に、白い火が灯っていた。


 朝の光の中で、真鍮の覆いを開けたランタンを提げて、灰色の髪の少年が立っている。


 アルバンは、丁寧に頭を下げた。


「お供いたします。見届けるのが、私の務めですので」


 レオニスは、天を仰いだ。


「……どこまで、ついてくる気だ」


「満陽祭の日まで。どこまででも」


 ミレイアが、荷を背負いなおして、レオニスの隣に並んだ。


「監視役は、私です」


「存じております」


 にこやかな声だった。


 レオニスは、鉄剣を担ぎなおして、歩きだした。


 北へ向かう街道を、三人が行く。寝癖の頭がひとつ。肩で切りそろえた銀色の髪がひとつ。それから、十歩うしろに、朝だというのに灯ったランタンがひとつ。


 四年前、師匠が、ひとりで向かった方角だった。


◆


 北への道は、十四日かかった。


 レオニスは、道ばたに木が一本あれば、その下で寝た。


 王都を発って四日目の昼も、そうだった。街道沿いの土手の、芽吹きかけた木の下で、鉄剣を枕に、仰向けに寝転がっている。寝癖が、春の風に揺れていた。


 ミレイアは、少し離れた石に腰かけて、革表紙の帳面を開いた。


 ――満陽祭まで百四日:北へ発つ。


 ――満陽祭まで百三日:昼寝。


 ――満陽祭まで百二日:昼寝。


 ペン先を、下ろす。


 ――満陽祭まで百一日:昼寝。


 ほかに、書くことがなかった。


 十歩向こうの切り株に、アルバンが腰かけていた。ランタンを足もとに置いて、膝の上の、白い革の帳面に、何か書きつけている。ペンが、やけに長く動いていた。


 ミレイアは、帳面を閉じて、そちらへ歩いていった。


「何を、書いているのですか」


 アルバンは顔を上げて、にこやかに帳面を差し出した。


「審問録です。ご覧になりますか」


 几帳面な字が、きっちりと並んでいた。


 ――昼寝、二刻(ふたとき)と四半刻(しはんとき)。寝言、二回。『もう、食えねえ』『あと、半刻(はんとき)』。


 ミレイアは、その一行を、じっと見た。


 それから、自分の帳面の一行を見た。


 ――昼寝。


「……正確ですね」


 声が、少しだけ悔しそうになったのが、自分でもわかった。冬に、人相書きの「寝癖」を見て、同じ言葉を書いたことがある。


 アルバンは、にこやかに帳面を閉じた。


「審問録ですので」


 木の下から、寝ぼけた声がした。


「……人の寝言、勝手に書いてんじゃねえよ」


 アルバンが、ペンを取りなおした。


「起きていらしたのですか」


「今、起きた」


「では、寝言は二回で確定です」


 レオニスは、何か言い返そうとして、そのまま寝返りを打った。


 アルバンは、また、何か書きつけた。寝返り、一回――と書いたのだろう、とミレイアは思った。


 アルバンは、ほとんど眠らなかった。


 街道の宿でも、野宿の焚き火のそばでも、夜更けにふと目を覚ますと、いつも白い火が灯っていた。覆いを開けたまま、ランタンは、ひと晩じゅう消えなかった。


 五日目の晩、ミレイアは、焚き火の向こうに声をかけた。


「……眠らないのですか」


 アルバンは、ランタンの火から目を上げた。


「あまり、眠らないのです」


「灯りも、消さないのですね」


「消しません」


 少し間をおいて、硬く、整った微笑みが浮かんだ。


「暗いのは、好きではありませんので」


 ミレイアは、胸の聖印に指をやった。


 冷たかった。


 浄化の場では、火にかざした銅貨のように熱くなった。白い礼拝堂の小瓶のそばでは、ぬるかった。


 すぐそこに白い火が灯っているのに、白銀の太陽は、夜の冷たさのままだった。


 ――白いのに。


 焚き火の向こうで、レオニスは、外套を頭からかぶって寝ていた。白い火に、背を向けて。


 パン屋の隅の卓で、泣いている鍛冶屋にかぶせた、あの外套だった。ひとりぶんの暗がりの中から、のんきな寝息が聞こえていた。


 北の山は、まだ見えない。その山の奥の鉱山に、片腕の男がいる。


 会ったら、どうするのか。答えは、まだ出ていなかった。


 七日目の晩、宿場の宿で、騒ぎが起きた。


 帳場の銭箱から、銀貨が消えたのだ。


 晩飯の卓は、たちまち騒がしくなった。宿の亭主が、泊まり客の顔をひとりずつ睨みつけ、泊まり客は、互いの荷を疑わしげに見交わした。旅の商人が、自分の財布を抱えこんだ。誰かが、番所を呼べ、と怒鳴った。


 アルバンが、椅子から立ち上がった。


 ランタンを、高く掲げる。


 光が、満ちた。


 冷たい光だった。卓の下の影も、梁の影も、人々の足もとの影も、ひと息に消えた。誰もが、まぶしそうに目を細めた。


 厨房の戸口に、下働きの若者が立っていた。


 皿を抱えたまま、動けずにいた。


 アルバンは、静かに言った。


「……隠すことは、ありません」


 若者の唇が、震えた。


「……おふくろの、薬代が」


 自分の声に、若者は目を見開いた。止めようとするように、片手で口を押さえる。その指のあいだから、言葉がこぼれた。


「冬じゅう、咳が止まらなくて……今月の分が、どうしても、足りなくて……」


 皿が、床で割れた。


 食堂が、静まりかえった。


 それから、誰かが手を叩いた。


「さすがは、聖都の審問官さまだ!」


 拍手が、広がった。亭主が、若者の襟首を掴んだ。泊まり客たちが、口々にアルバンを褒めそやした。


 若者は、割れた皿の上に膝をついて、声を上げて泣きだした。


 アルバンは、ランタンを下ろさなかった。


 泣き崩れる若者の顔を、影ひとつない光が、隅々まで照らしていた。


 役に立つ光だ、とミレイアは思った。


 誰も、殴られなかった。誰も、疑われたまま夜を明かさずに済んだ。盗んだ者が、盗んだと言った。剣を抜くより、ずっといい。


 それなのに。


 照らされた若者の顔から、目を逸らしたくて、たまらなかった。


 隣で、レオニスは、何も言わなかった。


 卓に肘をついて、若者を見ていた。


 匙(さじ)が、止まっていた。


 スープの椀(わん)は、まだ、半分も減っていなかった。


 その夜更け、ミレイアは、なかなか寝つけなかった。


 窓を細く開けると、宿の裏庭が見えた。


 宿の表のほうが、ぼんやりと白い。通りに面した、アルバンの部屋の窓だろう。裏庭までは、その光も届いていなかった。


 いちばん奥の暗がり――納屋の戸口の石段に、影がふたつ、並んで座っていた。


 ひとつは、膝を抱えて、肩を震わせていた。暇を出された若者だった。番所に突き出すのだけは勘弁してやる、と亭主が言っていた。


 もうひとつは、寝癖の頭だった。


 声は、聞こえてこなかった。何も言っていないのだろう。


 寝癖の頭が、懐から何かを取り出した。丸パンだった。王都を発つ朝、ユナが押しつけた包みの、最後のひとつ。もう、すっかり硬くなっているはずだった。


 まんなかから、ふたつに割る。


 片方を、隣へ差し出した。


 ミレイアの耳の奥で、シエルの声がした。


 ――はんぶんこ。


 冬、ヘルミと北へ発つ朝に、シエルは、そう言ってパンを割っていた。レオにいちゃんが、おしえてくれたんだよ、と。


 若者は、差し出されたものを、長いこと見ていた。


 それから、受け取った。


 ふたつの影は、それきり、動かなかった。ひとつは泣いていて、もうひとつは、硬いパンをかじっていた。


 照らされたあとの暗がりで、あの人は、ただ、隣に座っていた。


 ミレイアは、窓を閉めた。


 罪状帳を開きかけて――やめた。


 明くる朝、若者の姿は、もうどこにもなかった。


 朝飯の卓の端で、宿の小さな女の子が、パン籠を見上げていた。亭主の末の子だった。


 アルバンは、自分の皿から丸パンを取って、まず、その子の前に置いた。


 何も、言わなかった。


 女の子は、目をまるくして、パンを抱えて厨房へ駆けていった。


 王都のパン屋の戸口でも、この人は、裸足の子供の前に、パンを置いた。この人は、小さい子を先にする。


 アルバンは、向かいの卓に目をやった。


 レオニスが、ゆうべの分を取り返すように、三つ目の丸パンにかじりついていた。


 その寝癖頭を見るアルバンの目が、ときどき、ひどく遠くなることに、ミレイアは気づいていた。


 何を見ているのかは、わからなかった。


 胸の聖印は、冷たいままだった。


◆


 十四日、歩いた。


 北の山が、空の半分を塞ぐほど近くなったころ、街道の先に、町が見えた。


 北の山の、いちばん手前の町だった。


 町はずれの丘の上に、墓地があった。


 溶けかけの雪が、墓標のあいだに、まだらに残っている。その合間に、藁(わら)で包んだ箱が、いくつも並んでいた。


 陽だまりの中を、小さな羽音が行き来していた。


 蜂だった。


 巣箱の前に、小柄な婆さんがしゃがみこんでいた。綿入れを着ぶくれて、素手で、藁の結び目を直している。手の甲に蜂がとまっても、眉ひとつ動かさなかった。


 婆さんが、顔を上げた。


 皺(しわ)の奥の目が、レオニスの顔を見て――それから、頭の上で止まった。


「あんたが、寝坊助かい」


 息が、止まった。


 その呼び名を、師匠のほかの口から聞いたのは、初めてだった。


 婆さんは、好き勝手な方角に跳ねた黒髪を、しげしげと眺めた。


「……なるほど」


 隣で、ミレイアが、帳面を開く音がした。


 ――満陽祭まで九十日:寝坊助、と判明。


 レオニスは、横目でそれを読んだ。


「……判明って、なんだよ」


「判明しましたので」


 婆さんの目が、ミレイアに移った。


「あんたは?」


「監視役です」


「……そうかい」


 それから、墓地の入り口に立つ、ランタンの少年に。


「昼間っから、灯りかい。油が、もったいないね」


「油では、ございませんので」


「……そうかい」


 婆さんは、それ以上、何も訊かなかった。


 丘の下の道で、男の子がひとり、石を蹴っていた。婆さんは、手招きでそれを呼んだ。


「峠の修道院まで、ひとっ走りしな。聖女さまに、お弟子さんが来たって伝えるんだよ」


 男の子が、駄賃は、と訊くと、婆さんは鼻を鳴らした。


「蜜を、ひと舐め。帰ってきたらね」


 男の子は、北の山へ続く道を、勢いよく駆けていった。


 婆さんは、レオニスに向きなおった。


「お弟子さんが来たら知らせてくれって、頼まれててね。聖女さまに」


 墓地の奥へ歩きながら、婆さんの目が、レオニスの肩の上で止まった。刃のない、古い鉄剣の上で。


「……置いてきたってのは、あんたのとこにかい」


 何のことか、わからなかった。


 婆さんは、前を向いたまま言った。


「最後に来たとき、剣を担いでなかったんだよ。どうしたいって訊いたら、置いてきた、とさ」


 楡の木の下で目を覚ましたとき、頭の横に、この剣があった。


 師匠は、剣を担がずに、ここまで歩いてきたのだ。


 レオニスは、肩の剣を、担ぎなおした。


 墓は、丘の端にあった。


 墓標の列が途切れたあたりに、細い木の墓標が、ひとつだけ立っている。


 何も、彫られていなかった。


 婆さんが、墓標の頭を、手のひらで軽く叩いた。


「名前は彫るなって、言われてね。寝てるのを、起こされたくねえってさ」


 レオニスは、あたりを見回した。


 丘の端は、墓地じゅうで、いちばん陽が当たっていた。足もとの雪は、もう、すっかり消えている。北の山から吹き下ろす風も、ここまでは届かない。


 昼寝には、もってこいの場所だった。


「……いい場所、取りやがって」


「日当たりがいいってね。昼寝でもする気かいって訊いたら、まあな、だとさ」


 婆さんは、名のない墓標を見下ろして、鼻を鳴らした。


「パイプは、一緒に埋めたよ。寝るのに、要るだろうと思ってね」


 それから、ぼそりと付け足した。


「最後の冬はね、蜂蜜のついでに、墓穴を買っていったよ。値切ろうとしたから、叱ってやった」


「……師匠らしいや」


 婆さんは、墓標から目を上げずに続けた。


「寝坊助ってのは弟子だ、来るかどうかは、わからねえ――ってさ」


 婆さんは、北の山のほうを見た。


「春になっても戻らなかったら、谷の入り口を見に来いって言われてね。……行ったら、あったかい雪の上で、寝てたよ」


 少し、黙った。


「……よく寝てる顔だった」


 風が、丘を渡っていった。


 レオニスは、何も言わなかった。言えることが、何も見つからなかった。


 婆さんは、巣箱のほうへ目をやった。


「町の若いのに手伝わせて、橇(そり)で下ろしてね。報せも、頼まれてたとおり、古い知りあいとやらに出しといたよ」


 四年前の夏に届いた、短い報せを思い出した。


 ――北の麓の町で、パイプの爺さんが、雪の上で眠ったまま死んでいた。


 あの報せは、ここから出たのだ。


 婆さんが、北の山の、ひときわ白いあたりへ顎をしゃくった。


「あの谷も、今じゃ、教会が柵を立ててね。囚人どもに、雪を掘らせてるよ。……聖なる雪だか、なんだか知らないがね」


 鍛冶屋の首に下がっていた、小さな硝子の瓶が、頭をよぎった。


 婆さんは、小屋へ入って、壺をひとつ抱えて出てきた。


「爺さんのそばに、置いてあった。蓋をしてね」


 押しつけるように、渡される。


 ずしりと重かった。蓋を取ると、中の蜂蜜は、白く濁って固まっていた。


 婆さんは、腰に手を当てた。


「冬の蜜だからね。じき固まるよって、言ってやったんだ。……湯につけりゃ、とけるとさ。あの爺さんの言いぐさだよ」


 レオニスは、壺の中を覗きこんだ。


 壺の内側の、固まった蜜の面より、匙ひとつぶんほど高いところに、乾いた蜜の跡が、薄く輪になって残っていた。


「……ひと匙、減ってる」


「あたしは、開けちゃいないよ」


「……最後に、舐めやがったな」


 婆さんは、前掛けの下から、手紙を出した。


 角が、すっかり丸くなっていた。四年のあいだ、ずっと、そこにしまってあったみたいに。


 表に、汚い字で、ひと言だけ。


 ――寝坊助へ。


 レオニスは、それを受け取った。


 受け取ったまま、頭を下げた。


 言葉が、出てこなかった。誰かが、あの人を雪の上から下ろして、この日だまりに埋めてくれた。四年、考えもしなかったその誰かが、目の前にいた。


 婆さんは、背を向けて、巣箱のほうへ歩きだした。


「礼なんざ、いらないよ」


 振り返りもしなかった。


「穴の代金は、きっちり、もらってるからね」


 ミレイアは、墓標の列のあいだで足を止めた。そこから先へは、来なかった。


 アルバンは、もっと下の、墓地の入り口に立っていた。春の陽の中で、白い火が、小さく灯っていた。


 レオニスは、名のない墓標の隣に、腰を下ろした。


「……来たぜ、師匠」


 墓標の頭に、手を置いた。陽を吸った木が、ほんのりと温かかった。


 封を、切った。


 汚い字だった。


 紙切れの「剣は枕にしろ」と、同じ字だった。ひと文字ずつが、ばらばらの方角を向いて、ぐにゃりと寝そべっている。みみずが昼寝でもしているみたいな字だ、と思った。


 字の濃さが、途中で、何度か変わっていた。


 ――寝坊助へ。


 ――起きたか。剣は、枕にしてるか。


「……してるよ」


 声に、出ていた。


「四年な」


 ――てめえに言ってねえことが、いくつかある。字にしとく。読むかどうかは、てめえが決めろ。


 ――字が汚ねえのは、我慢しろ。三晩かかった。


 三晩。


 楡の木の下で目を覚ました日の、何日か前だった。夜中に、一度だけ、目を覚ましたことがある。焚き火の向こうで、師匠が、背中を丸めていた。膝の上で、何か書いていた。


 ――何してんだ、師匠。


 寝ぼけて訊くと、背中を向けたまま、ひと言だけ返ってきた。


 ――寝てろ。


 寝た。


 ――俺は、北の山奥の、夜のかあさまを拝む隠れ里で生まれた。


 ――兄貴がいた。血はつながってねえ。同じ師匠に、同じ鍋で育てられた。兄貴は村に残って、たったひとりの闇司祭になった。村の連中は、先生と呼んでた。


 ――兄貴には、ヘルミって娘がいた。泣き虫でな。シチューの蜂蜜が、ひと匙じゃ足りねえって泣く。冬ごとに村へ帰って、麓の町で蜂蜜を買っていくのが、俺の役目だった。


 知ってるよ、師匠。


 遠回りして、全部、知った。牢の面会室の扉ごしに。白い聖女の、ひと粒の涙の向こうに。――あんたが、一度も話さなかったことを。


 ――二十年あまり前の冬、村は、白い外套の騎士どもに焼かれた。左の肩の傷は、そのときのもんだ。てめえには、昔の喧嘩だと言ったがな。


「……喧嘩だって、言ってたくせに」


 ――兄貴は、泣いてる娘を泣きやませたくて、白くなった。顔のねえ獣になって、娘が笑ったら、雪になった。


 ――村の連中は、燃える家の前で、笑ってた。


 ――谷じゅうで泣いてたのは、俺ひとりだった。暗くて、誰にも見られなくて、よかった。


 耳の奥で、別の声がした。


 ――暗くなってから、どこかで、ひとりだけ泣いてる奴がいたな。誰だったのかは、知らねえ。


 面会室の扉ごしに聞いた、ボルグの声だった。


 あれは、師匠だったのだ。


 六年、隣で寝起きした。泣いたところなんか、一度も見たことがなかった。


 ――六年前の冬、ヘルミが王都の陽だまりの家って孤児院にいると、噂に聞いた。シチューを鍋ごと抱えて、迎えに行った。


 六年前。


 四年前の師匠の、六年前だ。――十年前の、冬。


 手紙の中では、時が、四年前で止まっていた。


 ――門の向こうで、白い服を着て、笑ってた。ヘルミ、と呼んだら、首をかしげられた。


 首をかしげる、その角度を、知っている気がした。


 ――行き場のなくなった鍋を抱えて歩いてたら、雪の路地裏に、ガキがふたり、うずくまってた。


 ――でかいほうに椀をやったら、そいつは、それを隣のちびの前に置きやがった。


 覚えている。


 ひび割れた唇の痛みまで、覚えている。


 ――鍋ごと食わせたあとで、でかいほうが、熱を出してぶっ倒れた。ちびには、すぐ戻るから、ここにいろと言った。


 ――熱がなかなか下がらなくて、宿で、朝までかかった。


 ――明け方に戻ったら、ちびはいなかった。教会のランタンが連れてったって、向かいの婆さんに聞いた。


 指が、止まった。


 教会の、ランタン。


 冬の夜、白い法衣の司祭たちは、ランタンを提げて、路地裏を回った。凍えている子供を見つけては、白い家へ連れて帰る。陽だまりの家にいたころ、窓掛けの隙間から、その灯りを何度も見た。


 あのちびは、白い部屋へ連れていかれたのだ。


 自分が、裸足で逃げ出した、あの部屋へ。


 ――てめえには、言わなかった。言えば、てめえは、逃げてきた白い家へ、ひとりで取り返しに行っただろう。


 ――俺が、朝まで待たせた。あのちびに、すまねえ。


 レオニスは、しばらく、動けなかった。


 風が、丘を渡っていった。巣箱のあたりで、蜂の羽音が、小さく鳴っていた。


 ――叙階の夜、てめえの鏡が白く燃えたとき、怖かった。兄貴と、同じ色だった。


 ――よりにもよって、真っ白とはな。


 あの夜、シチューの湯気の向こうで、師匠はそう言って、煙を吐いた。


 強がりだったのだ。


 胸の底で、白いものが、ひやりと身じろぎした気がした。


 ――だが、てめえは、椀を隣のちびの前に置く奴だ。だから、大丈夫だと思った。


 ――村の子守唄には、四行目がある。村の子供は知らねえ。村の闇司祭だけが、代々、預かってきた行だ。


 ――声にならねえから、書いとく。


 ――おいで おいで なけない こ


 ――一行目と、同じ節だ。


 ――三百年前、夜の番人って連中が、峠の向こうの白の奥にいる、泣けねえ子に、こいつを届けると誓った。村は、その生き残りが開いた。


 夜の番人。


 王都の地の底で見た、黒い扉が、頭をよぎった。びっしりと刻まれていた、古い文字。


 ――夜の番人ら、最後の欲をもて。


 ――兄貴は、いつか届けると言っていた。


 ――俺は、これから峠へ行く。たぶん、届かねえ。そんときは、兄貴の雪の上で、昼寝でもする。


 ――てめえに行けとは言わねえ。気が向いたら、でいい。


 ――あったかい雪の上で、寝てたよ。


 婆さんの声が、耳の奥で、もう一度した。


 書いたとおりに、したのだ。


 届かなくて――兄貴の雪の上で、昼寝をしたのだ。


 ――剣のことだ。斬るためじゃねえ、断つためだ――ってのは、半分は、かっこつけだ。残りの半分は、枕にちょうどいい。


 レオニスは、噴き出した。


「……かっこつけかよ」


 ――よく寝ろ。起きたら、腹いっぱい食え。


 ――オズワルド。


 師匠が自分の名前を書いたのを、初めて見た。


 ひどく、下手な字だった。


 封の中に、もう一枚、紙が残っていた。


 小さく、固く、畳んである。表に、同じ汚い字で、ひと言だけ。


 ――泣きてえときに読め。


 レオニスは、笑った。


「……字、汚ねえな、師匠」


 笑いながら、小さな紙を、開かずに外套の内側へしまった。


 四年前の紙切れの、隣に。


 ――剣は枕にしろ。


 ――泣きてえときに読め。


 汚い字が、ふたつ並んだ。


「……泣きたくなんか、ねえよ」


 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。


 墓標の列のあいだから、ミレイアが歩いてきた。


 何も、言わなかった。レオニスの隣に、ひとりぶん、間をあけて、腰を下ろした。


 陽が、西の尾根に傾いていた。


 丘も、墓標も、ミレイアの銀色の髪も、同じ色に染まっていく。墓地の入り口の白い火だけが、染まらなかった。


 藍と金を、溶かしあわせたような色。


 夜になる、手前の色だった。


 師匠の火と、同じ色だった。


◆


 明くる日の昼、レオニスは、丘の端で昼寝をしていた。


 名のない墓標の隣で、鉄剣を枕に。


 日当たりは、申し分なかった。師匠の見立ては、正しかった。


「――レオにいちゃん!」


 目を開けると、丘の下の道を、古びた箱馬車が下りてくるところだった。


 白くない馬車だった。御者台で、白い髭の大柄な男が、手綱を取っている。岩を削ったような顎に、灰色の目。


 ゴドフロワだった。


 こちらに気づいて、小さく、顎を引いた。


 馬車が止まりきる前に、扉が開いた。


 亜麻色の髪を揺らして、娘がひとり、飛び降りてくる。転びそうになりながら、丘の坂を駆け上がってきた。


 シエルだった。


 息を弾ませて、レオニスの外套の袖を、両手で掴む。


「レオにいちゃん、きた」


「……ああ。来た」


「きて、って、かいたら、きた」


 袖を掴む指に、ぎゅっと、力がこもっていた。


 馬車から、もうひとり、降りてきた。


 灰色の修道衣の、女だった。白金の髪を、首のうしろで、ひとつに束ねている。


 ヘルミだった。


 馬車のそばで待っていたアルバンが、深く頭を下げた。


「聖女さま」


 ヘルミは、少し目を見開いて、それから、やわらかく目を細めた。


「……アルバンさん。聖都の」


 知りあいらしかった。


 丘を下りていったミレイアが、御者台の前で、深く頭を下げた。ゴドフロワは、灰色の目でそれを見下ろして――小さく、顎を引いた。


 ヘルミは、ゆっくりと、坂を上ってきた。その胸もとで、何かが、陽を受けて光っていた。


 細い紐の先に、指の先ほどの、硝子の小瓶。


 中に、白いものが、ひとつまみ。


 ヘルミは、レオニスの前まで来ると、小瓶に指を添えたまま、微笑んだ。


 穏やかな、微笑みだった。


「……来てくださったのですね」


 ――峠は静かで、毎日、とても穏やかです。


 手紙の几帳面な字が、頭の中で、ひとりでに並んだ。


 ヘルミは、名のない墓標の前に、膝をついた。


 目を閉じる。片方の手は、胸の小瓶を、握ったままだった。


 シエルが、レオニスの袖を、くいと引いた。


「……おねえちゃん、ね」


 小さな声だった。言いかけて、膝をついたヘルミの背中を見る。


 それきり、口をつぐんだ。


 袖を掴んだ指は、いつまでも離れなかった。


 その夜、レオニスは、宿の屋根に上った。


 物干し台の手すりを越えて、屋根の傾きに背中をあずける。北の山の黒い尾根の上に、星が、いくつも瞬いていた。


 峠の向こうの空だけが、白かった。


 乳を流したように、白く濁っている。そちらの空には、星がひとつもなかった。


 喉の奥で、節が鳴った。


 師匠の鼻歌だった。黒麦酒(ビール)の鍋をかき回しながら、いつもなぞっていた節。言葉を乗せたことは、一度もなかった。


 一行目。


 ――ねんね ねんね ひが しずむ


 二行目。


 ――よるの かあさま ひを だいて


 三行目。


 ――ないても いいよ よるの なか


 それから、一行目と、同じ節を、もういちど。


 師匠の鼻歌は、いつも、そうだった。三行目まで行くと、頭に戻って、それで終わる。そういう歌なのだと、思っていた。


 鼻歌が、止まった。


 ……戻ってたんじゃ、なかった。


 四行目だったのだ。


 もういちど、節をなぞった。今度は、四行目に、言葉を乗せようとした。


 声には、ならなかった。


 節だけが、喉の奥でかすかに鳴って、それきりだった。


 師匠も、こうだったのだろうか。


 背後で、梯子がきしんだ。


 振り返ると、物干し台の端に、灰色の修道衣が立っていた。


 ヘルミだった。


「……父の、歌ですね」


 夜風に、白金の髪が、少しほつれていた。


「下の部屋まで、聞こえました」


 レオニスは、身を起こした。


「……悪い。起こしたか」


「いいえ。夜の祈りを、しておりましたので」


 ヘルミは、物干し台の手すりのそばに、腰を下ろした。修道衣の裾を、きちんと膝の下に折りこむ。


 その目が、レオニスの外套の胸もとで止まった。


「オズワルドさまの、お手紙を……」


 少し、ためらってから、言った。


「読ませていただいても、よろしいですか」


 レオニスは、すぐには答えなかった。


 それから、外套の内側から、手紙を出した。


 小さな紙は、出さなかった。


 指先に、火を灯した。


 藍と金を溶かしあわせたような、夕暮れの色の火だった。小さな灯りが、汚い字を、ぼんやりと照らした。


 ヘルミは、手紙を両手で受け取って、読みはじめた。


 レオニスは、その横顔を見ていた。


 村のこと。兄貴のこと。ひと匙じゃ足りないと泣いた、泣き虫の娘のこと。


 読み進めるあいだ、ヘルミの片方の手は、胸の小瓶を握っていた。


 頬は、乾いたままだった。


 冬の王都で、別れぎわに師匠の蜂蜜の話を聞いたとき、この人は、ひと粒、涙をこぼした。拭いもしなかった。


 今は、微笑んでいた。


「……私は、ほんとうに、泣き虫だったのですね」


 やさしい声だった。昔の、知らない娘の話でもするような。


 手紙をめくる指が、止まった。


 ヘルミは、その一行を、声に出さずに、唇だけでなぞった。


 ――おいで おいで なけない こ


 それから、小さく、首をかしげた。


「……泣けない、子?」


 ――ヘルミ、と呼んだら、首をかしげられた。


 きのう、丘の上で読んだ汚い字が、目の前に浮かんだ。


 指先の火が、小さく揺れた。


 ヘルミは、顔を上げて、北の空を見た。


 峠の向こうの、星のない白い空を。


 しばらく、何も言わなかった。


 やがて、手紙を丁寧に畳んで、レオニスに返した。


「ありがとうございました」


 立ち上がって、修道衣の裾を払う。


「おやすみなさい、レオニスさん」


 灰色の背中が、梯子の下へ消えていった。


 レオニスは、指先の火を消した。


 宿の向かいの軒下に、白い火がひとつ、灯っていた。


 灰色の髪の少年が、ランタンを提げて立っている。眠らずに。ひと晩じゅう、そうしているつもりなのだろう。


 ――教会のランタンが連れてったって、向かいの婆さんに聞いた。


 汚い字が、また、目の前に浮かんだ。


 アルバンが、顔を上げた。


 目が、合った。


 白い火に照らされた顔が、硬く、整った微笑みを浮かべた。


 それから、その目が、ゆっくりと伏せられた。


 レオニスは、何も言わなかった。


 北の空を、見上げた。


 尾根の上には、星が、いくつも瞬いていた。


 峠の向こうの空だけが、白いままだった。

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